失われた声
「……昨日よ。」
宿の主人は震える手で湯飲みを握った。
「音がしたと思ったんだ。」
監察官は黙って記録を取る。
「どんな音だ。」
「何かが倒れたような音だよ。」
主人は二階を見上げた。
「あの部屋の方からだった。」
「様子を見には?」
「行かなかった。」
苦い顔をする。
「すぐに静かになったから、旅人が荷物でも落としたんだろうと思ったんだ。」
監察官は頷く。
主人はしばらく黙った後、
ぽつりと続けた。
「あの人な、何度も言ってたんだ。」
「あと一日だって。」
監察官の手が止まる。
「あと一日……」
主人は頷いた。
「あと一日待てばいい、
迎えが来る。
…そう言ってた。」
部屋が静かになる。
「それから、こんな風に祈ってた。」
主人は胸の前で手を組んだ。
昨日の老婆がしていた祈りと同じ形だった。
「何を祈っていたかは知らん。
でも……何かから、
助かると思ってたみたいだった。」
「…………」
「監察官殿。」
呼ばれ、顔を上げる。
王宮監察局付きの医師だった。
監察官は立ち上がり、部屋の外へ出た。
医師から、小声の報告。
「飲み物から反応が出ました。」
監察官の表情が変わる。
「毒か。」
「はい。
可能性、ではなく毒物です。」
短い沈黙。
窓の外では朝日が差し始めている。
奥の部屋。
白い布の下で、
失踪神官は静かに横たわっていた。
……あと一日。
「捜査班を残せ。」
監察官は部下達へ向き直った。
「宿屋関係者の聞き取りを継続。
昨夜、町に出入りした者を洗い出せ。」
「街道の検問記録も確認する。」
部下達が頷く。
「監察官殿は?」
一人が問う。
監察官は迷わなかった。
「王宮へ戻る。」
失踪神官が発見された。
だが、既に死亡。
しかも――毒。
間に合わなかった……。
密かに、拳を握りしめた。
この案件は、
もはや現場だけで処理できる段階を越えていた。
「女王陛下へ直接報告する。」
監察官は外套を翻した。
準備された馬に跨がり、
宿屋を出る直前に、
もう一度だけ二階の窓を見上げた。
白いカーテンが、
風に揺れている。
あと一日。
その言葉だけが耳に残る。
誰を待っていたのか。
何を信じていたのか。
その答えは、
まだ見えていなかった。
「――行くぞ。」
監察官は馬に強く踵を当てた。
馬は、王都へ向かって走り出した。




