2-20話 Lunariaの休息
「……姫様。」
若い侍女は、
思わず小さな声を漏らした。
柔らかな室内着に着替えたLunariaは、
窓辺の長椅子に、
すっかり身体を預けていた。
膝の上には開いたままの本。
けれど、先ほどから頁は一度も捲られていなかった。
窓から吹き込む暖かな風に、
淡い髪を揺らしながら。
Lunariaは手元の菓子をひとつ摘まみ、
何を考えているのか、
ぼんやりと窓の外を眺めている。
そして、ふっと笑った。
「…………。」
若い侍女は目を瞬いた。
笑った。
それも、いつもの口元を僅かに緩めるような笑みではない。
頬を柔らかく染め、目元まで綻ばせた。
満面の笑みだった。
「……どうしたの?」
視線に気付いたLunariaが、
不思議そうに首を傾げる。
「い、いえ。」
若い侍女は慌てて首を振った。
「何でもありません。」
Lunariaは、
そう、とだけ答える。
そしてまた、
長椅子へ深く身体を預けた。
その様子を見ながら、
若い侍女は傍で茶器を整えていた年嵩の侍女へ視線を送る。
年嵩の侍女も、
同じようにLunariaを見つめていた。
「……ご機嫌ですね。」
声を潜めて言う。
「ええ。とても。」
年嵩の侍女も、
小さく頷いた。
少し前までのLunariaは、
朝も、昼も、夜も、山のように届く釣書に目を通し、ずっと難しい顔をしていた。
食事をしていても、
お茶をしていても、
夜になってからも、
Lunariaの側には常に釣書の山が積まれていた。
それが今日は、
自分から政務を切り上げて戻ってきた。
「今日はもう休みます。」
そう言った姫は、
部屋へ戻るなり装飾品を外し、
珍しく自分から長椅子へ腰を下ろした。
そして今。
本も読まず。
仕事もせず。
ただ、
風に吹かれながら菓子を食べている。
――やっと、解放されたようだった。
「顔色も、
朝より随分良くなられました。」
年嵩の侍女は微笑んだ。
その横顔には、
どこか懐かしいものを見るような色が浮かんでいる。
「……昔の陛下を、
少し思い出します。」
「昔?」
若い侍女は首を傾げた。
「先王陛下が、
まだお元気でいらした頃です。」
年嵩の侍女は、
静かにLunariaへ目を向ける。
「陛下は、
あの頃はよく笑っておられました。」
若い侍女も、
つられるように視線を向けた。
Lunariaは、
窓辺に置かれた初夏の花へ手を伸ばしている。
指先で花弁に触れ。
また、
楽しそうに笑った。
「…………。」
若い侍女の胸が、
ほんの少し熱くなる。
こんな姫を、
ずっと見ていたいと思った。
「夏至のお祭も近いですし。」
気を取り直すように、
若い侍女は言う。
「今年は、
またお忙しくなられるのでしょうね。」
「ええ。」
Lunariaが王として迎える、
初めての夏至祭。
おそらく、これからはその準備に追われることになる。
せめて今だけは、
ゆっくり過ごしていただきたい。
「……そう言えば。」
ふと、
若い侍女は顔を上げた。
「結局、
姫様はどなたを選ばれたのですか?」
年嵩の侍女が瞬きをする。
「どなた、と申しますと?」
「婚約者です。」
「ああ。」
年嵩の侍女は、
ようやく合点がいったように頷いた。
「宵の国の王弟家のご子息だそうですよ。」
「……っ!」
若い侍女は、
思わず口元を押さえた。
頬が熱くなる。
「何か?」
「い、いえ。」
慌てて首を振る。
年嵩の侍女は、不思議そうな顔をした。
いつもの彼女なら、
もっと大騒ぎしていたかもしれない。
けれど今は、
声を上げることもできなかった。
だって。
『宵の国の王弟子息』
おそらく、西棟に滞在していたあの方なのだ。
きっと。
晩餐会の後、姫様は何度も西棟の方角を見ていた。
夕暮れになると、
ぼんやりと窓の外を眺めていた。
夜には、姫様のお部屋から、
誰かに話しかけているような声が聞こえたと、
警備兵たちが噂していた。
それに……。
おそらく、姫様自身も何度か夜に部屋を抜け出していた。
――あの方が帰国された後は、
どこか寂しそうにしておられた気もする。
「…………。」
全部、
繋がってしまった……。
若い侍女の中で、
誰にも知られぬ恋物語が、
一つずつ形を成していく。
きっと、
二人は人知れず想い合っていたのだ。
けれど、
何か事情があって。
姫様は、
その方のお名前を挙げることができなかった。
だから、
釣書を前にずっと悩んでいた。
そして今日。
ようやく、
宵の国の王弟家を選んだ。
だから。
こんなにも、
嬉しそうに笑っているのだ。
「……姫様。」
若い侍女は、
そっとLunariaを見つめた。
難しい顔で政務書類を眺める姿ではない。
兄王を失って以来、
どこか張り詰めていた女王でもない。
窓辺で菓子を摘まみ、
風に髪を揺らしながら。
ただ、
幸せそうに笑っている。
若い侍女も、
つられるように微笑んだ。
……良かった。
姫様にも、
ちゃんとお好きな方がいらしたんだ。
「……ふふ。」
Lunariaが、
もう一つ菓子を摘まみながら小さく微笑んだ。
「もう、
釣書を見なくていいのね……。」
心の底から安堵したような声だった。
けれど、
少し離れた場所にいた若い侍女には、
その呟きまでは届かなかった。
若い侍女は、
ただ一人で確信していた。
……姫様、やっぱり。




