中学編・第8話「推薦という名の、無血開城」
十一月。
文化祭が終わって数日後のことだった。
「凛、部屋片付けなさいって、もう何回言ったと思ってるの」
母が、私の部屋の戸口で腕を組んでいた。
「片付けないと、また何か踏んで怪我するわよ」
その一言に、数日前の記憶が蘇った。
床に転がしたままにしていた、胡桃からの「貢物」――お土産だというキーホルダーを、寝起きの素足で踏み抜いたのだ。
「……痛っ」
足の裏に走った激痛は、今思い出しても声にならない。
険しい岩山も、鬱蒼とした森の獣道も、山火事の火種がまだ燻る焼け野原ですら、難なく踏破してきたこの足だ。
それが、あんな小さな金属片一つにここまで翻弄されるとは、衝撃だった。
(……これも、前世では考えられなかったことだ)
あの一件以来、母の「片付けなさい」という小言は、以前にも増して重みを持つようになっていた。
(……縄張りを整える、とは)
床に散らばった物の数々を、改めて見回す。
教科書、脱いだ制服、読みかけのプリント。
前世であれば、これくらいの散らかりようは気にも留めなかった。
寝床の周りに骨や毛皮の欠片が転がっていようと、誰に咎められることもなかった。
だが、今のこの足では、話が違う。
「……わかった」
渋々、床の物を拾い始める。
何をどこに置けば「片付いた」ことになるのか、いまだによくわからなかったが、母の機嫌を損ねるよりはましだった。
(……これも、人間の縄張りの保ち方、ということか)
一つ一つ拾いながら、私はそう自分を納得させた。
そんなある日の昼休み、胡桃と食後のひと時を緩やかに過ごしていると、一人の女子生徒が教室に飛び込んできた。
「凛ちゃーん、胡桃ー、ちょっと来てー!」
有無を言わさず両手を引っ張られ、そのまま体育館まで連れて行かれる。
そこには、バスケットボールを抱えた男子の集団と、なわとびやバドミントンの道具を手にした女子の集団が、体育館の真ん中で睨み合っていた。
両陣営合わせて、二十人近くはいる。
「だから、昼休みの体育館は俺らが先に予約したんだって!」
「は? 今週は女子の週でしょ、ずっとそうだったじゃん!」
(……縄張り争いか)
これまでで一番、規模の大きい争いだった。
聞き覚えのある構図に、体が勝手に反応した。
「待て」
両陣営の間に進み出る。
視線が一斉に集まった。
「事情を話せ」
問いただすと、話はすぐに見えてきた。
元々、体育館の昼休み使用は男女で交互に使う取り決めだったらしい。
だが先週、文化祭の片付けで体育館が使えない日があり、使用日がそのままずれ込んだ結果、双方とも「今週は自分たちの番だ」と思い込んでいたのだ。
どちらも嘘をついているわけではなく、ただ記録が曖昧になっていただけだった。
「双方とも、悪意があったわけではないようだな」
ぐるりと両陣営を見渡す。
「ならば、今日はこうしろ。体育館を半分に区切れ。コートの半分でバスケを――」
「……それ、できるのか?」
男子の一人が、半信半疑に尋ねてくる。
「3on3だと、半面だけで良くない?」
横から、胡桃がするりと助言を挟んできた。
(……すりーおんすりー?)
聞いたこともない単語だった。
内心、その意味を必死に巡らせる。
だが、男子たちが一斉に「ああ、それなら」と顔を見合わせ、納得した様子を見せたのを目にして、私は何食わぬ顔で深く頷いた。
「うむ。すりーおんすりーだ。元よりそのつもりだった」
知った風な口を利きながらも、内心では密かに、隣の胡桃を誇らしく思っていた。
(……これが、補助の力というものか)
勇者パーティーの魔法使いが見せた、あの淡い光の補助魔法を思い出す。
直接戦いはせずとも、的確な一手で味方を後押しする力。
胡桃の助言は、まさにそれと同じだった。
(……悪くない。私の陣営にも、有能な補助役がいるらしい)
「残り半分でバドミントンと縄跳びをやればいい。互いの邪魔にならない範囲で動け」
しばらくの沈黙の後、誰かが「まあ、それで……」と呟くと、両陣営はぞろぞろとコートの中央に引かれたラインを境に分かれ始めた。
(これで、この一帯も平定したな)
体育館を出ようとしたところで、女子の一人が駆け寄ってきた。
「ありがとう、朝霧さん! 胡桃も! 実は朝からずっと揉めてて、地味に困ってたんだ」
(……また、これか)
征服したつもりが、また感謝で終わる。
何度経験しても、この感覚にはまだ慣れなかった。
今度は一人や二人ではなく、二十人近くから同時に向けられる感謝だった分、戸惑いも一際大きかった。
文化祭から数日が経っても、教室の空気にはまだ、あの時の高揚が少し残っていた。
「朝霧さん、ちょっといいか」
放課後、担任に呼び止められた。
前にも一度、こうして呼ばれたことがある。
机を挟んで向かい合うと、担任は手元の資料に目を落とした。
「成績表、見てみたんだけどさ」
「……不出来で、すまないとは思っている」
「いや、そういう話じゃなくて」
担任が、苦笑しながら首を横に振った。
「事故の前まで、朝霧さんの成績、別に悪くなかったんだよ。飛び抜けて良いってわけでもなかったけど、平均よりは上だったし、何より生活態度の評価がずっと高かった。先生たちの間でも、朝霧さんは真面目な生徒だっていう印象が強かったんだ」
(……そうだったのか)
自分でも知らなかった、前世以前の自分への評価だった。
妙にくすぐったい気分になる。
「それが、事故の後は授業についていくのが大変そうで……正直、このままの状態で一般入試を受けるのは、結構不安があるんだよね」
数式ひとつ満足に解けない身としては、納得しかない評価だった。
「でも、朝霧さんを何とか高校に行かせてあげたいとは思ってる。それで、ここ最近の様子を見ててね」
担任が、どこか含みのある笑みを浮かべる。
「文化祭の時のこと、覚えてるよ。あれだけクラスをまとめられる子、そういないから。それに、この前の体育館の件も聞いた。男子と女子が揉めてたのを、その場でうまく収めたんだって? ああいう力は、なかなか持ってる子がいないんだよ。一般入試は心配でも、推薦入試なら、十分に可能性があると思うんだ」
「……すいせん」
先日聞いたばかりの単語を、もう一度反芻する。
「学校長からの推薦があれば、筆記試験なしで、面接だけで合否が決まる制度。朝霧さんの生活態度や、文化祭でのリーダーシップなら、十分に評価してもらえると思う」
「筆記試験は、本当に一切ないのか?」
念を押すように尋ねる。
「うん、面接だけ」
と、担任は深く頷いた。
(……戦わずして、道が拓けるということか)
前世であれば、考えられないことだった。
力を示さぬまま、何かを手に入れるなど。
だが、これもまた、この世界の戦い方の一つなのだろう。
「やります。確実に」
「お、頼もしいね。じゃあ、来月には書類の準備を進めよう。面接は一月だから」
「一月、か」
呟きながら、私は静かに闘志を燃やしていた。
血を流さずして道を切り拓く――無血開城、というやつだ。
前世にも、こういう類の決着はあった。
私の気配を恐れ、戦いもせずに領地を捨てて逃げ出す魔物は、決して珍しくなかった。
別に構わなかった。
だが、心のどこかで、つまらないとも思っていた。
張り合いのない勝利ほど、味気ないものはない。
それなのに今、自ら望んでこの"戦わない"道を選んでいる自分がいる。
我ながら、妙な話だった。
だが、爪も牙も尻尾もない今の私には、これもまた一つの戦い方なのだろう。
そう納得することにした。
これもまた、新しい時代の征服の形なのかもしれない。
職員室を出ると、廊下で胡桃が待ち構えていた。
「凛、先生に呼ばれてたよね? 何の話だったの?」
「進路の話だ。推薦入試というものを、勧められた」
「えっ、すごいじゃん! ……あ、でも凛、成績的にはどうなの?」
率直な問いに、私は少し考えてから答えた。
「文字の読み書きだけは、最近、妙にすらすらとできるようになった気がする」
実際、最初の頃は教科書の文字すら読み解くのに苦労していたはずなのに、いつの間にか、特に意識せずとも目で追えるようになっていた。
これはおそらく、この体に染み付いていた、本来の凛の記憶によるものなのだろう。
「でも、授業の中身は、相変わらずさっぱりだ」
「ああ……数学とか?」
「数学に限った話ではない。すべてだ」
歩きながら、つい本音が漏れた。
前世では、魔法陣を一目見るだけで、その仕組みが理解できた。
風を吹かせ、大地を揺らし、時には雷を呼んだ。
世界の理と自分とが、すっと一つに繋がる感覚があった。
あれは、心から楽しかった。
それなのに、今この体で受ける授業には、欠片ほどの興味も湧かない。
「正直に言うと、興味のないことを一方的に聞かされ続けるのは、拷問に近い。いや、一種の呪いと言ってもいいかもしれない」
「呪いて」
胡桃が、横で噴き出した。
「でも、なんかわかるかも。私も数学とか興味ないと頭に全然入ってこないし」
「……胡桃にも、それがわかるのか」
「わかるよそりゃ。人間、興味ないものはほんと頭に入らないんだって」
胡桃があっさりと同意したことに、少しだけ驚いた。
前世と現世、これほどまでに価値観の違う身でも、共感できることがあるとは。
「だから推薦、頑張ろうよ。凛、ペーパーテストより絶対そっちの方が向いてる」
「……そうだな」
素直に頷きながら、私はその言葉を胸に刻んだ。
夕食の席で、推薦入試の件を切り出すと、家族は思いのほか盛り上がった。
「すごいじゃない、凛! 先生がそこまで言ってくれるなんて」
母が、目を輝かせながら身を乗り出す。
「姉ちゃん、面接って何すんの? なんか喋るだけ?」
陸が、興味本位で尋ねてくる。
「自分のことを話し、相手に認めさせる場、と聞いている」
「それ、姉ちゃんの得意分野じゃん」
陸が笑いながらそう言うのを聞いて、なぜか誇らしい気分になった。
「面接、一月なんでしょ? それまでに、ちゃんと練習しないとね」
母の言葉に、私は深く頷いた。
(……鍛錬が必要、ということか)
具体的に何をどう鍛えればいいのか、まるで見当もつかなかったが、気概だけは十分にあった。
「お父さん、その前にクリスマスもあるよ! 忘れないでよね!」
楓が、話の腰を折るように割り込んでくる。
「くりすます……」
また聞き慣れない単語が増えた。
それが何なのか問い質す間もなく、話題はあっという間にケーキの味と、プレゼントの相談へと移っていった。
(……どうやら、面接の前に、また一つ知らない儀式が待っているらしい)
新たな未知との遭遇を、私は静かに覚悟した。




