水音
水の音だけが響いていた。
地下水路を流れる水は、
夜そのものみたいに冷たかった。
石壁を伝う水が、
絶えず低く鳴っている。
男は、
乱れた呼吸のまま灯を掲げた。
指が震えている。
灯が揺れるたび、
濡れた石壁へ影が歪んだ。
その先に。
――屍がある。
白布に包まれた身体。
だが。
顔は、
もう原型を留めていなかった。
男は思わず後ずさる。
喉の奥が、
ひくりと痙攣した。
「……っ」
込み上げた吐き気を、
必死に飲み込む。
違う。
こんなはずではなかった。
本当に。
こんなはずでは――。
男は、
乱暴に頭を振る。
予定では。
入れ替えるだけだった。
禊の間へ入る前に、
付き添い人を隔離する。
儀式が終われば、
戻す。
それだけだった。
黎明は、
正されるべきだった。
王権は、
本来あるべき場所へ戻るべきだった。
そのための、
小さな協力。
……そのはずだった。
なのに。
男は、
震える目で遺体を見る。
冷たい。
動かない。
もう、
戻らない。
「何故だ……」
掠れた声が落ちる。
「何故、
殺す必要があった……!」
返事はない。
当然だ。
男は、
荒く息を吐く。
その時。
脳裏へ、
あの青年の姿が蘇る。
禊の間へ招き入れた時だった。
若かった。
まだ、
少年のような輪郭すら残していた。
それなのに。
目だけが、
異様なほど静かだった。
まるで。
初めから、
全て知っているみたいに。
「…………」
ぶるりと、
肩が震える。
恐ろしかった。
あの目を、
思い出すだけで。
理解してしまった。
これは。
王権争いではない。
儀式でもない。
“世界”だ。
足元の水が、
低く鳴る。
男は、
震える指で顔を覆った。
「こんなことをする為じゃない……」
声が、
崩れる。
「私はただ……
正したかっただけだ……!」
だが。
もう遅い。
遺体は、
そこにある。
焼かれた顔。
名前さえ奪われた。
もう、
誰だったのかも判別できない。
男は、
半ば乱暴に白布を掴む。
震える。
指も。
呼吸も。
思考も。
止まらない。
違う。
違う。
違う。
こんなはずではなかった。
その時だった。
ふいに。
水音が、
止んだ気がした。
男の呼吸が止まる。
静寂。
暗闇。
その奥で、
何かがこちらを伺っている。
男は、
ゆっくりと顔を上げる。
誰もいない。
だが。
夜そのものが、そこに在る――
喉の奥から、
小さな悲鳴が漏れた。
次の瞬間。
脳裏へ、
別の現実が閃く。
ここへ誰かが来れば。
最初に疑われるのは、
自分だ。
神殿。
儀式。
閉ざされた場所。
そして。
この遺体。
「…………っ」
帰らなければ。
ふいに。
その言葉だけが、
頭へ浮かんだ。
帰らなければ。
このままでは。
自分は、
ここで終わる。
男は、
震える手で白布を掴む。
重い。
冷たい。
水路へ、
半ば転がすように遺体を押し込む。
黒い水が静かに揺れた。
白布がゆっくりと、
闇の奥へ流れていく。
男は、
その姿を見送れなかった。
足音が聞こえる。
誰かが来る……
もう、時間がない。
濡れた石床を蹴るように立ち上がる。
水音が乱れた。
闇の奥へ。
逃げるように。
男の影が、
消えていく。




