第五十話 雨の中の終止符
フィリスの叫び声が、バラバラと破片が飛び散る音に混じって遠くに聞こえる。
馬車を殴りつけたエディルの横、フィリスを逃がしたのと反対の方向にエリナは倒れ込んでいた。
馬を無理やり走らせた後、エディルが殴りかかる寸でのところでその場を飛び退いたのだ。
ギリギリで躱せたが、痛む左足をかばいながら、何とか立ち上がったものの、状況は最悪と言っていい。
動き回ることはできないし、武器もリネットから渡されたナイフだけだ。
身を隠せる場所、逃げるための馬、状況をひっくり返せる一手、助けてくれる仲間――どれも無い。
「ぐるぅぅぅ……がぁ!」
こちらに気がついたエディルがまた巨腕を振りかぶり、突っ込んでくる。
「……くぅっ!」
振り上げられた巨腕の下をかいくぐるように飛び込んで地面を転がった。
自分のすぐ上を重く固い重量物が通り過ぎる音がするのがわかる。
きっと当たれば骨が折れるくらいでは済まない。
急いで起き上がろうとエリナがもがく。
エディルも自分の巨腕の勢いでバランスを崩し、起き上がろうとしている。
もうエディルに知性と呼べるものは無いのだろう。ただただ突っ込んでくることしかしなくなり、そのおかげでエリナはギリギリの回避を続けられている。
何度も……何度も……
「はぁ……はぁ……」
とはいえ、同じ状況を延々と続けられるわけではない。
「もう……足が……」
立ち上がりはしたものの、頼みの右足も力が入らない。
飛び退き避けられるほどの余力は、もうなかった。
エディルの攻撃を倒れ込んで転がり直撃を免れたものの、身体のすぐ横で炸裂する衝撃に吹き飛ばされる。
「きゃぁ!」
吹き飛ばされた先、両手をついて上体だけは何とか起こしたものの、そこまでだった。
足の位置を変え、立ち上がろうと腰を浮かそうとするが、身体が言うことを聞かない。
「うぅ……もう、動けない、動けないよぉ……ルカぁ……」
必死になって耐えて頑張ってきた心はもう限界だった。
ボロボロと涙が溢れてくる。
「まだ一緒に……何もできてないのにぃ……」
ルカに付いていきたいのに。
広い世界を見て回り、経験し、そしてルカが見て感じるものを知りたいのに。
そう思って無理を言って付いてきた旅はまだ始まったばかりだというのに。
「……助けて……」
滲む視界の向こうで、エディルがまた巨腕を振り上げているのがわかる。
あれが振り下ろされたら、きっともう助からない。
兄さんにも、お義姉ちゃんにも、リサにも、そしてルカにも、もう会えない。
「……ルカ……」
不思議とゆっくり世界が動いているような感覚の中、エディルの巨腕が落ち始めた。
迫る拳が目の前まで来た刹那。
「させるかぁーーーー!」
――ゴンッ!
誰かの声と鈍い音が響き、エディルの拳が視界から消えた。
頬の横をゴウッ! と風が薙いで、エディルは振り下ろした拳ごとエリナの横を通り過ぎていく。
「ぁ――」
目の前に降り立った誰か。
その姿を、エリナは知っている。
青みを帯びた黒髪にショートソードと円盾を帯びた青年。
――そう、ルカの、後ろ姿。
涙が止まらない。
助けに来てくれた。駆けつけてくれた。その事実が嬉しくて。
心の中を覆い尽くしていた不安と恐怖がするすると解けていく。
自分とエディルの間に立ち、バランスを崩してもがくエディルが立ち直る前に、ルカは軽く大地に触れ、石壁を作り出した。
「《石壁》!!」
せり上がる石壁で視界を遮ると、ルカはすぐにこちらへ向き直って、エリナのすぐ横に片膝をついた。
心配してくれていたのか、眉尻を下げ困ったように、でも極力不安や恐怖を感じぬよう、優しく声を掛けてくれる。
「ごめん、遅くなった。身体は大丈夫か? 立てそうには……なさそうだな。」
「う……ぐすっ……うん……」
流れる涙を拭うこともせず、小さく頷く。
しゃくりあげるばかりで、言葉が続かない。
――ドォン!
「……っ!」
二人の視線が石壁に注がれる。
壁の向こうに重い轟音が響いた。その度、ルカの作った石壁が揺れ、細かい小石がパラパラと剥がれ落ちてくる。
向こう側で突然できた壁を突破しようと殴りかかっているのだろう。
「かなり厚く作ったんだけどな。長くは耐えられそうにないか……エリナ、安全なところに行こう。」
エリナがこくんと頷くのを見て、ルカはそっと彼女を抱え、立ち上がった。
「《旋揚》」
足元からつむじ風のように巻き上がる風を作り出し、ルカはトンッと石壁から距離を取るようにステップを踏んだ。
高度が上がりすぎてエディルから視認されないよう、低い位置で細かくステップを踏み、壊れた馬車の陰まで音を立てぬように移動する。
エディルからは直接見えない馬車の残骸の陰にそっとエリナを下ろし、ルカは一度だけその頭を撫でた。
「少し待ってろ。あの化け物を何とかしてくる。」
「……ルカ。」
「ん?」
立ち上がったルカを、エリナが呼び止めた。
少し落ち着いたのか、今は涙も止まっている。
「あいつ、エディルだよ。一緒にいた兵士と御者を殺して、フィリスさんを殺そうとしたの。」
「何だって……? いや、あれ人間じゃないだろ……」
ルカが石壁の方を見ながら驚きの表情をみせる。
赤黒い体表に、異常に発達したような上半身。顔の造形も変わってしまっているようで、エディルだと言われてもにわかには信じがたい。
「それはわかんない。いきなり苦しそうにしだしたと思ったら、あんな姿になったから。」
「そうか……でもあれじゃ会話もできそうに無いし、もう止まらないんだろうな……」
ルカが少し目を細めて呟いた。
ルカにもエディルの身に何が起こったのかは想像もつかない。だが、どう見てもまともな意思疎通ができそうには見えない。
加えて裏切り者であり、そして本能の赴くまま暴れ、周囲に襲いかかるのであれば、無力化などと生ぬるいことを言ってはいられないだろう。
この場で切り捨てるしかない。
小さく息を吐き、エディルの方を見据えるルカの目には、なにかしら決意した者の強い意志の火が光っているようにも見えた。
そして馬車の陰から離れ、エディルに向かって歩き出す。
ルカがショートソードを鞘から抜き放つのと、石壁が轟音と共に崩れるのはほとんど同時のことであった。
「うがぁぁーー!」
怒りなのか、苛立ちなのか、そういった負の感情が込められた咆哮。
とにかく目に映る動くものは何であれ、破壊せずにはいられない。そういった破壊衝動とも取れる鈍い闇がその眼窩の奥で光っているようにも見える。
その目がルカを獲物として見据えてくるが、ルカが怯むような様子はない。
ルカ自身は冷静にエディルを見据えている。
「――《敏捷性強化》」
小さく呟くように《敏捷性強化》を発動して素早さを底上げすると、足を前後に開き身体を半身にして、ショートソードを右脇から身体の後ろの方へ向けて構えた。
剣の出所が見えづらい、脇構えのような姿勢。
「うぼぁあああぁぁー!」
再度の咆哮と共に、エディルが真っ直ぐルカに突っ込んでくる。
決して速くはないが、極太の丸太を振り回しているようなものだ、そのプレッシャーも軽くはない。
「シッ!」
ルカはエディルの横をすり抜けるように踏み込む。
振るわれる腕を撫でるように下から切り上げた。
「ぐっ……!」
想像以上に重く固い。
ショートソードの刃がエディルの右腕上腕部に食い込むが、浅く切っただけで切断どころか骨までも届かなかった。
「(なんだこの感じ……筋肉を切った感じじゃない……)」
すり抜けた後に即座に身を反転させ、拳を振り抜いたままの姿勢のエディルを背後から左側へ抜けるように切りつける。
が、これも皮一枚という感じで、深い傷にはなっていない。
「はあぁぁぁーー!」
エディルの回りを細かくステップを踏みながら、ルカが剣を振るう。
エディルの動き自体は鈍く、ルカは一方的に切りかかっていた。
前腕、上腕、脇腹、腹部、胸部、背中、大腿部、腓腹部……
手を抜いているわけでも、力を抜いているわけでもないが、どれも切れはするが切断には至らない。
むしろ固い何かを殴りつけているような感覚に陥る。エディルの様子を見ても、大きなダメージになっているように見えない。
何度も切りつける中で、ルカは妙な違和感と既視感を覚えていた。
程度こそ違えど、刃物の通りづらいこの感覚。
ユージンの片手剣は食い込んだだけで、ニコの刺突もイアンの突きも深く刺さらない――
「(……黒狼と、同じ?)」
自分も最前線で何頭もの黒狼と戦ったからわかる。
あの黒狼を切りつけた感じに酷似しているのだ。しかもこちらの方が固い。
そして、同時に沸き上がる不安と焦り。
当たり前だが、振るえば振るっただけ刃物というものは相応に消耗するものだ。
普通の獣を相手にその肉や骨を断てば、血や油で切れ味は鈍り、骨で刃は欠ける。
それが黒狼やエディルのような"異様な肉体を持つもの"との連戦ともなれば、消耗速度がその比ではない。
「(既製品とはいえ、まだ新調したてだぞ……)」
次第に酷くなっていく嫌な違和感に冷や汗が止まらない。
刃先は次第に潰れ、切れ味が鈍り、柄と刀身の間に嫌な遊びができ始めたのか、ガタついてきているのがわかる。
「があぁぁーー!」
「ふっ!」
何度目かのエディルの攻撃。
直撃を避けるために腕の横から弾くように剣を叩き込んだ直後――
バキンッ! と乾いた金属の破断音が響いた。
「……っ!」
それを見ずともわかる。剣が折れた――
なんという肉体の強度なのか。おおよそ生物の身体が持つ強度ではない。
手元の武器が使い物にならなくなったルカは、バックステップで大きく後ろへ飛び退く。
右手に持った折れたショートソードに目を落とす。
メインウェポン無しに、どうやって戦い、どうやって倒すか。ルカは考えを巡らせる。
手元にあるのは、ショートソードと一緒に買っておいたダガー。
あとはアイオン・バングルの中に投擲用などで使えればと忍ばせた安物のナイフが数本と、そしてサテライトの整備室で見つけたセラフとダガー。
「セラフなら一発なんだろうけどな……」
だが、死体は見る陰も無くなりそうだ。あとからどうやって倒したのか、何か情報は引き出せなかったのか、などとセオ辺りに詰められることになりそうなのは、想像に難くない。
かといって「ブレーヴェの樹」で買ったダガーや投擲用のナイフではあの身体に致命傷を与えるのは難しいだろう。
「となると、これか。」
アイオン・バングルを操作し、整備室で手に入れたダガーを取り出した。
確かアリスが「かなりの逸品」と言っていたはずだが、結局その時は細かい説明を聞かずに流してしまっていたのを思い出す。
艶のある黒灰色の刀身。光の加減で黒の中に青とも紫ともつかない色が少し混ざった素材でできている。
また、素材の特性か、金属特有の光の反射がほとんど無い。どちらかというと、光を吸収しているようですらある。
刃渡りは二十センチほど。重量もちょうどよく、扱いやすい一振りだ。
いずれにしても――
「アリスが"かなりの逸品"って言うほどだ。何とかなるだろ。」
今度はショートソードの時とは逆に右半身が前側になるように構え、右手に持ったダガーを胸より少し下げた位置に持つ。
腰を少し落とし、怒り、雄叫びを上げるエディルに向かって、大地を強く踏み込む。
「おごああぁぁぁーー!」
「はぁっ!」
エディルの腕を掻い潜るように身体を沈ませ、伸び切った右腕の上腕を下側から薙ぐ。
――ズッ……
黒灰色の刃がルカが腕を振る勢いそのままに、するりとエディルの腕を"すり抜けた"。
「……はっ?」
エディルの背後まで走り抜けたルカは、不思議なものでも見るかのような表情で振り向いた。
ゴトリと落ちたのはエディルの右腕。
そのダガーはさしたる抵抗もなく、至極当然のようにあっさりと、あの硬かった腕を切断した。
骨を断つ感覚すら、感じなかったのである。
ダガーの刃の方は欠けたりすることもなく、付着した血や油も少量の雨粒に洗い流されるように雫となって落ちていく。
「(なんだこの異常な切れ味……一体何で出来てるんだ……)」
「あっ……ガッ……うぐあぁーーーー!!」
数拍の間を置いて、腕を切られた痛みからか、エディルが悲鳴じみた叫び声を上げた。
右腕の切断面から大量の血液を滴らせながら、残る左腕を振りかぶり、襲いかかってくる。
だが、ただでさえバランスの悪い体躯が、右腕を失いまともに動けなくなった今、ルカの速さにエディルが追いつくことはない。
「けが人がいるからな――」
エディルの横をすれ違うように高速で移動しながら、左腕も一刀のもとに切り捨てる。
「――終わりにさせてもらうぞ。」
背後に回り込んで、背中側からあばら骨の隙間を通すように、心臓へ一刺し。
無抵抗といっても良いほどにするりと刃先が吸い込まれていく。
「ガッ! アアアァぁぁああぁ―――!」
両腕を失い、心臓を突かれ、エディルは断末魔の叫び声を上げていた。
開いた口から赤い泡を吹き、両腕と背中からも大量に出血しているのがわかる。
ルカが突き刺したダガーを引き抜き、刀身についた血を振り払うと、エディルはガクンと膝を折り、そのまま前のめりに大地に沈んだ。
「――ァ……アァ……」
小さなうめき声を漏らしながら、立とうとしているのか、足を動かしもがいている。
だが、それも長くは続かず、次第に動きは鈍くなり、やがて完全に動かなくなった。
「ふぅぅ……」
深く、長く、息を吐く。
"エディルだったもの"を一瞥し、ルカはくるりと踵を返すとエリナの元へ向かった。
エリナの横に片膝を付いて話しかける。
「……ルカ?」
「終わったよ。後のことは他の人たちが到着してからにして、まずは一回皆と合流しよう。例のお嬢様の取り乱しっぷりも凄かったし、詳しい状況はわからないけど、ミリアさんも怪我してるんだろ?」
「そ、そうなの! ミリアさん、お腹刺されてるから、手当急がないと……痛っ……」
フィリスやリネット、ミリアに話が及ぶと、エリナはハッとして動こうとしたようだが、左足はもちろんのこと、体中細かい怪我や打ち身で、何をするにも痛みが襲う。
痛む場所を押さえ、うずくまるエリナを、ルカはそっと抱き上げた。
「ぁ――」
「ちょっと我慢してくれよ。」
「……うん。」
《旋揚》を使って、ふわりと浮く。
まだ日中ということもあり、人に見られるのは避けたいのか、ルカはかなり低い位置を維持したまま移動し始めた。
「ねぇ、ルカ。馬とかいないみたいだけど、助けてくれた時、どうやってここまで来たの?」
少し前から気になっていたことを尋ねてみる。
フィリスとリネットが巻き起こした爆発を見て助けに来てくれたのはわかるが、単身で馬も使わず、ここまで速く来れるだろうかと。
そもそもルカは隊列最後方にいたはずなのに。
「ちょっとな……」
少し困ったように眉を下げながら、ルカは何があったのか、少しずつ話して聞かせてくれたのだった。




