中学編・第5話「学校という場所」
中学三年、十月。
退院して、初めて学校に戻った日。
学校という場所にも、戸惑うことばかりだった。
決まった時間に登校し、決まった時間にチャイムが鳴り、決まった時間に教室を移動する。
森での暮らしには「時間」という概念そのものが希薄だった。
眠りたい時に眠り、歩きたい時に歩く。
それが当たり前だったのに、ここでは何もかもが鐘の音に支配されている。
鐘が鳴るたび、わずかに苛立ちが募った。
教室は三階にあった。
たかが三階分の階段。
前世なら一息で駆け上がれた高さだったはずだ。
それなのに、踊り場を曲がる頃には息が上がり、最後の数段は膝に手をついて昇る羽目になった。
「凛、大丈夫? なんか今日、息切れしてない?無理しないでよ。」
心配げに声をかけてきたクラスメイトに、凛は答えられなかった。
屈辱で声が出なかったのだ。
数学の授業になると、別の屈辱が待っていた。
黒板に並ぶ意味不明な記号の羅列――x、y、π――に、凛は本気で眉根を寄せた。
何かを語りかけてくる呪文のような記号たちが、まったく理解できない。
(……これは、何かの呪術か? それとも暗号文の一種か?)
おかしい。
古代語で刻まれた失われた呪文体系も、複雑極まる術式の構成式も、かつては一目で見抜けたはずだった。
森の遺跡に眠っていた知識なら、大抵のものは頭に入っている自負があった。
それなのに、目の前の「x」と「y」が、何を意味するのかさえわからない。
(……これは、術式ではない、ということか)
博識だったはずの自分が、人間の子供が当たり前に習う数式ひとつ解読できないという事実に、凛は静かに打ちのめされていた。
授業中、案の定、睡魔に襲われた。
これも前世からの習性で、気持ちよく眠れる場所さえあれば時間など気にせず眠ってしまう。
「朝霧さん、また寝てる……」
「でも怒られないんだよね、なぜか先生に」
机に突っ伏して眠りこける凛を、クラスメイトたちはもう見慣れた様子で眺めていた。
休み時間になると、また別の戸惑いがやってくる。
チャイムが鳴った瞬間、教室中の生徒が一斉に席を立ち、廊下へとなだれ込んでいく。
まるで、餌場を見つけた小型の群れが我先にと殺到する光景そのものだった。
「凛、お昼一緒に食べよ!」
胡桃が無邪気に駆け寄ってくる。
一匹狼として何百年も生きてきた身には、「一緒に何かをする」という発想自体が新鮮すぎた。
さらに放課後、胡桃に連れられて、校門近くの自動販売機の前まで来た。
「あー、喉乾いたー。私はダイエット中だからお茶にしよっと。凛は?」
「我は、森の新鮮な湧き水が飲みたい」
本心からの言葉だった。
「ぷっ――、また凛のいつものやつが始まった。入院前は黒魔術設定だったけど、今は何設定?」
「何設定とは?」
「凛の頭の中のキャラ設定だよ」
「設定というか、前世は獣王だ」
「へー、えっ、獣王!? 意外なとこ攻めてきたねー。まあ凛らしくていいけど」
「で、早く飲み物買ったら?」
「どうやって?」
「お金入れて」
「お金って?」
「……」
「……」
「……」
胡桃が、無言でこちらを見つめてきた。
そう言われて、私は初めて違和感に気づいた。
(……金、というものが、要るのか)
前世では、欲しいものは力ずくで奪うか、それで足りなければ諦めればよかった。
紫りんごも、勝手に木から落ちてくるものを拾っていただけだ。
誰かに対価を払うという発想自体が、根本から存在しなかった。
財布の中身を覗いてみる。
硬貨と紙切れが、いくつか入っていた。
重さも大きさもばらばらで、どれがどれだけの価値を持つのか、見当もつかない。
「……これは、どう使うものなのだ?」
「は? 普通にお金でしょ、何言ってんの」
胡桃が苦笑する。
(……博識だったはずの自分が、こんな初歩的な仕組みすら知らないとは)
森の遺跡に眠る古代魔法陣の構成式すら見抜いた自負がある。
それなのに、目の前の小さな金属片と紙切れの価値が読み解けない。
屈辱だった。
結局、適当に硬貨を数枚差し出すと、胡桃が「多すぎ」と笑いながら釣りを返してくれた。
(……次は、間違えないようにせねば)
固く心に誓いながら、私は釣りの硬貨を握りしめた。
帰宅後、夕食の席でもこの話題を持ち出すと、母が苦笑しながらこう言った。
「もう、まだそんな調子なの? 先生にも言われたでしょ、しばらくは混乱するかもしれないって」
「事故の後だから」
その一言で、また片付けられた。
(……違う。これは混乱ではない。ただ、知らなかっただけだ)
胸の内でそう反論したが、口には出さなかった。
説明したところで、誰も信じないだろうことは、もう経験で学んでいた。




