〈閑話〉高級娼婦の首飾り 前編(サフィル視点)
◯ヴァルミタール家 屋敷裏の丘 夜 (1902年 5月)
白い花を咲かせた木の下に
サフィルが佇んでいる
久しぶりに人の姿になって外へ出ると、月がレモンのような形をしていた。
だんだんと満月に近づいていく月。
アレクシスの父であるグレゴールに庭の掃除を命じられたあと。サフィルは宝石の姿に戻らずにひとりで外に出たのだ。
ヴァルミタール家の裏には、春になると花を咲かせる木々が自生している。
この花は一斉に咲いて、数日後には落ちる。今はちょうど花頃。いくつかの花は落ちて、整えられた芝の緑色を白く染めていた。
アレクシスは仕事で出かけていた。グレゴールは「掃除を頼む」と言うと、サフィルとジョーヌの二人を少年挿入し、人の姿に変えた。前の主人は、以前から、ちょっとした家の手伝いに、このふたりを揃って使うことが多かった。
たいした用事でもないから、仕事はすぐに終わった。グレゴールは「ふたりとも、自由な時間を余り過ごしていないだろう、今日は夜までゆっくりするといい」と言って、執務室へと戻っていった。
(ぼくの主人と、何かあった――と、感づいているのかもしれないな)
サフィルはふっと笑う。若くて、素直すぎる、新しい主。満月の夜に青く光り、人の精を食らう自分を見て、どう思ったことだろうか。
(――満月の夜は、嫌いだ。いろいろなことを思い出すから。)
花を咲かせる木の下で、目を閉じる。宝石として箱の中で眠るのとは違う、周囲の風のにおい。冷たい地面が背中に固く触れる。
閉じた目の中で、レモンの形の月はだんだんと満ちて、満月になる。
まどろみのなかで浮かぶのは、遠い、遠い記憶。
◇ ◇ ◇
◯過去の夢 (1XXX年) 娼館
まぶたの裏に浮かんだのは、月の光を受け浮かび上がる、女の横顔だった。
遥か昔の記憶。僕の初めての女主人だった人。
彼女の本当の名前は覚えていない。ただ、天使、と名乗っていた。彼女は人気のある高級娼婦だった。
いつのことだったか、錬金術師を名乗る客が、サファイアのネックレスを彼女にプレゼントした。
豪奢な金具の中央にサファイアがあしらわれたデザインで、金具が少し呪術的な印象があるもの。
繰り返し通ってくるその男は、君のお守りだ、と言ってそれを渡した。
いささか奇抜なデザインだったが、彼女は仕事柄笑顔で受け取った。
僕は、笑顔の彼女を見ていた。彼女の美しい顔が、僕の磨かれた面に映りこんで、割れた面のように光った。
人の姿になる前。宝石だった時の記憶は曖昧だ。僕たちは、そもそも無生物だ。魂など持つはずがない。けれど、いつの間にか。彼女の魂が僕に移っていくかのように、僕は意識を持ち始めた。
初めは、まどろむような感覚だった。
まどろみの中から、ぼうっと彼女の暮らしを眺める。
美しく着飾って微笑む、美しい女。
その微笑みの中に、青く静謐な、冷たい感情が混ざっていることに、僕は気づいた。
彼女は明るい花のように振る舞っていた。けれど、その奥底には深い青が、悲しみが横たわっていた。
彼女は多くを語らなかった。今思えば、語るべき人生もなかったのかもしれない。
娼館というところには、いろいろな者がいる。高級娼婦を売りにしている娼館にだって、下級の娼婦がいる。
高級娼婦たるにふさわしい教養を身につけられなかった者。
まだ幼くて、高くは売れない者。
元々は売れっ子だったのに、年を取って客が取れなくなっていった者。様々だ。
高級娼婦という職業は、時に憧れられることもあった。美しく着飾り、微笑み、多くの男性から貢ぎ物を受ける。絵姿が配られ、まるでちょっとした崇拝対象――偶像の女神のようだった。偶像。きらきらと宝石で塗り固められた偶像が、彼女の悲しみを深くしていった。
彼女は夜、一人になると僕を宝石箱に戻す。彼女の宝石箱には、いろいろな石があった。
指輪、ネックレス、イヤリング、髪飾り。様々な宝飾品に、様々な宝石がついていた。
彼女は赤が似合った。ダイヤモンドも似合った。
ブルーの宝石は、あまり持っていなかった。彼女はどちらかというと、快活で優しく、明るい女として売っていたからだ。
けれど、彼女の本質は違った。冷徹な理性と、静かな抵抗を心に秘めていた。
そのせいかは分からないけれど、彼女は青い宝石、つまり僕を好んだ。
数ある宝石の中で、僕の出番は多かった。明るい色のドレスを着ている時でさえ、彼女は胸元には僕を選んだ。
一時期、そんなちぐはぐなコーディネートが、巷で流行るまでになった。天使さまの、胸元のブルー。
ブルーの宝石やらガラス玉が、飛ぶように売れたそうだ。
そんなある日。
彼女に僕をプレゼントした錬金術師が死んだ。
錬金術師は彼女より随分上の年だったから、きっと病気か何かで死んだのだろう。娼館に簡素な報せが届いた。
彼女は泣きもしなかった。けれど、その報せの送り元を調べ、彼の墓を訪れた。黒いドレスで、僕を胸に。
墓の前で、眉の一つも動かさず、彼女は一言。
「プレゼントを、ありがとう」
そう言って、僕を握りしめた。
僕の身体に、彼女の心のようなものが染み込んだ。
それは、寂しさだった。
彼女にブルーをプレゼントした、初めての人。
それはもしかしたら、彼女の本質を見抜いていたからではなかったか。他の者たちが、やたらと大きい宝石や、花や、派手なドレスなんかを贈っている時に。彼は、僕だけを贈った。
それに彼女が気づいたのは、錬金術師の足が娼館から遠のいて、もう五年も経った頃だった。
死人には口がない。単に錬金術師が持っていた宝石が僕だけだったのかもしれない。だいたい、その錬金術なるものも、証明されていなければ、奇跡を起こしたわけでもない。
死の報せを聞き、身元を聞き回って分かったことだったが、彼は錬金術師と言いながら、実際は小さな町の教師だった。娼館に来る時には、貴族らしく着飾っていたのだと分かった。
彼は独り身だった。訪れた墓には、花のひとつもなかった。
「誰とも交わらず、死んでいくのね」
彼女は言った。
彼女はその頃には、もう子供が産めない身体になっていた。もちろん、娼館にいる女たちにとって、それは珍しいことでもなんでもなかった。だから彼女も普段、それをことさらに悲劇のように取り扱うことはなかった。
彼女は、錬金術師の墓に手を伸ばして言った。
「繋がれなかったわね」
僕は不思議に思った。
人間は、いつだって何かと繋がっているように見えていたから。
僕らと違って体温がある。
体温を分け合って。肌と触れ合い。
手を繋ぎ。時には、もっと深い部分で繋がり。
そうして、僕には魂がないから分からないけれど、心が繋がる。
人間の間には「魂をひとつに」、なんていう言葉が溢れている。
だから、繋がれるんだと思っていた。人間なら、誰だって繋がれるんだと思っていた。
いろんな繋がりがあった。最も多く見たのは、男と女の繋がり。けれど、僕のいたところは面白いところで。女と女との繋がりを楽しむ者もいたし、男同士の繋がりを楽しむ者もいた。いずれにせよ、人間はつながりあって生きていた。それが当然だと思っていた。《意識》ともいえないような、ほのかな知覚で、僕は彼らと自分の違いを認識していた。
僕は石だ。
誰とも繋がらない。
何も残さない。
けれど。
彼女は、僕と心を繋げようとした。
錬金術師が死んでから、彼女は僕に、毎日、今日あったことを話すようになった。
今日あったこと。それは、彼女が外向けに見せる姿ではなくて。どちらかというと、寂しさや、悔しさや、悲しみや怒り。そういう感情だった。それを僕は、ただひたすら聞いていた。
もちろん、相槌を打つことなんてできない。僕にただ話しかけている彼女の姿は、傍から見たらおかしかっただろう。
少し盛りを過ぎてしまった娼婦が、夜な夜な、昔の男にもらったネックレスに話しかけている。
その姿は、滑稽なものとして噂になった。高級娼婦だった彼女が評判を落とすまで、時間はかからなかった。
評判が落ちれば、もう高級な娼婦ではいられない。彼女には幸い多少の財産があったから、少しずつ衣類や宝飾品を売ることで、暮らし自体は成り立っていた。
けれど、以前のような豊かな暮らしはできなくなった。
娼館の片隅の部屋に追いやられ。それでも、彼女は僕を売らなかった。当時の売り出し文句を覚えている。
「往年のレディーを、この金額で!」
「皆様、手が届かぬ高嶺の花を、お安く召し上がってみませんか」
下品なキャッチフレーズだ。
けれど彼女は、毎日笑顔で対応した。それを僕は、美しいと思った。
そんなことを長く続けるうちに、ある月の夜。僕は、自分の身体がほんのりと光を放っていることに気づいた。
彼女はそれに気づくと、目を見開いて、僕に手を伸ばした。
「あなた、帰ってきてくれたの」
そこで言う「あなた」とは、例の錬金術師のことだと、すぐにわかった。
今となっては、彼が何を考えて僕を渡したのかも分からない。本当に彼女のことを理解していたのか。ただお金がなかったのか。本気で彼女のお守りになると思って、これを渡したのか。それとも。けれど彼女にとっては、そんなことはどうでもよかった。
求めていたのは、偶像だった。
彼女が欲していたのは、夢だった。
僕は。僕の魂は、彼女の思いでできている。
ならば僕は、彼女がそうしてきたように、夢を見せるべきだと思った。
彼女は、いつも言っていた。
「高級娼婦というのはね、お客に夢を見せるのが仕事なの」
「お客さん方は、高いお金を払って私たちに夢を見る」
「美しい女。美しくて、穏やかで、賢くて。それでいて殿方の邪魔をしなくて。昼は淑女で、夜は娼婦で。何をしたって許してくれるまるでママみたいな存在で。なのに、少しからかうと、乙女のように柔らかな反応を返す――そんな夢を求めているの」
ならば。僕は演じようと思った。
僕は、まだその時は人の姿を取ることはできなかった。ただ、彼女のために演じようとした。すると僕に《声》が生まれた。
『僕を呼びましたか』
それは、貴族服を着て彼女の元を訪れていた、朴訥な男の口調そのままだった。
頭の中に響く声に、彼女は目を見開いた。その日から、僕は彼女の、偶像になった。
彼女はそれから、僕と毎日会話をするようになった。
初めは、月のある日だけ。
満月の日が、一番成功率が高かった。
じきに、月の光が大きく夜空に輝くほど、僕は話がしやすくなることに気がついた。その法則に気づいてから、彼女と話ができる日々は増えていった。
話ができる日が増えると、彼女の感情が、思いが、より多く流れ込んでくるせいだろうか。僕の力は、強くなっていった。
僕はじきに、昼間でも彼女と会話をすることができるようになっていた。
初めて出会ってから、十年が経っていた。
出会ってから、というのはおかしいのかもしれない。十年前に渡された僕は、ただの物で。何の魂も、心もなかったのだから。
二十一だった彼女は、もう三十を超えていた。
三十を超えた女が娼婦を続けるのは、並大抵のことではない。売れるのは、もう身体や若さではなかった。売れるのは、包容力——と言えば、聞こえはいいけれど。彼女の今の仕事は、あらゆる欲望を受け止める捌け口になることだった。
彼女はそれでも、夢を見せようとする姿勢を崩さなかった。もちろん、昔馴染みのいい客もいた。彼女を、わざわざ寝かせてくれるような客もいた。本当に下級の、身体を売っている女たちに比べたら。衣食住が保証され、それなりのドレスを着て仕事をしている彼女は、それでも羨ましがられる存在だった。
それからさらに数年が過ぎた頃。彼女に一人の客がついた。
その客は、金を持っていた。
彼女の部屋は一気にランクが上がり、昔の高級娼婦だった頃とまでは言わなくても、かなり豊かな暮らしができるようになっていた。
彼女は彼に感謝した。周囲からは、愛されていると言われていた。もしかしたら、妾になれるのかもしれない。彼の領地に邸宅を与えられ、引き取ってもらえるのかもしれない。それは名誉なことではないけれど——子供を産めず、身分もない彼女にとっては、願ってもない待遇だった。
僕も、彼女と庇護者との出会いを喜んだ。彼女は本当に、彼を愛し始めていた。僕に話しかけることも、少し減るくらいに。
けれど。ある、満月の晩。
彼女の庇護者は、豹変した。
彼女はまず、頬を叩かれた。
次に、髪を掴まれた。
僕は見ていられなかった。彼女の白く細い喉。僕を飾った胸元が痛々しく窓から差し込む月の光に照らされた。
彼女は責め立てられて、深く、深く傷ついた。
身体だけではなく、魂が、悲鳴をあげていた。その悲鳴を、僕は彼女の胸元で聞いていた。
彼女は僕に、強く願った。
助けて。
誰か、
助けて。
彼女が願っていた。
私を愛しているはずの人が、こんなことをするはずがない。
ここで責められているのは、わたしじゃない。そう思いたい。
(――身代わりが、欲しい。)
彼女は、そう願った。
僕は、その願いを聞き入れた。
だって、そうだ。僕は彼女に夢を見せることが仕事だ。
それだけがぼくの、存在意義なのだから。
その瞬間。ネックレスが光り輝いた。
僕を囲む金属の台座は、僕の骨となり、肉となった。
石の台座を骨に。装飾は、僕の肉に。
細いチェーンの飾りは、僕の髪になった。
——僕は、少女の姿をしていた。
身代わりを望んだのだから、当然だろう。
突然、二人の間に現れた少女に、男はふと手を止めた。
僕は、何をするべきかよく分かっていた。
十年以上、彼女を見てきたのだもの。
僕は月を背に、うっとりと微笑んだ。
僕の身体から、青い炎のようなものが立ち上る。その炎が、男を包んだ。男はふらふらと、僕のもとにやってきた。
――勝った、と思った。
男は、僕の髪を掴んだ。彼女にしたのと、まったく同じことを僕にも、綺麗に繰り返した。
僕は、痛くなかった。
彼女はベッドの端に身を小さくして。ほっと、安堵したような息をついた。
彼女の横顔を、月が優しく照らしていた。
僕は、その顔が忘れられない。僕は、このためにこの姿になったんだと思った。
人間である彼女の肌は、打たれたところが赤く、あるいは青黒く染まって、痛々しい。髪は抜け、シーツの上に散っている。でも。
僕は傷つかない。だって、人ではないから。
彼女の部屋に現れる不思議な少女の話は、あっという間に広まった。彼女を嬲った、その男の手によって。
彼女自身は、魔女と言われるのを怖がっていた。だから代わりに、僕が言ってやった。
「この女には、何の力もないよ」
「僕が、貴男たちに会いたくて、ここに来たんだ」
「ねえ、僕を――可愛がってよ」
はったりだった。
でも、何でもよかった。彼女を救うという役割を全うする。それが、僕に与えられた役だった。
その役が果たせるなら。何でもよかった。そんな日々は、ある日、終わりを告げた。
『ディスポーザブル・キャスト-夢を見せる宝石少年-』
原案:神田明子
作:西瓜すいか・差異等たかひ子
企画・制作:Hisshigumi Project
※本作は複数の小説投稿サイト・媒体にて同時掲載しています。
____________________
本日もお読みいただき、ありがとうございます!
今回は第二章を一旦お休みして、第一章に登場したジェムズ・サフィルのSS小説をお届けしました。
第一章では描ききれなかったサフィルの一面も、楽しんでいただけたら嬉しいです。
第二章のデアリスとジェムズたちの物語も、引き続きよろしくお願いいたします!
─────────────
【朗読劇 チケット一般発売のお知らせ】
いよいよ明日、10月24日(土)12:00より、朗読劇のチケット一般発売がスタートします!
今回は先着順での販売となります。
朗読劇『ディスポーザブル・キャスト -ヴァルミタールの宝石少年-』
2026年11月27日(金)~29日(日)
会場:シアターシャイン
朗読劇で描かれるのは、WEB小説から約70年前の物語。
小説とはまた違った宝石少年たちの物語を、ぜひ劇場でもお楽しみください!
詳細はHisshugmi Project公式HPをご覧ください




