身支度、そして。
――朝。
薄い光が、
静かに部屋へ差し込んでいる。
侍女達はいつものように、
Lunariaの自室へ入った。
そして。
「……姫様。」
年嵩の侍女が、
思わず小さく呟く。
Lunariaは、
既に身支度を終えていた。
淡い灰銀の髪は、
綺麗に結い上げられている。
衣服にも、
乱れはない。
濃紫の瞳だけが、
少し静かだった。
「おはよう。」
Lunariaは、
何事もなかったみたいに微笑む。
若い侍女が、
ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「え、あの……
もうお支度……」
「終わったわ。」
さらり、と返される。
「……」
部屋へ、
一瞬だけ静かな空気が落ちた。
兄王が亡くなってから、
こんな朝は初めてだった。
ここしばらくは、
泥のように重い身体を無理やり起こし、
引きずるようにして政務に向かっていたのだから。
侍女達が、不安そうに顔を見合わせた。
だが。
その背後。
机の上だけは、
相変わらず酷い有様だった。
積み上がった書類。
散らばった紙束。
冷えた茶。
昨夜のまま放置された羊皮紙。
若い侍女が、
そろそろと机へ近づく。
「こちら、お片付けを……」
「だめ。」
ぴたり、と。
侍女の手が止まる。
Lunariaは、
机の方を見たまま。
「絶対。」
静かな声だった。
けれど。
妙に有無を言わせない響きがある。
「……」
若い侍女が、
困ったように年嵩の侍女を見る。
その視線の先。
乱雑な机の上へ、
兄王の手紙が置かれていた。
年嵩の侍女は、
静かに目を伏せる。
「……承知いたしました。」
その声だけが、
やけに優しかった。
◆
自室を出る頃には、
王宮は既に慌ただしかった。
開かれる扉。
行き交う侍従。
低く交わされる声と、遠くで鳴る靴音。
戴冠式まで、
あと二日。
各国からの来賓が、
次々と王宮へ到着している。
Lunariaは何も言わず、
静かに廊下を歩いた。
後ろを、
年嵩の侍女と若侍女が続く。
「宵の国の使節団、
予定より早く到着されたそうです。」
若侍女の声は、
いつもより少し硬い。
「黎明国も既に王宮入りを。」
年嵩の侍女が、
静かに言葉を継いだ。
「宵の国王弟殿下も、
昨夜遅くに到着されております。」
Lunariaは、
小さく頷くだけだった。
窓から差し込む朝の光が、
長い廊下へ静かに伸びている。
けれど王宮の空気は、
既に張り詰めていた。
誰もが知っている。
今回の戴冠式は、
ただの継承ではない。
兄王亡き後。
〈劍の国・ヨル〉が、
本当に立ち続けるのか。
世界中が、
それを見に来ている。
執務室前で、
Lunariaが足を止める。
重厚な扉。
その前で、
侍女達もぴたりと止まった。
一歩も越えない。
年嵩の侍女が、
静かに頭を下げる。
「本日の予定は、
既に政務室へ届いております。」
若侍女も続いて頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、姫様。」
Lunariaは短く頷く。
扉が開いた。
部屋の中の空気は、
先ほどまでとは全く違う温度に感じた。
紙の擦れる音。
羽ペンの先が走る。
控えめな靴音。
それだけが、
広い室内へ淡く響いている。
整然と並ぶ書類。
広い政務机。
その配置も角度も、
全てが寸分の乱れもなく整えられていた。
同じ王宮の中にありながら、
そこはもうLunariaの生活の空間ではなかった。
国家のための部屋だった。
室内にいた官僚達が、
一斉に頭を下げる。
「殿下。」
Lunariaはそのまま机へ向かった。
椅子の前で、
ほんの一瞬だけ視線を落とす。
兄が使っていた席。
けれど次の瞬間には、
もう何も言わず腰を下ろす。
若い官僚が一歩前へ出た。
「本日の予定をご報告いたします。」
滑らかな声。
淀みはない。
「午前より黎明国使節団と謁見。
続いて、宵の国王弟殿下との謁見。
その後に西方諸国代表との会談となります。」
別の文官が、
静かに書類を差し出す。
「こちら、晩餐会席次案、
並びに返答草案でございます。」
Lunariaは文書へ目を落とした。
次々と回されてくる書簡。
整った文字。数字。図案。
完璧だった。
書類に置かれた文字ですら。
だからこそ――少しも隙を見せられない。
王宮全体が、そういう空気だった。
兄は、こんな仕事を毎日…。
少し、疲れを感じ始めたその時。
――ざわり。
微かな違和感が、
背筋を撫でた。
Lunariaの指先が、
ほんの僅かに止まる。
けれど誰も気づかない。
「…………。」
窓の外では、
神殿の鐘が鳴っていた。




