ヨルを観る者
不意に。
中庭の空気が、
変わった。
猫達が、
ぴたりと動きを止める。
それから体勢を低くして
一斉に、唸り出す。
フゥーーーーッ
「――――」
Lunariaは、顔を上げた。
暗がりの向こう。
いつの間に現れたのか。
黒い外套姿の人影が、
そこに立っていた。
「――お初にお目にかかります、女王陛下。」
シャアッ――!
毛を逆立て、
威嚇するように低く鳴く猫達。
そして、次の瞬間。
弾けるように、
一斉に夜の中へ散っていった。
「……………」
青年が立ち上がる。
その顔からは、
さっきまでの困憊が消えていた。
「あなたの、探し人ではなさそうですね。」
「……誰。」
小さく、Lunariaは問うた。
人影は、
すぐには答えなかった。
その代わり。
ゆっくりと、
Lunariaの背後へ視線を向ける。
そして。
人影は、
静かに片手を胸元へ当てる。
指を組む。
古い祈りの形----
まるで、
“そこに誰かいる”みたいに。
「我らは、“観る者”。」
揺るがない声だった。
「はるか昔より、
彼の方を観測しております。」
感情は感じられなかった。
ただ。
長い年月を経てもなお、
変質していない“礼”だけが、
そこに残っていた。
「ヨル。」
「夜の君。」
「境界の主。」
淡々と、
人影は名を落としていく。
「時代ごとに、
呼び名は異なりますが」
「王の剣、そして盾。
この国では、
そう言った方が覚えがよろしいかと。」
その声だけが、
静かな中庭へ響いていた。
「我らは、
ただ観測する。
この世界が、どこに収束していくのかを……」
「――観る者、でございます。」
「……だから嫌だったんだ。」
「え?」
Lunariaは瞬いた。
青年の表情が、ゆっくり険しくなる。
「――特異点と、観測対象の接触を確認。」
人影は、
感情のない声で続ける。
「特異点、及び反応の観測を開始。
優先は、特異点の維持と継続。
よって、観測対象へ三度目の接触を試みる。」
「接触…?」
意味が分からない。
けれど。
本能だけが、
嫌な予感を叫んでいた。
「試させていただきたい。」
「本気で言ってます?」
ぐ、と。
青年が、ゆっくり身を構える。
「俺……今、
猫の餌くらいしか持ってないんですけど。」
「過去にも、
同様の反応を確認しております。」
「それって、この間の事ですか。」
青年の顔が、
僅かに引き攣る。
「もう、充分でしょう。」
「さて…」
返答はなかった。
「では。」
人影が、
ゆっくり一歩踏み出す。
その瞬間――
ぞわり、と。
あたりが、軋んだ。
「――!」
空気が裂ける。
黒い影が、
一瞬で距離を詰めた。
「危な――」
刹那。
青年が、Lunariaの前へ出る。
そのまま、
傍に立て掛けられていた
長柄の火掻き棒を掴み上げた。
金属音――
鋭く、火花が散る。
「……っ!」
衝撃が、中庭へ響いた。
「――!?」
Lunariaは、
思わず目を見開く。
速い。
何が起きたのか、
ほとんど見えなかった。
「……っ、普通、避けません?」
息を吐きながら、
青年が低く言う。
攻撃を受け止めながら、
火掻き棒ごと片手で捻り、
無理矢理軌道を逸らす。
石畳へ、
鈍い音が走った。
「………っ、駄目だ。」
青年の顔が、
すっと真顔になる。
「音がうるさすぎて駄目だ。」
ぼそ、
と。
本気で嫌そうに呟いた。
「………おと?」
Lunariaが、
小さく瞬きをする。
青年は、
火掻き棒を黒装束へ投げつける。
相手の視線が一瞬、逸れる。
その隙に、
今度は、足元に転がっていた
園芸用の木製支柱を掴み上げた。
「そっちですか。」
「静かでしょう。」
即答だった。
「前だって、後の処理が大変だったんです。」
――前?
前にもあったの??
「せめて、静かにお願いします。」
「……では。」
次の瞬間。
再び、影が走った。
青年は、
木製支柱を翻し、
今度は自分から踏み込む。
「っ――」
衝撃で、外套が揺れる。
鈍い音。
黒装束の刃が、木材を浅く裂く。
青年は、そのまま距離へ潜り込む。
近い。
木製支柱が、低く唸る。
今度は、黒装束側が半歩退いた。
青年が、迷いなく足を払う――
「なに、これ…」
突然の出来事に、
Lunariaは、呆然と青年の背中を見た。
この人――
なんで、
戦えるの?
毎日、
夜中に猫へ餌をやってる。
少し変わった、
書記官か侍従だと思っていた。
けれど今。
月光の下で動くその姿は、
まるで別人みたいだった。
「観測、継続。」
支柱が、
低く風を裂く。
黒装束の刃と噛み合い、
鈍い音が夜に散った。
靴底が、
石畳を滑る音。
剣撃に弾かれ、
青年は体勢を崩しかけながら耐える。
「せめて、静かに…っ!」
再び、
空気が裂ける。
青年が、
咄嗟に身体を捻った。
「っ――!」
乾いた音。
――木製支柱が、
真っ二つに折れた。
けれど。
青年は、
既に次を掴んでいた。
倒れ込む勢いのまま、
足元に転がっていた園芸用の熊手を引き寄せる。
熊手の柄が、
黒装束の腕を滑らせた。
軌道が逸れる。
その隙に、
青年は迷いなく距離を取る。
止まらない。
躊躇がない。
まるで。
そう動くことだけを、
身体へ叩き込まれているみたいだった。
息が乱れている。
それでも。
一度も、
視線だけは切らない。
黒装束が、
再び踏み込む。
刃が、
青年の喉元すれすれを掠めた。
「……っ」
Lunariaは、
思わず息を呑む。
怖い。
そう思った瞬間。
反射的に
一歩後ろへ下がっていた。
「どうしよう…??」
どうするべきか、
分からない。
近衛を呼ぶ?
けれど。
「呼ばないでください……!」
切羽詰まった小声だった。
「え」
「絶対駄目ですからね……!?」
青年が、
低く呻く。
そのまま、
熊手を黒装束へ投げつけた。
僅かに相手の動きが止まる。
「彼は、
あなたに危害を加えないそうです……!」
「…え?」
Lunariaは、
小さく瞬きをする。
「今、ここに
誰か来たら終わるんです!」
「………終わる……?」
「自分の格好、
よく見て下さい……!!」
今までで一番必死な声だった。
「……………」
Lunariaは、
ゆっくり自分を見る。
夜着の自分。
下ろしたままの髪。
こんな時間に。
中庭で。
青年と。
「…………あ。」
「今、気づいたんですか。」
青年は、
心底疲れた顔をしていた。




