プロローグⅡ
「――おかえりなさい。」
王宮の団欒室に、
Lunariaの小さな声が響いた。
劍の国・ヨル。
月はとうに昇り、
そろそろ眠る支度をしようかと
思っていた頃だった。
隣国から帰国したばかりの兄は、
肩に掛けていた外套を侍従へ渡しながら笑う。
「ただいま。」
それから両手を広げ、
妹へ向かってふざけてみせる。
「兄様おかえりー!って、抱き付かねぇの?」
「もう子供じゃないわよ。」
呆れたように返すと、
兄は豪快に笑った。
「だよな。」
「また、宵の国?」
「まぁな。」
「最近よく行くのね。」
「ちょっと、会っときたいやつがいて。」
言いながら、兄は懐から小さな包みを取り出した。
「土産。」
Lunariaへ手渡した途端、
そのまま団欒室の長椅子へ倒れ込む。
「あー、疲れた。」
兄はしばらく、そのまま動かない。
劍国国王――
兄の肩に掛かる責任は重い。
Lunariaは渡された包みを開いた。
手の平へ転がり落ちたのは、
透き通る硝子で作られた小さな猫だった。
「……ねこ。」
「可愛いだろ。」
灯りを受け、
猫は淡く輝いているように見えた。
壊さないよう両手で包み込み、
Lunariaはそっと微笑む。
「うん、ありがとう。」
兄は頷いた。
「今日は何してた?」
「んー……私にできそうな書類を、少しだけ。」
「そっか、助かる。」
しみじみと目を細める。
「もう十九だもんなぁ。」
「……なんだか、おじさんみたいよ。兄様。」
「えー? せめて、お父さんじゃねぇの?」
兄は少し疲れたように笑った。
父と母は十二年前、
外遊先から戻って来なかった。
事故だったそうだ。
それ以来、
兄がLunariaの父親代わりだった。
「それは、違うかも。」
「そっか。」
両親のことは、
正直あまり覚えていない。
国王と王妃として忙しかった二人に代わり、
十三歳年上の兄が、いつも遊んでくれていた。
「最近、疲れやすいんだよなぁ……。」
「飲み過ぎじゃない?」
「違いねぇ。」
ははっと苦笑しながら、
兄は侍従へ酒を用意するよう目で合図を送る。
「兄様…?」
言っていることと、
やっていることが全然違う。
「だってよー。」
侍従から酒盃を受け取り、
妹からの冷たい視線に肩をすくめた。
「こっち帰ってきてから、みんなして陛下、陛下、陛下ーって。俺、もー疲れた。」
そう言って、
酒盃へ口を付ける。
「でも、いつもと同じじゃないの。」
「いや、なんつーか……」
兄は、一瞬押し黙った。
「……誰も呼んでくれねぇんだよ。」
「何を?」
「名前。」
言った兄は、窓の外へ視線を向けた。
――名前。
その横顔は、
ほんの少しだけ寂しそうだった。
「なぁ。」
ちらりと、
Lunariaを見る。
「一回でいいから、呼んでみてくれねぇ?」
そして、
眉尻を下げ、小さく呟いた。
「――――、って。」
「…………」
その声色は、いつもより低い。
急に意識してしまって。
Lunariaは思わず視線を逸らした。
「……兄様は、兄様だわ。」
「駄目かぁ。」
兄は目を伏せながら、小さく笑った。
「宵の国にはいるの?」
誤魔化すように話題を変える。
兄の名前を呼んでくれる人。
「まぁ、いるな。」
「どんな人?」
兄は少し考え、
Lunariaの手元を指差した。
「それ。」
「……これ?」
「そいつに似てる。」
「………。」
手の平の中にある、
ガラス細工の猫へ視線を落とした。
……これに、似てるの。
「……変わった方なのね。」
「そう。興味ある?」
「……ちょっと。」
兄は悪戯っぽく、
にやっと笑った。
その笑い方は、
昔から変わらない。
「――Lunaria。」
コン、コン。
その時、控えめな扉を叩く音がした。
「姫様。」
迎えに来た侍女の声だった。
「…………。」
兄は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
灰青の瞳が、Lunariaを見つめた。
「……ほら、子供はもう寝ろ。」
兄は立ち上がることもなく、
Lunariaの頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「もー!」
せっかく整えた髪が、
また絡まってしまう。
Lunariaが嫌がることをわかっていて、
兄はいつもそうしてくる。
子供の時からずっと。
「俺も、これ飲んだら休むわ。」
いつもと同じ兄の様子。
「……おやすみなさい。」
「ああ、またな。」
扉を閉める直前、
Lunariaはもう一度だけ兄を振り返った。
兄は、変わらず微笑んでいた。
……いつもと、同じだ。
ほっとして、Lunariaも笑った。
――おやすみなさい。




