第四十五話 裏切りの雨
フィリスとミリアが乗った馬車が離脱し始めて十数分が経った。
朝から空を覆っていた雲が少し厚くなっていて、雨が近いのか、空気も湿った感じがする。
背後の荷馬車やその後方の隊列は、街道のカーブや丘、小さな林などの向こうに見えなくなっていた。
「エディル様、セオ様の指示より急いでるようですが、いいんで?」
御者の男が、すぐ前を馬で進むエディルに問いかけた。
「まぁ指示通りでは無いっすけど、うしろのみんながやられちゃった場合のことを考えると、距離は稼いでおきたいんすよ。まぁ向こうには隊長がいるんで、滅多なことは無いと思うっすけどねー。」
肩越しに御者へ目を向け、故意に離脱速度を速める理由をエディルが説明する。
「なるほど、馬には負担を掛けてしまいますが、仕方ありませんな。」
自身の前で馬車を引いてくれている馬を見ながら、御者は小さくため息をつき、頭を振った。
「リネットさん、このあと後ろのみんなとの合流ってどうするのか知ってます?」
「えっと、通常は指揮官や担当者間で事前に決めるので、エディル様がセオ様やノア様と相談してらっしゃるんじゃないかと……」
「そうですか……」
エリナは不安気な表情を浮かべ、遠く後ろを眺めている。
「(ルカたち、大丈夫かな……)」
任務中の担当場所や役割が違えば、こうやって離れ離れになる可能性があることは容易に想像できるし、エリナももちろん理解はしていた。
そもそもフィリスのいる馬車近くが持ち場の自分と、隊列最後方が持ち場のルカやアーヴとは、常に離れていたわけだし。
ただ、そこにいるはずと思っていた二人が全く目の届かない距離に離れてしまったのは、想定外だったしその分不安にもなる。
「セオ隊長も最後方に行かれたみたいですし、きっと大丈夫ですよ。」
エリナがあまりに後ろばかり気にしていることに気がついたのか、リネットが元気づけようと話しかけてくれた。
ほんの少しではあるが、気も紛れてありがたい。
そうしてさらに進んでいくと、ヴァルグレン山脈の東端にある岩山「グレイヴォル岩峰」沿いに出た。街道の左手は切り立った崖が壁となってそびえ立っている。
反対に街道の右手は木々や茂みが多く、地形としては平坦だが、見通しが悪い土地が広がっていた。
「あ、雨ですね……」
リネットが見上げた空からは、ポツポツと雨が降り出していた。
少しずつ雨足は強くなっていくが、それほどひどい雨にはならなさそうだ。
街道を進むにつれ、一行が通り掛かる前から雨が降っていたのか、地面には少しずつ水溜りや泥濘みが散見されるようになってきたが、まだ馬や馬車の移動に問題が出るほどではない。
「だいぶ進んできましたし、いい感じに離れたんで、そろそろっすかね……っと!」
馬車の前方、エディルはもう一人の騎兵と並んで進んでいた。
その彼の何か少し力んだような声がしたことに、エリナが違和感を覚えた次の瞬間、雨粒ではない何かが頬にかかった。
雨粒よりも少し生暖かい、何か。鉄のような生臭さが鼻腔をくすぐる。
違和感が疑問へと変わり、エリナとリネットが視線を前方に移した。
そこに二人が見たもの。
ドサリという重たい音と共に、声を上げることすらなく鞍上から落ちる首のない騎兵。
「え、エディル様! 何をっ! ……がはっ!!」
そして、驚きの声を上げた瞬間に肩から心臓の辺りまでを袈裟懸けに切り付けられ、今まさに絶命しつつある御者。
肺ごと斬られた御者が、ひゅーひゅーと喉を鳴らしたように聞こえたが、その音はすぐに聞こえなくなった。
凍るような冷たい目で御者が死にゆく様を見届けたエディルは、御者を切り捨てたその刃を引き戻す。
御者の身体が崩折れ、手綱に引っ掛かる。すると馬車を引く馬たちは、手綱を引かれたものと思ったのか、ゆっくりとその歩みを止めた。
自身の乗る馬が行き過ぎた形になったエディルは、馬を回頭させると、ゆっくりと回り込むようにして、馬車の横、扉の正面に相対した。馬車とエディルの間に、エリナとリネットという位置関係。
「……な、何を……?」
止まった馬車のステップから、リネットが力が抜けたかのように降りる。いや、落ちたという方が正しいかもしれない。
濡れた地面に膝をつき、息をしなくなった御者と倒れた兵士から目を離せないでいる。
エリナも顔が引きつったまま、動けない。
御者が呻いた声が聞こえ、馬車が不自然に止まったためか、馬車の小窓が小さく開き、中からミリアが顔を出した。
「何事ですか? 馬車が止まっていますが、セオ様たちとの合流という感じでは……」
小窓から見えたのは、膝を付いたリネットの頭と、立ち尽くしているエリナの背中。
その向こうに視線を向けた時、ミリアの視界に飛び込んできたのは、鞍上で血に染まった剣を携えたエディルだった。
「エディル殿、一体どういうことですか……?」
明らかに異常な空気に、ミリアは背筋が冷たくなるのを感じていた。
あの血は何だ? リネットはなぜ膝を付いている?
ちょっとやそっとのトラブルではないのはわかるが、小窓から見える限られた情報では、何も判断できない。
尋常ではないエリナとリネット、そしてエディルの様子に、ミリアが言葉を失っていると、小窓の下で膝を付いたままのリネットが、震える声で呟いた。
「エ、エディル様が……兵士と御者を……殺しました。」
「なっ……!!」
ミリアがその目を見開いた。
ミリアの後ろで、その声を耳にしたフィリスも同じだ。驚きのあまり、声も出せずにいる。
「……っ!」
ミリアの頭がすぐに切り替わった。
今、この場でどう動くべきか。
立てこもる? 逃げる? フィリスだけでも逃がす? どうやって?
馬車の中に何かないかと見回してみる。緊急用の物資はあるが、事態を打開できそうなものは見当たらない。
そこへ感情が抜け落ちたような表情のエディルが口を開いた。
「動くのはおすすめしないっすよ、ミリアさん。戦闘力と機動力のあった騎兵と移動の要の御者は死亡。馬車の出口は一つで、護衛は頼りにならない女の子が二人。仮に馬車から出て走って逃げたとして、貴族令嬢が騎士に追われて逃げ切れるっすか? 無理でしょ?」
いつもの軽薄そうな口調は変わらないが、その表情と同じく、淡々と感情のない声。
「ミリアさんにできるのは、その窓を閉じて、扉に鍵を掛けてたら、女の子二人の悲鳴を聞きながら助けが来る僅かな希望にすがるだけ……まぁそれも十分に距離を離したんで、間に合わないっすよ。」
「くっ……!」
ミリアは歯を食いしばるだけで、何の反論もできなかった。
言われた通り、少しでも長くフィリスを守るには、立てこもる以外に良い策が思いつかない。
「ほんと、想定外だらけで大変でしたよ。ルカさんの感応術のせいで夜襲はできないし、今日の襲撃もあっさり気付かれるし。予定では後方部隊の警備兵辺りは半分は死んでるはずだったんすけどね。」
エディルはその場で馬から下馬した。
馬の首を数度ぽんぽんと叩き「後でなー」と声をかけると、馬は一度だけいなないてその場を離れていく。
おそらく馬を傷つけられることで後々逃走に困ることが無いようにということだろう。
「案外襲撃部隊に気がついたのもルカさんっすかね? ネクサバードまで使って襲撃タイミング調整したのになぁ……まぁこっちにも事情があるんで傭兵として付いてきてもらいましたけど、俺にとっちゃ疫病神かもっすね。」
血のついた剣を一振りして、刃についた血を飛ばし、刃の状態を確かめている。
相変わらず感情の読めない表情のままだ。
「なんでこんなことしたんですか……一体何が……」
立ち尽くしていたエリナは絞り出すようにエディルに問いかけた。
「さっきまで普通に話したりしてたのに……っ!」
「だから何すか? 人間誰でも事情や目的ってもんがあるっしょ? そのために不要なものや邪魔なものは排除しとかなきゃダメっすよ。」
言っている意味が良くわからない。今までいがみ合うでも喧嘩するでもなく、普通に接していたはずの相手を、事情や目的のため、不要だ邪魔だと排除できるその心理が。
「じ、事情や目的? 人を殺してまでやるべきことなんて……」
「あるんすよ。そういうオーダーなんで。殿下は邪魔らしいので消えてもらって、警備兵たちは狼の運用試験のためのエサになってもらうっす。あとはルカさんの行動追跡ってオーダーもあったっすね。」
エディルはさらりと言い放った。
「えっ……!? オーダーって、い、一体どういう……」
「指示っすよ、指示。俺の希望を叶える、その見返りにやるべき指示。皆そうでしょ? 金もらうために組織や上官の指示に従うじゃないっすか。」
剣を持った右手をだらりと下げ、一歩前へ出る。
決して威圧しているわけでも、斬りかかろうと力んでいるわけでもないはずなのに、その踏み出された一歩にエリナの表情は引きつり一歩分下がりそうになる。
しかし、背後は馬車。下がれるスペースは無い。
その時、何かが背中に触れた。
「エリナさん。リネットさんも。」
背中に触れたのは小窓から伸ばされたミリアの手だった。
小さく震えてはいるが、雨に濡れて少し冷えた身体を支えてくれる温かい手。
「落ち着きましょう。今はあれこれ考えても仕方ありません。」
まずは落ち着くこと。頼りなかろうがなんだろうが、二人に頑張ってもらうこと。それは最低限必要なことだ。
できることはほとんどないとはいえ、一分一秒でも時間を稼ぐことが主君の命を長らえる可能性につながるのだから。
外の二人から順に命の危険にさらされる。その事実を飲み込み、ミリアは二人に語りかけた。
「二人とも、私には何もできませんから、最後は私がフィリスさんの盾になります。その代わり、フィリスさんの剣になっていただけませんか?」
「み、ミリア!」
ミリアの懇願するかのような願い。
フィリスもミリアも分かっている。
二人を戦わせることが二人にとって危険な行為であるということが。
しかし、ミリアにそれ以外の選択肢はない。彼女にとってはフィリスを守ることが何よりも優先されるべきことだから。二人が力尽きようと、自分の命が失われようと、可能な限りフィリスを守る。
騎士でも兵士でも、誰かが駆けつけてくれる奇跡を信じて。
「フィリスさん……いえ、姫様。エディルの言う通り、できることはほとんどありません。ですから、私が貴女を守り、彼女らが彼を打ち倒す。それを信じましょう。」
ミリアは努めて冷静に、そして優しく、フィリスに声を掛けた。
生きるのは無理だと、不可能だと諦めてはいけない。フィリスに絶望などさせてはならない。
貴女は大丈夫なのだと、何の心配も無いのだと、信じられるように。
「エリナさん、リネットさん、私はお友達を守らねばなりません。力を貸して、もらえますか?」
もう一度、二人に問いかける。
リネットはまだしも、エリナとはほんの数日共に過ごしただけの関係だ。
仕方がないとは言えないが、断られても、逃げられても、それは自然な行動でしかない。
だから、二人が立ち上がり、ミリアの言葉通りフィリスの剣となってくれるかは、分の悪い賭けだった。
「うぅ……ぐすっ……」
膝をつき、いつからか不安と恐怖からか、泣き出していたリネット。
雨に打たれた寒さなのか、不安や恐怖なのか、ガタガタとふるえる膝を左手で抑え、右手を馬車のステップについて立ち上がろうとする。
「ごめんなさい……わ、私怖くて……何もできないです……力も技術も無いです……でも、でもぉ……自分が死ぬのも、みんなが死ぬのも嫌ですっ!」
ローブの裾で止まってくれない涙を拭う。
足の震えも止まらない。それでも……
一人の感応術士として、軍人として、なにより友だちになりたいと言ってくれた、姫様のお友達として。
なけなしの勇気を振り絞ってリネットは立ち上がった。
「あらあら、なんにもできないのに頑張っちゃうんすか……エリナちゃんはどうするっすか? 何もかも全部忘れて逃げるっていうなら、ほっといてあげるっすよ。」
「……」
エリナは口を真一文字に結んだまま答えない。
背中に添えられたミリアの手から離れるように一歩踏み出し、腰に下げられたダガーに手をかける。
人を殺すことも、人を刃物で傷つけることも、人と本気で切り合うことも、もちろん経験はない。
やってきたことは害獣扱いされている動物か、ルカやアーヴとの訓練くらいのものだ。
「(勝てなくっても、負けないようにしなきゃ……)」
エリナは少しだけ腰を落として、いつでも動けるように身構える。
「エリナちゃんもっすか。いやぁ、女の子たちの友情ってのも馬鹿になんないっすねぇ……はぁ~」
エディルは呆れたように手を広げて、わざとらしくため息をつく。
誰の目から見ても明らかなほどに舐めてかかっている。
「(でも兵士の首も、御者のおじさんの身体も、一太刀で切り捨てた。剣の腕も力も私よりずっと上のはず……)」
どう攻めれば、どう守れば、そもそもどう戦うのか……参考にできそうなことなど、ルカやアーヴとの手合わせしかない。
ルカは、アーヴは、何て言ってた? こんな時、どう戦えって言ってた?
「(受けに回っちゃダメだ。悩むくらいなら、相手に考えさせないくらいに踏み込んで攻めろ!)」
「じゃあそろそ――」
「(懐に……飛び込め!)」
エディルがその言葉を言い切る直前。
不安と恐怖を歯を食いしばって耐え、全力で踏み込む。
低い体勢のまま、一足飛びにエディルの足元まで迫ると、右手に握り込んだダガーをエディルの胸元へ逆袈裟に切り上げた。
「おっと! 思い切りはいいっすけど、まだ踏み込みは甘いんじゃないっすか?」
だらりと下げられていたはずの剣を、エディルはエリナのダガーに沿わせるように振り上げていなす。
「……っ!」
あっさりと打ち払われたこと自体、わかっていたことではあるが、傷をつけるどころか、こともなげに捌かれてしまったことに焦りが出る。
かといってこのまま止まるわけにはいかない。
刃を交えた瞬間の衝撃で手が痺れるのも構わず、ダガーを振る。
胸、喉、腹、手首……その時その時で何とか攻撃の通りそうな場所へダガーを向けるが、届かない。
笑いを堪えられないのか、口元を歪めてニヤリと笑みを浮かべ、エリナのダガーを流れるような剣捌きでいなし、弾く。
「ほっ!」
突然、エディルの右手がしなる。
ゾクリと悪寒を感じ、踏みとどまって顔を背けた瞬間、先ほどまでエリナの顔があった空間をエディルの剣が薙いでいった。
「上手く躱したっすね。じゃあこっちからも行くっすよ~」
エリナが剣閃を躱した瞬間に生じた一瞬の間に、あっさりと攻守が入れ替わる。
縦、横、斜め、そして突きを織り交ぜ、エディルが剣を振ってくるが、エリナはすべてを綺麗に躱していた。
縦に来たり、突いて来たら横にステップし、横に来ればしゃがんだり、小さく跳躍。斜めに来ればバックステップ。
躱せているが、苦も無く躱せている事実に違和感しか感じない。
「(なんだか、遅い……?)」
続けて攻撃させてはくれないが、時折反撃の機会も無くはない。
「まぁ、ここまで手を抜けばさすがに戦えるみたいっすね。にしてもやっぱり速いなぁ……」
やはり、手を抜いている。
まだ余裕なのだ。エリナ程度、いつでも倒せると思っている。
「くっ……!」
ふざけるな! と噛みつきたいところではあるが、まだエリナは冷静さを保っている。
いつまでもこのまま長引かせてはくれないだろうが、焦っても怒ってもいいことは無い。
エディルが手を抜いているうちに、自分が冷静に対処できているうちに、傷の一つでもつけられれば、有利とは言わないまでも戦いを引き伸ばしやすくはなるはずだ。
次に縦か突きで来た時に、できるだけ小さく躱して一太刀叩き込む。
腹をくくってエディルの攻撃を躱し続けること数度、エディルの突きを右に躱してエリナが踏み込んだ。
「やぁっ!」
エリナが伸ばした右手を、エディルは突きの体勢のまま軽く身体を捻って躱し、右手の剣を引き戻しながら左の手の付け根でエリナの頬を打ち据えた。
ゴンッ! という鈍い音とともに、エリナが数歩後ろによろめく。
「ぐぅ……っ!」
「はい、残念。」
頬骨の辺りを強打され、エリナの口元から血が一筋滴り落ちた。
「え、エリナさん!」
リネットの悲鳴にも似た声がする。
そんなリネットを一瞥してから、エディルは大きくバックステップし、距離を取った。
「……?」
なぜそのまま踏み込んでこないのか、エリナが怪訝そうな表情を浮かべると、エディルは剣を地面に突きたて、両手に付けた手甲を外し始めた。
「エリナちゃんってば身軽で素早いっしょ? それはアドバンテージなんだけど……俺も同じで身軽で素早いのが取り柄なんすよ。」
外した手甲をそのまま地面に捨て、次は肩当て、鎧とまとった防具を外していく。
そして金属製の防具をすべて捨て去り、エディルは袖丈の長い服だけになった。
「ということで、次はそのアドバンテージを潰させてもらおうかと。エリナちゃんの速さは、村でルカさんたちと訓練してたの見ててよーく分かってるんで。」
エディルは肩をぐるぐると回したかと思うと、軽く二、三度跳躍して身体の具合を確かめている。
地面に突き立てたままだった剣に右手を掛けて抜き放つと、切っ先についていた泥を振り払った。
「さぁ、アドバンテージを失ったエリナちゃんはどこまで頑張れるっすかね?」
今度はエディルが踏み込んで来る。エリナの踏み込みよりも一段速い。
「ほらほら、頑張らないと、殿下を守るとか言ってられなくなるっすよー」
「……っ!」
逆袈裟に切り上げられる剣を寸でのところで身を捻って躱す。さっきまでのような余裕はまったくない。
切っ先が服の裾を掠めたのか、小さく切れていた。
捻った身体を勢いそのままにくるりと回るようにして身体をエディルの方向へ戻すが、エディルはすでに次の攻撃に移っている。
切り上げきった剣を翻し、横薙ぎに一閃。バックステップだけでは間に合わず、身体をくの字に折り曲げて無理やり躱す。
続けざまに襲いかかる剣を避けようとしたところで、エディルが足を払った。
支えを失い倒れるエリナにエディルが剣を突き立てようと追撃するのを、地面を転がって避け、距離をとる。
反撃どころではない。無理な回避行動ばかりが続き、エリナは身体中に小さな切り傷や擦り傷、打ち身を作っていく。
「はぁ……はぁ……」
雨に濡れ、泥に塗れ、肩で息をする。口の中は血の味がするし、殴打された頬はじんじんと痛む。
切り傷や擦り傷は雨や汗がしみるし、疲労からか、頬を殴打されたからか、膝も笑っている。
どう攻めればいいのか、痛みでまとまらない頭を必死に回す。
と、その時、エディルに向かって石礫が投げ込まれた。
それを難なく掴んで、エディルは石が投げ込まれた方向に冷たい目線を向ける。
「白兵戦も攻性術もダメだからって苦し紛れの投石っすか。」
そこには涙目のリネットが立っていた。
足元の地面にあった石を無理やり素手で掘り出したのか、その両手は血と泥に染まっている。
「今はエリナちゃんと命のやり取りしてるとこなんで、そこで大人しく怯えてればいいんすよ!」
エディルはエリナとの立ち回りを邪魔されたからなのか、声を荒らげて掴み取った石をリネットに向かって投げ返した。
「う、《風の封壁》!!」
リネットの《風の封壁》では、投石を防ぐほどの障壁を生むことはできない。
投げつけられた石は、薄い風の膜にその軌跡を逸らされながらも、そのままリネットのこめかみの辺りに命中した。
「あうっ!」
「リネットさん!」
痛みと衝撃で後ろに倒れ込むリネット。
石が命中したところを苦悶の表情を浮かべながら手で押さえ、また立ち上がろうとしている。
「痛いっ……」
押さえた手に生暖かい何かが付く。血だ。
頭皮の辺りは細かい血管が多く、出血すると派手に血が出る。
リネットの顔の側面はどんどんと赤く染まっていく。
「しゃしゃり出てくるからそういうことになるんすよ。あとできっちり殺してやるから、大人しく……」
「《風爆》!!」
ルカのものとは比較にならない程小さな、人体に当たったとて、ダメージにもならない弱々しい破裂音。
その破裂はエディルの耳元で炸裂した。
小さいとは言え、顔の近く、至近距離で発動すれば、相応の衝撃は与えられる。わずかでもエリナの力になりたいと絞り出した一撃。
「ぐっ……お、お前……!」
「私だって力になりますっ! 《風爆》!!」
二度の《風爆》を受けて、エディルの身体がふらつき、よたよたと後ずさった。
「何だ……揺れている……?」
エディルの視界が揺れる。世界が回っているような感覚が気持ち悪い。
足元が覚束ないまま、頭を振って、気持ちの悪いふらつきを振り払おうとする。
「エリナさん! 今です!」
リネットの声にはっとする。彼女が作ってくれた、大きな隙。千載一遇のチャンス。
未だ笑ったままの膝に力を込めて大地を蹴り、ダガーを振りかぶる。
「うわぁぁーー!」
「おおおおおぉぉ!」
ダガーが握り込まれたエリナの右手がエディルの首元に伸びる。
ただの偶然か、経験からくる勘か、エディルは自身の左腕でエリナのダガーを受け、急所への攻撃だけは避けてみせた。
「くそがぁ!!」
ダガーを受けた左腕から血飛沫を上げながら、エディルはすぐ目の前まで踏み込んできているエリナの左脇腹を蹴り飛ばした。
「うぐっ……!」
エリナの身体が鈍い音と共に数メートル程横へ飛んだ。
ゴロゴロと転がってうつ伏せになってようやく止まったが、手に持っていたダガーは衝撃で更に向こうへ飛んで行き、カランと乾いた音を鳴らして落ちた。
「ごほっ! ごほっ!」
苦し紛れに振り抜いた蹴りとはいえ、鍛えられた男の一撃である。華奢なエリナの身体に与える衝撃の大きさは想像に難くない。
エリナは苦痛に顔を歪めながらも、視線だけはエディルから離さないように顔をあげる。
エディルは忌々しそうにリネットを睨みつけていた。
「チッ……居ようが居まいがオーダーに影響ないと思ってたんすけどねぇ……」
明らかな負傷を負ったからか、舐めて掛かった相手に想定外の一撃を受けたからか、苛立ちに顔を紅潮させ、ギリギリと歯噛みする。
「私みたいに未熟でも、考え方一つでやれることがあるって……教えてもらったんです!」
感応術士として思い悩んでいたリネットにルカが与えたアドバイス。
エリナが必死でエディルと攻防を続けている最中に、リネットは一人彼女なりに考えていた。
自分の持つ弱々しいカードを、何とか意味のあるものに変えられないのか、と。
「やれること? 貧弱な術でも狙い次第で自分もできると思い込みたいだけでしょうが……下手に自信を持たれても面倒なんで、先に殺しときますかねぇ!」
エリナを一瞥し、まだ膝を付いたままですぐには動き出せないと見たのか、エディルはリネットに向かって走り出した。
「ダメッ! リネットさん、逃げて――」
エリナの声に応じるかのように、リネットは真っ直ぐ、エディルに向けて両手を突き出す。
「――これが私の……《風の封壁》!!」
「そよ風程度で――」
飛来する矢も、投石も、止めることができず、できることと言えば、音を遮断することくらい。
そんな弱々しい障壁しか作れない、リネットの《風の封壁》ではエディルの攻撃を止めることなどできない、はずだった。
目の前に現れたのは、縦横一メートル程度に凝縮されたうっすらと赤いひし形の障壁。
術者を中心に全方位を包む被膜のような障壁ではない。リネットが"指向性"というアドバイスを"収束"という形に昇華させた、彼女だけの"盾"。
無理やり圧縮された空気の層が、断熱圧縮という形で高熱を放ち、周囲に撒き散らされた熱は、盾に降りかかる雨粒を瞬く間に蒸発させていく。
その盾を目にしたところで、エディルが止まることは無い。
「――俺が止められると……」
エディルが振り下ろした剣と赤い盾が衝突した瞬間、時間が止まったかのように、エディルの動きが止まった。
固いものがぶつかるような音はない。聞こえてくるのは振り下ろした剣が赤い盾に止められ、力むエディルの唸り声。
「ぐっ……なんだ、この壁はっ!」
自分の剣がまったく通らないことに驚きの声を上げたエディルだが、目の前の盾が放つ高熱に思わず飛び退いた。
「あつっ……熱いっ! 《風の封壁》じゃないのか!? クソッ!」
熱い、などというレベルではない。
エディルの剣は、ごく短時間触れただけだというのに、刃が少し溶けている。近づきすぎたエディル自身も無事ではなかった。
剣を握っていた右手の袖が燃え、甲の部分は熱傷で赤くなっている。雨のおかげで袖の火はすぐに消えたが、その下も熱傷になっていることが見て取れた。
「ううっ……」
咄嗟に捻り出したその術の維持に必要な集中力は、通常の《風の封壁》の比ではない。
小さくリネットがうめき声を上げた次の瞬間、赤い盾周囲に風を撒き散らしながら消え去った。
「はぁっ……はぁっ……」
リネットの足がふらつき、馬車に寄り掛かる。肩で息をし、立っているのがやっとのように見えるが、その赤い瞳だけはエディルを見据えたままだ。
そこへエディルは警戒しつつも近づいていく。剣を防がれ、皮膚を焼かれはしたものの、目の前の邪魔な盾は消失した。遮るものはない。
「流石にこれ以上の隠し玉はないと思うっすけどね……」
この短時間に精密な術の制御を見せた《風爆》に、形を変えた謎の《風の封壁》。これ以上はないと思いつつも、エディルの意識は警戒を解いていない。
溶けずに無事な方の刃で切りつけられるよう、エディルは剣を持ち替えた。
一瞬だけエリナとの距離を確認しようと一瞥する。この距離では自分とリネットの間に割り込むことは難しいはずだ。
「(時間を掛けすぎた……強引にでもねじ伏せる!)……《膂力強化》!」
「《風爆》!」
動き出したのは二人同時。
一太刀でリネットの身体ごと馬車の壁を切りつけようとしたエディルの顔面に、リネットの《風爆》が炸裂する。
だがリネットを警戒していたエディルはこれを見切って身体を爆風の下へ潜らせた。
「まず一人っ!」
《風爆》を躱したエディルは、その破裂音にまぎれてもう一人が動き出したことに気付かなかった。
伏せるような低い体勢から、リネットを切り上げようと前進する、その瞬間。
「《敏捷性強化》!」
届かないはずの距離を、半ば弾丸のような速度で踏み込むエリナが迫る。
「リネットさんから、離れろぉーーー!」
泥濘みに軽く足を取られ、倒れそうになる身体を強引に大地を踏みつけるようにして走り続ける。
左足首に激痛が走るが、そんなことは後回しだ。
手持ちの武器もなければ、攻撃の型も何もない。言うなればただの体当たり。
剣を振りかぶったエディルの身体の左側面に、肩を丸めるように屈んだエリナが飛び込んだ。
「がはっ!」
「いった……」
エリナが派手に泥水を撒き散らしながらリネットの目の前に落下する。
エディルの方はエリナの全体重を掛けた《敏捷性強化》込みの体当たりに大きく跳ね飛ばされた。
それでも右手に持った剣は離していない。
エリナは地面から上半身だけを起こし、立ち上がろうとしている。
「お前、術なんて一度も……」
「使えないなんて、言ってないわ……」
エディルがギリギリと歯噛みする。
村でエリナを目にしてから、ルカと合わせてずっと観察してきたはずだった。
リネットにいたっては王都を発つ前から素性も力量も把握していた。
なのに、だ。
一体どうなっているのか。なぜこうも自分の予想の上を行かれるのか。
「エリナさん、これ使って!」
リネットが、自分の腰に下げていた護身用のナイフを手渡してきた。
刃渡りも短く、それほど頑丈でもない。丸腰よりもマシという程度でしかない、そんな一振り。
強度は期待できないし、そう何度も刃を交えることはできないだろう。
「リネットさん……ありがとう。」
エリナが受け取ったナイフを手にするが、左足が痛み、力が入らない。
「(でも、さすがに厳しいや……)」
《敏捷性強化》は維持できているが、足を痛め体力もほぼ尽きた今、まともに戦闘継続できる状態ではない。
エリナは地面に座り込んだまま、エディルを見る。
エディルは跳ね飛ばされた先で、ちょうど立ち上がったところのようだったが、その顔は少し驚いたような表情を一瞬見せてから、不敵な笑みに変わった。
「おいおい……そりゃえらく大胆な行動じゃないっすか? 殿下。」
「……?」
エディルの視線はエリナを見ていない。明らかに後ろ、馬車を見ている。
「な、なんで……!?」
振り返ったエリナが目にしたのは、開いた馬車の扉から出てきたフィリスとミリアの姿だった。




