中学編・第6話「りんご飴と初めての"征服"」
10月
今日は土曜日で学校が休みだ。
(ようやく休みか、今日はゆっくり過ごそう)
そんなことを考えたいると、
「ねえねえ、お姉ちゃん。今日の夜、神社の秋祭り、一緒に行こうよ!」
楓が、服の裾を引っ張りながら見上げてくる。
「秋祭り?」
聞き慣れない単語に、私は首を傾げた。
「お祭りだよ! わたあめとね、チョコバナナとね......あと、りんご飴!」
指折り数えながら、楓が目を輝かせる。
(......りんご?)
その一語だけが、やけに鮮明に耳へ滑り込んできた。どこか懐かし響を感じる言葉だ。
「......ああそうだ、紫りんごだ。」
なぜすぐに思い出せなかったのだろかと、自分自身に問いかける。
大好きだった紫りんご、その果実の名を聞くだけで、なぜか胸の奥がざわつく。
だが、続けて聞こえた「飴」という言葉には、まるで覚えがなかった。
「......あめ、とは何だ?」
思わず、真剣な声で聞き返していた。
「えー、お姉ちゃん知らないの? 赤くてつやつやで、すっごく甘いやつだよ!」
楓の説明だけでは、「飴」が何なのか、いまひとつ要領を得なかった。
だが、「りんご」が絡んでいる以上、確かめずにはいられなかった。
(......これは、調査する価値がありそうだ)
そんなことを大真面目に決意するのだった。
夕食を終えた後、約束通り、楓に手を引かれて神社の秋祭りへと向かった。
花火も打ち上がらない、こぢんまりとした祭りだった。
提灯の明かりと、人混みの熱気。
慣れない喧騒に身構えていると、ふと、甘く香ばしい匂いが鼻先をかすめた。
屋台のひとつに、真っ赤に艶めく球体が並んでいる。
「りんご飴、いかが?」
串に刺さったそれを見た瞬間、凛の足は勝手に止まっていた。
りんご――その響きだけで心の奥底が疼く。
買ってみた、といっても、財布から硬貨を一枚ずつ慎重に数えながら差し出しただけだ。
屋台のおばちゃんが少し驚いた顔をしてから、釣りを渡してくれた。
(......今度は、合っていたはずだ)
内心で密かに胸を撫で下ろしつつ、一口齧った瞬間、世界が変わった。
(な......っ、これは......!!)
森の紫りんごとは似て非なる味。
パリッと割れる飴の殻、その奥から溢れる甘酸っぱい果汁。
何百年もりんごの王者は紫りんごだと思っていたのに、ここに来て新たな頂点が現れた。
「うまい......うますぎる......」
涙ぐみながら齧る凛を、屋台のおばちゃんが微笑ましそうに見ていた。
その感動が、ひとつの想いを呼び起こした。
(前世では、森の奥で眠っていればそれで十分だった)
誰にも干渉されず、誰にも気を遣わず、ただ気ままに生きていればよかった。何の不満もなかったはずだ。
(なのに、今は違う)
家族は勝手に世話を焼き、弟妹はいつもまとわりついてくるし、友人までもが勝手に隣に座り私に干渉してくる。
時間に追われ、力もなく、数式ひとつ読み解けない。
面倒で、騒がしくて、理解不能なことだらけだ。
それなのに――
(こんなにも奇妙な世界を、ただ眺めて終わるのは、惜しい)
前世、魔王は世界征服を志していた。
当時の凛には興味のない話だった。
だが今ならわかる気がする。
これほど厄介で、これほど騒がしくて、それでもどこか目が離せないこの世界――ならばいっそ、頂点に立ってみるのも悪くない。
(......決めた)
私は、この世界を征服する。
決意とともに、ぎゅっと拳を握りしめた。
何のために、どうやって征服するのか、具体的なビジョンは何もなかったが、そんなことは些末な問題だ。
獣王の流儀とは、まず決意し、それから歩き出すものなのだから。
まずは、手始めとなる場所を見定めねば。
楓と手を繋いで帰路につきながらも、私は油断なく辺りへ視線を走らせていた。
征服への第一歩は、思いがけず早く、しかもごくささやかな形で訪れた。
注意深く周囲を窺いながら歩いていると、小さな公園の前で、ブランコを巡って二人の幼児が言い争っているのが目に入った。
「ぼくがさきだもん!」「ちがう、わたしのばんだもん!」
(......縄張り争いか)
凛の中の何かが、ぴくりと反応した。
これは好機だ。
征服とはまず、目の前の小さな領土を制することから始まる。
そう判断し、凛は迷わずブランコへと近づいた。
「そこの場所、私が預かる」
低く、静かな声だった。
何百年も森の頂点に立ってきた者だけが纏う気配が、人間の体に移ってもなお消えずに残っていたのだろう。
二人の幼児は、ぴたりと言い争いをやめ、目を丸くして凛を見上げた。
「......交代で使え。今日のところは、私が仲裁してやる」
幼児たちは、なぜかこくこくと頷き、素直に順番を守ってブランコに乗り始めた。
(よし。一つ目の領土、制圧完了だ)
満足げに頷いていると、ベンチに座っていた母親らしき女性が、苦笑しながら近づいてきた。
「すみません、うちの子たちが......。仲裁してくれてありがとう。最近、上の子がどうしても譲れなくて困ってたんです」
「礼は不要だ。私はただ、この場所を――」
「本当にありがとうございました。素敵なお姉さんね」
そう言って、母親は楓の顔を優しく見つめた。
凛は混乱した。
これは縄張りの簒奪であり、征服の第一歩であったはずだ。
それなのになぜ、目の前の人間は柔らかく微笑んでいるのか。
訳がわからないまま、凛はその場を後にした。
「あのお母さん、感謝してたね」
歩きながら、楓がのんびりとそう言った。
(......感謝?)
その一語に、思わず足が止まりかけた。
そもそも、その単語の意味自体、よくわかっていなかった。
前世で幾度となく行ってきた簒奪の結果、その地に住み続けたのは、私に服従した者だけだった。
恐怖や畏怖を向けられたことなら、数え切れないほどある。
だが、感謝という感情を向けられた記憶は、一度もなかった。
(......あれが、感謝、というものなのか)
よくわからないまま、私はその言葉だけを、頭の中で何度も繰り返した。
藍色に染まりはじめた住宅街を歩きながら、凛は深く考え込んだ。
(おかしい。世界征服のために動いたはずなのに、なぜか感謝される結果になっている......)
歩きながら、もう一本のりんご飴を取り出し、齧る。
やはり美味い。
(......まあいい。これも何かの布石だろう。次はもっと確実に、征服を進めねば)
その固い決意と、現世での領地初簒奪という小さな満足とは裏腹に、この日、朝霧凛は誰かに感謝されて一日を終えたのだった。




