4. 初恋
それから毎日のようにプリシラは、外国語を勉強したくないと駄々をこねていた。なんだかんだ公爵夫妻は一人娘に甘い。仕方なく家庭教師を王都に返そうとしていた。
「夫人、お願いがあります。僕がその外国語の授業を受けてもいいですか?」
もちろん自分はただの書生。プリシラのために高額で雇われた教師だということは十二分に分かっている。だからこそ付け加えた。
「プリシラ様も僕が楽しいと言えば、きっと一緒に授業に参加してくださると思います」
「本当にそうかしら……」
夫人は訝しそうにこちらを見たが、家庭教師を領に留め、僕に授業を受けさせてくれた。
「プリシラ様、ただゲームをするだけではつまらないですね。賭けをしませんか?」
僕はチェス盤を広げながら、言った。
「――賭け?」
「プリシラ様が勝ったら、東方原産のお茶をプレゼントします。もし僕が勝ったら、一緒に外国語の授業に出ましょう」
「東方原産のお茶って、もしかしてグリーンティーかしら……!」
プリシラが珍しくその目を輝かせた。グリーンティーは彼女の一番好きな茶だ。プリシラの『日記』には、『日本』の『緑茶』と似た味がすると書いてあった。だが王都でしか取り扱いがなく、社交で王都に行く時しか買ってもらえないとよく嘆いている。
チェスの勝率で言えば五分五分で、わずかにプリシラが勝ち越している。娯楽に飢えた彼女は必ず乗ってくると思った。
「どうします? やりますか?」
「――受けて立つわ」
僕は一切手を抜かずに盤面の白い駒を動かした。プリシラも善戦している。だが、その手はもう分析済みだ。
「チェックメイト」
白のルークが黒のキングを追い詰めた。
「……私の負けね」
「では、約束通り外国語の授業に出ましょうか。プリシラ様が分からないところは僕が教えますから」
僕はにこりと笑った。それからプリシラは退屈そうに外国語の授業を受けるようになった。物覚えは案外悪くない。やる気さえあれば、それなりに優秀なはずだ。
「――モーリス、あなたがこの授業を受けたいから、私を巻き込んだんでしょう?」
「ふふふ、図星です。プリシラ様、ではこれから今日の授業の復習をしましょう」
「それは、嫌です」
「ほら、グリーンティーも入れますから。この構文は理解できましたか?」
「ちょっと待って。グリーンティーがあるの?」
「ええ。プリシラ様と楽しもうと思って、王都に進学した兄に送ってもらったんです」
実はこの前、公爵家主催のガーデンパーティーで、長兄が婚約者を放置して"恋人"を作って遊んでいると、令嬢たちが噂するのを耳にした。
恋人の存在をほのめかす内容を手紙に記し、グリーンティーを送ってもらえるように"お願い"をしたところ、兄はすぐにグリーンティーを送ってくれた。"恋人"のことは、絶対に両親には言わないようにと念押しの返事もあった。
初めて飲むグリーンティーは普通の茶よりさっぱりして癖がなかった。
「やっぱり、落ち着く味がするわ」
グリーンティーを飲みながら、どこか違う世界を見るような彼女の碧眼に僕も映して欲しいと願った。
それから僕は少しずつ"賭け"を使って、プリシラの行動を変え、彼女と一緒に過ごす時間を増やした。
「あのプリシラが農作業の見学に行き、孤児院の視察まで行くなんて、信じられないよ。モーリス君、ありがとう」
「いえいえ、プリシラ様ご自身の成長ですよ」
公爵夫妻からは感謝され、より信頼を置かれるようになった。プリシラも多少気を許したのか、あの『日記』にあった不思議な言葉を僕の前でも使うようになった。
「緑茶には『おせんべい』があるとうれしいんだけど」
「本は文字ばっかりで読むのが疲れる。『漫画』ってないのかしら」
「ああ『スマホ』でゲームしたい」
僕は彼女の独り言のようなぼやきを聞き逃さなかった。時に彼女に聞き返し、時にそれをメモに書き留めた。彼女だけが知っているもう一つの世界を僕も知りたかった。
――これが初恋というものなのだろうか。
公爵夫妻に言われて、プリシラが他の令息たちとお茶をすると、いても立ってもいられない気持ちになった。だから終わるとすぐに彼女に会いに行った。彼女の記憶を自分で上書きしたかった。
「プリシラ様、隣国の王族をそんなに無下に扱わないでください。怒って帰っていきましたよ」
「だって、彼の国の王位争いなんて興味ないもの。あの方自身は、王位継承順位11位よ。ほとんど関係がないお話でしょう」
「彼の国の言語を勉強し始めたんですから、少しは会話を楽しめばいいのに」
「退屈なのは言語の問題ではないわ。内容の問題よ」
「それはそうですが、もう10人以上の縁談を断ったと聞きましたよ。令息方もプリシラ様に気に入られるのは大変だ」
髪の毛をくるくるといじりながら、プリシラは目を伏せた。そして答えた。
「――私に何かを求める方は嫌なのよ」
「求める?」
「ええ。社交も、領政も、それから愛も」
「愛も?」
「だって、愛だの、恋だの、本当にめんどくさいじゃない。そんなものに振り回されて、人生を棒に振りたくないもの」
「プリシラ様らしい考え方で、僕は"好き"です」
「あらそう? 初めて人から共感されたわ」
愛だの、恋だのか。僕はとっくに、プリシラの一挙手一投足に振り回されていた。




