第四十九話 その身を以て
ゆっくりと近付いてくるエディルと対峙しながら、ミリアは必死に震えそうになるのを堪えていた。
それでも短槍の切っ先は小さく揺れている。
緊張と不安、そして恐怖。今すぐにでも逃げ出すことができたなら、どれほど楽だろうか。
でも、それはできない。覚悟を決め、最善を尽くさねばならない。
フィリスが馬車から出ることを決めた後、ミリアは手元のカードだけで何ができるかを必死で考えた。
そして馬車から出て、最初の狙いは後続部隊への情報伝達。
まず、リネットを下がらせてフィリスと合流させ、事前にフィリスに伝えていた指示を連携させる。
次に、自身がエリナと共闘する形で前衛となり、フィリスとリネットの前に立つことで二人の次のアクションまでの目隠しになる。これはエリナが左足を痛めていたために、少し想定外ではあったがなんとかなった。
そして可能な限り時間稼ぎをすることで、適性はあるものの感応術に不慣れなフィリスができるだけ大きな水塊を作る時間を作り、これにリネットの感応術で水蒸気爆発を引き起こす。
ここまではほぼミリアの計算通りに進んでいる。
だがそれもここまで。
フィリスにはいくつかやることを言い含めはしたが、正直なところ、この後はまともに戦えるとは考えていない。
エリナがまだ戦闘可能であれば多少の目もあったが、そう簡単に事は上手く運んでくれない。
リネットもそろそろ限界だ。あの盾もかなり消耗するようだし、かといって他にまともな攻撃手段も持っていない。
もう少しで短槍の間合いに入る。ふぅと小さく息を吐いて目を細めて、その瞬間を待つ。
その時だった。
――バシャッ!
馬車に寄り掛かるように立っていたエリナが、ミリアの後方、フィリスとリネットの方に向かって倒れ込んだ。
痛めた左足を引きずりながら、必死になって泥に塗れ、地面を這いながら進んでいく。
「(エリナさん……?)」
「あん? 今更逃げるんすか?」
エディルは一瞬だけ嘲笑するような笑みを浮かべたが、すぐに思い直したかのようにその笑みは消えた。
おそらく、エリナの性格的に逃走の可能性は低いと考えたのだろう。
それはミリアも同じだった。
この状況でエディルから目を離すわけにはいかず、エリナの動きが捉えられたのは視界の端に一瞬だけであったが、その表情には怯えも恐れもなく、必死になにか事を起こそうとしている、そんな顔だったのだ。
「(彼女はまだ、諦めてないのですね……)」
何をどうするつもりかはわからないが、まだ少しでも動き、なんとか力になろうとしてくれていることは、ありがたい。
であれば、諦めてはならないと、気を引き締める。
「え、エリナさんっ!」
目の前まで這ってきたエリナをリネットが抱え起こす。
「リネットさ……痛っ……あぁ……」
左足の痛みに顔を歪め、額に脂汗を浮かべるエリナだが、そのままリネットに抱きつくようにしがみつく。
「ちょっ、エリナさん……?」
突然抱きつかれたことで動きづらくなり困惑したリネットだったが、その表情は次第に困惑から驚きに変わる。
「……リネットさん、お願いします。」
「む、無茶です! 成功する自信なんてありません……」
「私もです。でもこれしか思いつかなかったので……」
「……わかりました。やれるだけやってみます。フィリスさんも、いいですね?」
リネットの表情は次第に覚悟を決めた者のそれになっていく。
小声で交わされる会話は、リネットのすぐ後ろにいたフィリスにも向けられていた。
「え、えぇ……もちろんです。」
若干の驚きと動揺はあったものの、フィリスも時間を置くことなく、表情を引き締める。
エリナが何を言ったのかはわからないが、やはり逃げようとしているとは考えづらい。
「(やっぱり逃走じゃねぇのか……だとして何ができるっていうんだ……?)」
エリナの理解できない動きに、エディルが警戒を強め、自然とエディルの足は止まっていた。
何をどうしようと、左足の痛みは戦いに耐えられる状態ではない。
それはさっきの動きを見ていても明らかだ。
「ふー……」
エリナはリネットから少し身体を離し、右足だけで立った状態でリネットに支えられながらエディルの方に向き直った。
そのまましゃがみ込むようにして、両手を地面につく。
その右手にはリネットから渡されていたナイフを握り込んでいた。
「……《膂力強化》」
エリナが目を閉じて小さく小さく雨音に隠れるように呟く。それは全身の筋力を上げる感応術だ。
彼女の体温があがり、少し肌が紅潮しているのがわかる。
踏み込みの瞬間に滑らないようにと、右足を二、三度地面にねじ込む。
エリナが目を開き、ミリアとそして対峙しているエディルを見据える。
「ミリアさん!」
「えぇ!」
屈んだ状態から、右足に意識を集中して《膂力強化》で強化した筋力に任せて一気に踏み出す。
踏みしめた大地が爆ぜ、その背後に抉れた土が吹き飛ぶと、その刹那にエリナの身体は一気にトップスピードに加速した。
そうして飛び出した先はエディルの頭上。剣も届かぬほど高く、エリナの身体は宙を回りながら飛び上がり、彼女の身体は天地が反転していた。
「なっ……!」
突然の飛び出しにエディルが一瞬呆気にとられたかのように呆ける。
エリナはそのまま伸びた右足を折り曲げて、叫ぶ。
「リネットさん!」
「《風爆》!!」
パァン! と弾ける音がしたのはエリナの上。彼女が強く蹴り込んだ空中の一点で感応術の音と衝撃が炸裂する。
瞬間、落雷の如くエリナの身体が地面に向かって急加速した。
まさかの頭上からの攻撃にエディルの目が見開かれる。
「はぁっ!」
エリナはそのまま真下にいるエディルに向かって、右手に握り込んだナイフで切りかかった。
「くっ!」
いきなり上空から降ってきたナイフに、半歩ほど下がりながら無理やり身体をひねるようにして、エディルが回避する。
しかし予想外の場所から予想外のタイミングで繰り出された攻撃に、バランスを保つことができず、エディルの身体は横に流れていく。
「そこっ!」
体勢を立て直そうとしているところへ、ミリアの突きが一閃。
「ちぃっ!」
ギィン! と甲高い音がして、エディルの剣がミリアの短槍を打ち払う。
無理な体勢でミリアの槍を捌いたところで聞こえるのはフィリスの声。
「《水撃》!」
ダメージを与えられるような強いものではないが、水の塊がエディルを襲い、一瞬だけだが視界を奪う。
ミリアの攻撃とフィリスの感応術の間に体勢を立て直したエリナは、すかさず次の行動に移っていた。
今度はエディルの後ろ側へ回り込むような軌道で飛び、またリネットの《風爆》で無理やり方向転換する。
そうしてミリアの横へ向かって戻るように飛びながら、すれ違いざまにエディルへナイフを振りかざす。
「やぁっ!」
「こいつっ!」
今度はナイフを剣で弾かれた上に、タイミングを合わせてエリナの背中を強く蹴りつける。
「かはっ!」
エリナの身体は飛びかかる勢いとエディルの蹴りが合わさって、馬車の後ろ側へ十数メートルほど吹っ飛んでいった。
背中から地面にろくに受け身も取れずに落ち、ゴロゴロと転がっていく。
「げほっ! ごほっ!」
背中を走る激痛に顔を歪めながらも、次のアクションのために、何とか体勢を整えようと藻掻く。
「やぁ!!」
エリナを蹴り、ミリアに背中を見せたエディルへ、すかさず短槍を振り下ろすように叩きつける。
エディルが身を引いてこれを躱そうとするが、手を引ききる前にその手に持った剣を強く打ち付けていた。
「くっ! ……こ、のぉ!」
強い衝撃にエディルが剣を手放してしまうが、身体をぐるりと回して、その勢いのままミリアに回し蹴りを放つ。
「きゃあ!」
ゴキッ! と鈍い音と共に回し蹴りの衝撃がミリアを襲う。数メートル跳ね飛ばされ、馬車の前方で前のめりに倒れ込んだ。
右腕とその下の右側胸部に激痛が走る。腕が上がらず、息を吸うと痛みが酷い。
二の腕と肋が折れているのは間違いないだろう。
「ミリア! あ……《水撃》!!」
パシャンと水が跳ねるが、慌てて放ったフィリスの感応術では目隠しにもならない。
エディルは、跳ねる水を面倒そうに避けながら、先ほど落としてしまった剣を拾い上げた。
「《風爆》!!」
エディルが屈むのに合わせてリネットが感応術を放ってみせたが、こちらも来るのがわかっていれば回避するのは容易い。
軽くステップを踏むように、一歩だけ下がって躱す。
「あ、ぐっ……ごほっ! いっ! ……姫、さま……お逃げ……を……」
身体を起こそうとするも、身体が激痛で思うように動かせない。
エリナは馬車の後方へ、ミリアは馬車の前方へ、それぞれ距離を開けてしまった今、エディルとフィリスの間を遮るものは、リネット一人。
そのリネットはというと、速く浅い息をしながら、目だけはエディルを見据えている。
しかし彼女もそろそろ限界だ。たまたまの思いつきと極限状態下の集中力でどうにかやってきただけで、元々感応術士としての能力は高くない。
加えて緊張状態で精神的に昂った状態のまま、常時全力を出し続けている状況だ。
降り続く雨に全身が濡れそぼり、身体は冷えて更に体力を奪っていく。
「それ以上は、近寄らせません……《風の封壁》!」
震える両手を身体の前に構え、三度目の盾を作り出す。
周囲の空気を取り込むようにリネットの前に不可視の渦が発生し、次第にひし形の盾を形成していく。
「はぁ……はぁ……」
顕現した盾は、緑。
盾自体の形も輪郭も、どこかはっきりとしない。
時折うっすらと赤が差す瞬間もあるが、先ほどまでのような周囲を焼くような高熱も感じられない。
もはやその形を保つだけで、精一杯だった。
「さっきまでのプレッシャーも感じないし、そろそろ諦めるしかないんじゃないっすか? もう限界っしょ。」
エディルが横一閃に剣を振ると、目の前の盾は上下に分かたれ、盾の形に押し込められていた風が霧散していく。
「そ、そんな……」
もはやリネットは自分の身体を支えることもできず、バシャッと泥を跳ね上げながら、地面にへたり込んだ。
「ウ、《風の封壁》……!」
四度目は不発。
うっすらと風が頬を撫でただけで、発動すらしない。
「(ダメだ……もう何も……できない……)」
目の前にかざしたリネットの手は、力なく崩折れた。
もう自分には何もできない、戦えないと、心が諦めてしまう。
ギリギリで耐えていた気持ちが決壊して、雨粒と共に涙が頬を滑り落ちていく。
「リネットさん、大丈夫。私が……守ります!」
「……え?」
リネットが顔を上げると、そこにいたのは後ろにいたはずのフィリスだった。
座り込んでいるリネットの前、細剣を片手に立っている。
対峙するエディルも剣を構えている。もうフィリスとエディルの間には何もない。
エディルが一歩進む。フィリスも応じるように一歩前に出る。
「だ、だめ……フィリ……殿下ぁ! ダメ、ダメですぅ! 逃げて、逃げてぇー!」
リネットの手は届かない。
エリナも飛びかかれるような体勢にはなっていない。
ミリアも動こうとする度に肋に響く痛みで動けない。
「やっと終わらせられそうっすね。」
「えぇ……最後まで抗いはしますが、私が貴方に勝つのは難しいでしょうね。」
「まぁ、俺も一応は仕えた身として、綺麗に死ねるように心臓を一刺しにしてあげるっすよ。」
フィリスが細剣を持つ右手を前に、半身になって構えを取る。それは細剣使いとしての基本の構え。
対するエディルは剣を持つ右手を引き気味にし、剣の切っ先をフィリスへと向ける。
そして、数拍の間の静寂。
すべての音がなくなったかのような錯覚。雨音も、風の音も、呼吸も心臓の拍動も、何も聞こえない。
ふと、どちらからともなく二人は前へ踏み出した。
「フィリスさん!」
「殿下ぁ!」
二人の剣を持つ手が伸び、細剣と剣、双方の突きが交錯するその瞬間。
ドンッ! という鈍い衝撃がフィリスを襲った。
エディルの胸元を狙った刺突が右へズレ、エディルの左腕を切っ先が掠めながら、大きく右へ"突き飛ばされる"。
「きゃっ!」
突き飛ばされた衝撃で数歩たたらを踏むように進んでそのまま膝をつく。
「な、何?」
フィリスが振り返って見たものは、エディルの右肩を左手で掴んで立つミリアの姿。
その左脇腹にはフィリスの心臓を狙っていたはずのエディルの剣が深く突き刺さり、左下背部に切っ先が見えている。
「ミ……リア……?」
思わず身体が動いていた。
フィリスとエディルがそれぞれの剣を振るえば、力も速さも技量も体格も、すべてに劣るフィリスが勝てる道理は無い。
だから、二人が交錯する前に、何とかしなければ、と。
右腕と肋の痛みは確かにあった。走るために腕を振れば、上体を捻れば、踏み出す足の衝撃が響けば、激痛がミリアを襲った。それでも。
フィリスの後ろ側で涙を流しながら彼女を止めようと手を伸ばすリネットでも、遠く吹き飛ばされ強打した背中と痛めた左足の痛みから動けずにいるエリナでもなく、自分が行かなければ、と。
そして駆け寄った自分にできたのは、勢いそのままにフィリスを突き飛ばし、エディルの突きから救うことだけ。
フィリスを押しのけることに成功し、安堵したその瞬間、左の脇腹が酷く熱を感じたのがわかった。
自分が刺されたのだと理解するのに時間はかからない。
熱さはやがて強い痛みに変わり、くぐもったうめき声が自分の口から漏れ出るのを追うように、喉の奥から暖かい何かが込み上げてくる。
「うあぁ……ごっ! ごほっ! ごぼぉ!」
ミリアがその薄い口から、真っ赤な鮮血を吐血した。
侍女服が吐き出した血で胸元からみるみる赤く染まっていく。
「ミリア!」
「「ミリアさん!」」
三人の悲鳴にも似た声が響き渡る。
「しぶとく邪魔してくれるっす……ねっ!」
返り血で赤く染まった右手に力を込め、エディルは強引に突き刺さっている剣を引き抜いた。
数歩下がって剣にべっとりと付着した血を振り払う。
「う、あぁっ!」
激しい痛みにうめき声を漏らしながらも、エディルがフィリスを追わぬよう、かろうじて動く左手でエディルを掴もうと手を伸ばすが、足は前に出ず、伸ばした手も虚しく中を掻くだけ。
すぐに立っていられなくなり、ミリアは前のめりに倒れた。
腹部の傷から流れる血が、水たまりの水を赤く染めていく。
「姫さ……ま……逃げ……て……」
痛みを堪えながら、逃げるよう懇願するミリア。
「ミリ、ア……」
逃げなければならないことは分かっている。
でも身体は動いてくれない。
本当に逃げてもいいのか。エリナを、リネットを、何よりも目の前で倒れているミリアを置いて。
できない。逃げたくない。
でも早く動かなければ、エディルはすぐにでも――
「……?」
動かなかった。
フィリスが視線を上げると、エディルは虚空を見ながら、眉をひそめ、少し焦ったような表情を浮かべて止まっている。
歯噛みしながら、どこかを睨みつけたかと思った次の瞬間、その目が大きく見開かれた。
「おまぇ、何……しやがった……」
この場にいる誰に向けてでもない、見えない誰かに向かってエディルが問いかけている。
その目に怒りと憎悪の光を滲ませ、うめく。
「う……あ……頭、が……ア、シェラ……」
エディルはカランと剣を落とすと、両手で頭を抱えながら、よろよろと後退する。
額に脂汗を滲ませ、その顔色は酷く悪い。
「あ、がっ……があぁあぁああーーーー!」
大きく胸を反らし、虚空へ向かって叫ぶ。
明らかに正常ではないが、何が起こっているのか、見当もつかない。
見開かれた目の奥、眼球がぐりぐりと動き回り、目や鼻、耳から血の混じった体液が流れ出ていた。
「な、何……!?」
いつも軽口を叩きながら、飄々としていたエディルの面影はどこにもない。
身体中の皮膚に赤黒く血管が浮き出てきて、不気味に脈打っているのがわかる。
人が人ではなくなっていくようなおぞましさに、フィリスが恐れ慄いていると、その空気を切り裂くようにエリナの気迫のこもった声が響き渡った。
「はあああぁぁぁー!」
ようやく体勢を立て直したエリナが、強く大地を蹴りつけてこちらへ突っ込んでくる。
勢いそのままに白目をむいて叫ぶエディルの腹に、右足で全体重を乗せた全力の蹴りをぶち込み、吹き飛ばす。
「ウゴぉぉぉおおおーーー!」
エディルは十メートル程飛ばされ倒れた先で、まだ頭を抱えて悶絶し叫んでいる。
身体の変化も続いていて、左腕が一回り、いや二回りほど肥大化しているのが見て取れた。エリナのダガーで切られた傷も盛り上がる血肉に埋まり、その跡は見えない。
エディルの身に何が起こっているのかわからないが、少なくとも今すぐ襲いかかってこないのであれば、急いでどこかへ逃げるか隠れるかして、ミリアの手当てをしなければと、周囲を見回す。
「フィリスさん! リネットさん! 早く! ミリアさんを安全なところへ移動させて手当しないと!」
エリナがミリアの身体を仰向けにして、顔を支えるようにしながら、二人を呼ぶ。
ミリアの怪我は楽観視できるようなものではない。出血は少なくないし、このままでは彼女は命を落としてしまう。
「私じゃミリアさんを支えられないの! 早く!」
左足を痛めたエリナでは抱えることも支えることもできない。
エリナに強く言われ、リネットが慌てて動き出した。ミリアに駆け寄り身体の状態を確認する。
軍に所属しているだけあって、リネットは応急処置の指導を受けているが、さすがに実際の刺創を見るのは初めてだ。
穴の開いた侍女服の隙間から、傷を確認するも、次から次へと出てくる血液に、リネットの表情がみるみる青くなる。
「は、早く止血しなきゃ……えっと、ど、どこ? どこで処置すれば?」
冷静でいることができない。フィリスはそばで小さく震えるばかりで、エリナはまだマシなようにも見えるが、どうすればいいかの判断ができずにいる。
「皆さん……落ち……ついて。」
「ミ、ミリア?」
小さく聞こえたミリアの声に、フィリスが今にも泣き出しそうな顔を上げた。
当のミリアは、顔を少しエディルの方に傾けて、その様子を観察しているように見える。
「皆さん……耳を、貸して……下さい。」
三人はミリアの声が聞こえるように、彼女のすぐ横に集まる。
ミリアは途中言葉を詰まらせ、途切れ途切れになりながらも、やるべきことを伝えていく。
兎にも角にも、後続部隊からこちらの状況を確認しにくる人員と早期に合流できるよう、自身の手当は最小限にし、早々にこの場を離脱するべきだ、と。
三人は顔を見合わせ、すぐに動き出した。
エリナが遠目からエディルの様子を警戒し、そのうちにリネットがミリアの応急処置を行う。
見様見真似でしかないが、やらないよりはマシだ。馬車の中に積んであったフィリスの着替えを細剣やナイフで扱いやすい大きさに切ると、救護セットに入っていた布と一緒に重ね、ドレスの腰部を締め上げる帯を使って傷口を押さえる。
「二人とも、急いで!」
エディルを警戒しているエリナの声が飛ぶ。
フィリスが見やるとエディルの身体はもはや人間と呼ぶことを躊躇う程に、異形のものへと変化していた。
赤黒いのは皮膚に浮かび上がった血管だけだったはずが、全身に広がっている。
身体のシルエットも左腕だけではなく、上半身全体が肥大化していて、何ともアンバランスな体躯だ。
「あぁ……う、がぁ……」
半開きになった口からダラダラと赤い涎を垂らし、落ち窪んだ眼窩の奥は暗く、穴が空いたようにすら見える。
「う、馬の準備、できました!」
リネットが馬車を引いていた二頭の馬を、馬車から切り離して連れてくる。
今の時点で一番まともに馬を操れるのはリネットだ。フィリスは乗馬訓練自体をほとんど受けておらず、エリナは痛めた左足のせいで鐙に掛けた足で身体を支えられない。
リネットが馬に跨り、三人でミリアをリネットの後ろに座らせると、馬を馬車に繋いでいた革紐の余りを使って、ミリアが落馬しないようリネットの身体に括り付ける。
「リネットさん、先に行って下さい!」
「ミリアをお願い……っ!」
見ればエディルが両手を地面について、立ち上がろうとしている。
肥大化した上半身のせいでバランスが悪いのかフラフラとしているが、立ち上がってしまうのも時間の問題だ。
リネットはエリナとフィリスの二人を振り返り、小さく頷いた。
「では行きます! お二人も早く!」
リネットとミリアが跨る馬が走り出す。
顔だけをこちらへ向けて、心配そうな表情をしつつ、リネットは止まらない。
ミリアの身体を気にしながら、次第に遠くへ離れていく。
少しずつ小さくなっていく二人を見ながら、もう一頭の馬の鐙にフィリスが足をかけ、跨がった時だった。
「がああぁぁ……!」
エディルが立ち上がり、左右へふらつきながら、動き出していた。
ズンズンと鈍い音で大地を踏みしめながら走り、少しずつその速度を上げているように見える。
それを見たエリナの表情からさっと血の気が引いた。喉の奥がキュッと締め付けられるような感覚。
「(は、早く……乗らなきゃ……ううん、ダメだ。私が乗ってたら間に合わない……っ!!)」
どうする? どうすればいい?
どんどん迫ってくるエディルを見たフィリスは、鞍上で青ざめたまま、動けずにいる。
「(もう、これしか……)」
エリナは馬から一歩下がり、大きく息を吸って手を振り上げた。
「行けー!」
――バチンッ!
訓練された馬は、人の声をちゃんと聞く。それが命令だとちゃんと理解している。
そして同時に尻を叩き、きっかけを与えてやれば、鞍上の人間が指示を出さずとも――走りだす。
「ヒィーン!」
「きゃっ! え、エリナさん!?」
突然馬が走り出したことにフィリスは驚くが、乗馬自体に慣れていないフィリスには手綱を握る余裕はなかった。
振り落とされないように馬にしがみつくことしかできない。
どんどんエリナを置いて離れていく。
「エリナさん!」
何とか後ろを振り向くことができたとき、フィリスの目が捉えたのは、エディルが大きく振りかぶった巨腕の一撃で、馬車の壁を粉々に破壊する瞬間だった。
跳ね上がる泥と砕けた馬車の破片が舞い、エリナの姿は確認できない。呼びかけにも答えはない。
そうしている間にも馬は走り続け、エリナはおろか、馬車もエディルも見えなくなってしまった。
「エリナさーーーーん!」




