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中学編・第7話「文化祭という名の、新たな領土」

十一月。

文化祭本番を三日後に控えた、ある朝のことだった。


「凛、いい加減観念しなさい」


リビングのソファで、母に羽交い締めにされていた。


「待て。話し合おう」

「話し合いはもう先週もその前もしたでしょ。ほら、暴れない」


母の片腕が、私の体をしっかりと固定していた。


「楓、それ」

「はーい」


呼ばれた楓が、台所からとことこと駆けてきて、あの小さな刃物――爪切りを母の手に握らせた。


(……見事な連携だ)


退路を断つ位置取り、合図一つで援護が来る呼吸の合わせ方。

あの勇者パーティーの見事な連携攻撃の記憶が重なるほど、息の合った連携だった。

素直に感心した。


同時に、別の感情も湧き上がる。


(楓……お前まで裏切ったか)


懐いてくる小さき者だとばかり思っていたが、いざとなれば母の側につくらしい。

少しだけ、胸の奥がちくりとした。


(……これは)


嫌がる猫の爪を切る飼い主の構え、というやつだ。

どこかで聞いた覚えがある。

まさか自分がその"猫"の側に回る日が来るとは、思ってもみなかった。


何度も逃げてきた。

母が「爪切るよ」と声をかけるたび、用事があるふりをして部屋に引っ込んだり、寝たふりを決め込んだりした。


今朝もそうするつもりだったが、ついに先回りされ、退路を断たれた形だった。


「凛、爪伸びすぎ。危ないから切るよ」


そう繰り返す母の声には、もう何度目かの諦めと、それでも譲らない頑固さが滲んでいた。


抵抗があった。


前世において、爪とは武器だった。

岩をも引き裂き、古竜の鱗をも貫き、巨獣の喉笛にとどめを刺した、誇り高き得物だ。


森の主との七日間の死闘――最後にあの喉元へ突き立てたのも、この爪だった。


それを今、自ら鈍らせようとしている。


本来なら、あり得ない行為だった。

武器を手放すなど、敗北を意味する。

前世であれば、死を覚悟するのと同義だった。


「ほら、手出して。ぱちん、てやるだけだから」


母は何でもないことのように言う。

当然だ。

人間にとって、爪は武器ではない。

ただ伸びた角質に過ぎない。


その温度差に、奇妙な疎外感を覚えた。

それでも、もう逃げ場はなかった。


観念して、手を差し出す。


ぱちん。


呆気なく、爪の先が落ちた。


(……これだけか)


拍子抜けするほど、あっさりとした感触だった。

痛みも、抵抗も、何もない。

ただの作業として、それは終わった。


だが同時に、何かを少しだけ失ったような感覚もあった。

獣王としての武装が、また一つ消えていく。


ぱちん、ぱちん、と。

母の手によって、残りの爪も次々と切られていく。

床に落ちる小さな欠片を、私はただ黙って見つめていた。


(尾を失った時も、こうだった)


あの時も、こうして少しずつ、前世の自分が削られていくのを感じた。

今度は爪か。

次は何が失われるのだろう。


「はい、終わり。これでお箸も持ちやすくなるでしょ」


母は満足げに、私の体を解放した。

何の感慨もなさそうな、あっけらかんとした顔だった。


短くなった爪を見つめながら、私はしばらく無言だった。


これは、前世の自分が、また少しずつ薄れていくということなのだろうか。


それとも――これもまた、新しい生き方に必要な、何かの儀式なのだろうか。


答えの出ない問いを抱えたまま、私はソファから立ち上がった。


短く整えられた爪先を、私は授業中も何度か無意識に見つめてしまっていた。

もう岩を裂くことも、喉笛に食い込ませることもできない、小さな人間の爪だ。


尾を失い、牙はもとよりなく、爪まで鈍らされた。

ならば今の私は、いったい何でこの世界を征服すればいいのだろう。


そんなことを考えていた矢先、文化祭準備で騒然とする教室を目にすることになった。


十一月の学校は、いつもと違う騒がしさに満ちていた。


「文化祭の準備、始めるよー!」


担任の号令とともに、教室中が一斉にざわめき出す。

机が動かされ、模造紙が配られ、誰かが脚立を運んでくる。


(……これは)


統制の取れない群れの動きだった。

誰もが好き勝手に動き回り、声を張り上げ、衝突しては言い争う。

まるで、縄張りの再編に手間取っている小型の群れそのものだった。


――武器が使えぬなら、使えぬなりの戦い方をする。

不利を負けた言い訳にしたら、獣王の名が廃るというものだ。


何百年も森の頂点に立ち、その安定に努めてきた者として、この混乱は見過ごせない。


「待て。うるさい」


気づけば、教壇の前に進み出ていた。


声を張り上げたわけでもないのに、なぜか教室中がぴたりと静まり返った。

何百年も頂点に立ってきた者だけが纏う気配が、人間の体に移ってもなお、こういう時だけは顔を出すらしい。


(……爪はない。牙も尾もない。それでも、これだけで場は静まる)


ならば今の私に残された武器は、力そのものではなく、従わせるという行為そのものなのかもしれない。


(……静かにはなった。さて)


問題は、その先だった。指示の出し方など知らない。

前世では、誰かに指図したことも、されたこともなかった。

群れたことすらない身に、采配などわかるはずがない。


それでも、視線を集めたまま黙っているわけにはいかなかった。

「お前は、そこの紙を運べ。お前とお前は、机をあちらへ寄せろ。残りは……好きに動いていろ」


行き当たりばったりの命令だったが、誰も逆らわなかった。

むしろ、てきぱきと従い始める。


(……これで、いいのか?)


理屈はよくわからなかったが、結果として教室の混乱は、みるみるうちに収まっていった。


「……朝霧さん、なんか今、めちゃくちゃテキパキしてない?」


誰かがそう呟いたが、構わず黙って見守った。


これは好機だった。

クラスという小さな群れがこちらに従い始めている。

この勢いのまま、文化祭という名の領土は、おのずと私のものになるはずだ。


作業が進むにつれ、新たな問題も浮上した。


「ねえ、これ、通路狭すぎない? 当日詰まるよ」


誰かの指摘に、お化け屋敷の設計図を覗き込む。

確かに、通路の幅は人ひとりがやっと通れる程度しかなかった。


(……これは)


巣穴の通り道が狭すぎる、というだけの話だ。

森にいた頃にも、似たような失敗をする小物の魔物がいた。

獲物を待ち構える側が、自分の動線まで塞いでどうする。


「通路を広げろ。狭いと獲物が詰まる。詰まれば後ろが苛立ち、苛立てば満足に怖がらせる前に帰っていく」


「獲物て」


誰かが小さく突っ込んだが、構わず続けた。


「脅かし役は、声の大きい者から優先しろ。物陰に潜むのは身軽な者だ。獲物の動きを止めずに流せ。滞留させるな」


「あと、同じ者がずっと脅かし役を続けるな。三十分ごとに交代しろ。消耗した獣は、威圧を失う」


具体的な指示が出るたびに、クラスメイトたちの顔つきが変わっていった。

最初は半信半疑だった者たちも、言われた通りに動かしてみると、確かに人の流れがスムーズになっていく。


「……朝霧さん、なんかガチですごい」


胡桃が、感心を通り越して呆然とした顔で呟いた。

理由はよくわからなかったが、肩の力が抜けるような、妙な感覚だった。

教室の空気も、それにつれて変わっていった。


最初は戸惑っていたクラスメイトたちも、次第に当然のように指示を仰いでくるようになる。


「朝霧さん、次どうすればいい?」

「ここの飾り付け、これでいい?」


「凛、なんか今日、別人みたいだね」


胡桃が、半分呆れたように、半分眩しそうにこちらを見ていた。


(……まただ)


征服のつもりが、いつの間にか「頼れる存在」として扱われている。

この感覚には、いまだに慣れなかった。

それでも、悪い気はしなかった。


文化祭当日。


私が行き当たりばったりに号令をかけ続けた結果、クラスの出し物――お化け屋敷は、滞りなく完成していた。


誰が何を運び、誰が何を貼ったのか、もはや私自身も把握していない。

それでも、開場前の最終チェックは淀みなく進んだ。


(よし。この一帯の支配は、完了したと言っていいだろう)


満足げに腕を組んでいると、担任が驚いた顔で近づいてきた。


「朝霧さん、本当に助かったよ。クラスがここまでまとまったの、初めてかもしれない」


「礼は不要だ。勝手に動き回られるのが嫌で、私に従うように命令しただけで......」


「朝霧さん。来年の三学期はクラス委員、やってみたら?」


(……委員?)


聞き慣れない単語に、私は内心首をかしげた。

だが、深く尋ねる暇もなく、教室にはお化け屋敷を訪れる客の列ができ始めていた。


「お化け屋敷、すっごい人気だね! やっぱり朝霧さんのおかげだよ!」

「ありがとう、朝霧さん!」


口々に礼を言われながら、私は静かに混乱していた。


(……また、これか)


支配したはずなのに。


支配され、服従したものは皆、主人の前で跪き、頭を垂れるものだ。

なのになぜ、いつも笑って目を合わせようとするのだ?


このパターンに、いい加減慣れてもいい頃合いなのかもしれない。

それでも、釈然としない気持ちだけは消えなかった。


夕方、後片付けを終え、一人で帰路についた。


(感謝、か......)


楓から教わったあの言葉の意味を、まだ完全には理解できていない。

だが、繰り返されるたびに、少しずつ輪郭が掴めてきている気もした。


(……次こそは、誰にも感謝されない征服を成功させてみせる)


沈みゆく夕日を見つめながら、心に強く誓った。


そういえば、と思い出す。

担任が口にした、あの聞き慣れない言葉。


(……委員、というのは、群れを束ねる役職のことか)


だとすれば、次に狙うべきは、教室ひとつではないのかもしれない。


そんな考えが、ふと頭をよぎった。


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