中学編・第4話「始まりの朝」
中学三年、十月。
気づけば、学校に通い始める、その最初の朝を迎えていた。
枕元で、甲高い電子音が鳴り続けていた。
この「目覚まし時計」という名の拷問器具を知ったのは、昨晩のことだった。
「凛、明日寝坊しないように目覚ましセットしておきなさいよ」
と母に言われたのだが、まさかこんな奇妙な音で起こされるとは思いもしなかった。
気が向くままに眠り、気が向くままに目覚める生活しか知らなかった身には、この機械的な強制起床こそが、人間社会からの最初の宣戦布告のように思えた。
(クッ、なんと忌々しい音よ)
ノロノロとベッドから這い出し、眠い目を擦りながら自分の部屋を出た。
「凛、そろそろ降りてこないと遅れるわよー」
とキッチンにいる母が声をかけてきた。
いつもは壁に手を添えて慎重に階段を降りていたのだが、慌てて階段を降りようとした為、不意に体がふらついた。
(あっ、落ちる)
そう思った瞬間、体が勝手に動いた。
二本足より四肢で踏ん張る方が圧倒的に安定する――体に染みついた本能が、理屈より先にそう判断したらしい。
気づけば、階段の途中で四つん這いになっていた。
「ちょっ、お姉ちゃん何してるの!?」
楓が悲鳴じみた声を上げる。
その声を聞きつけ、母がキッチンから飛び出してきた。
「凛! 何やってるの、行儀悪い! ちゃんと二本足で歩きなさい!」
母の一喝に、凛の体は勝手に固まった。
(……っ)
びりびりと、何かが背筋を駆け抜けた。
逆らってはいけない――そんな感覚が、理屈より先に体を支配する。
おかしい。
前世の自分は、魔王にすら気圧されたことなどなかったはずだ。
それなのに、この母という生物の一喝には、本能のレベルで逆らえない。
(……まさか、母は、私より格上なのか?)
大真面目にそう分析しながら、凛はそろそろと二本足で立ち上がった。
「は、はい……」
獣王時代には、威嚇の咆哮ひとつで森中のモンスターを黙らせていた。
それなのに、今の自分の声は、情けないくらいに小さい。
声まで小さくなっていた自分に、凛は誰よりも動揺していた。
ようやく階段を降りきった私に、楓がぺたぺたと駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
そう繰り返しながら、小さな手が服の裾を掴んでくる。
戸惑いながらも、小さな手を振り払うことはしなかった。
なぜか、振り払ってはいけない気がした。
「姉ちゃん、寝坊?早く準備しないと置いていくよ」
陸はそう言って急かしてはいるが、置いて行く気配はない。
我が準備を終えるまで待ってくれているようだ。
「お兄ちゃんはツンデレだからねー。素直じゃないんだよ。」と楓が教えてくれた。
(陸はツンデレ。陸はツンデレ。)心の中で繰り返す。
着替えにも難儀した。
制服の胸元についた、布でできた奇妙な輪――リボンというものらしい――をどう結べばいいのかわからず、十分近く格闘する羽目になった。
結局、ぐしゃぐしゃの結び目のまま部屋を出ることになる。
(これは……拘束具の一種か?)
ようやく出発の準備を終え、
「行ってきまーす」
陸と楓が元気に声を合わせた。
「い、いってきます。」
二人の元気さに少し圧倒されながら、楓に手を引かれ陸と3人で家を出た。
陸と楓の通う小学校は、家から歩いて10分ほど。
そこからさらに10分ほど歩いた先に目指す中学校がある。
通常小学生は近所の子達と集団校するらしい。
しかし今日は楓が「今日はお姉ちゃんと一緒に行く」と言って譲らなかったので、陸と3人途中まで一緒に行くことになったのだ。
手を繋いだ楓はとても嬉しそうだ。
「陸も我と手を繋ぐか?」
「え、俺はいいよ、別に」と少し顔を赤らめていうので、
「遠慮するな、幸いにも我の手は二本ある。」と言って陸の手を取ると、素直に繋がれた。
「よかったね、お兄ちゃん。」
楓が嬉しそうに陸の顔を覗き込んだ。
「うるせっ」
(なるほど、陸はツンデレ)
「それとお姉ちゃん、『我』じゃなくて『私』ね」
「ああ、そうだな。私、私、我は私です。」
「我は私ですって、どういうこと?」陸も楓も大笑いしていた。
小学校の校門の前に到着すると、一人の少女が立っていた。
「あっ、胡桃ちゃんだ。おはよー。」
「楓ちゃん、おはよー。陸くんもおはよー。」
胡桃は凛の友人だそうだ。明るくて元気、それが初めて会った印象だった。
(この少女が胡桃か・・・。)
「凛、おはよー。会いたかったよー。」
と近づいて来たかと思ったら、いきなり抱きついてきた。
「退院したって聞いてからスマホに連絡入れたのに、全然既読にならないから心配したよ。」
「すまん、しばらく使っていなかったのだ。」
そう、昨晩胡桃から、スマホに連絡しても繋がらないからと自宅に連絡があったのだ。
明日小学校前で待ち合わせして一緒に行こうというということだった。
「まあ、凛も入院したりで大変だっただろうから、別にいいんだけどね。」
「胡桃ちゃん、お姉ちゃんの事お願いします。」楓が胡桃に頭を下げる。
「凛のことは、親友の胡桃にお任せあれ。じゃあ行ってくるね、楓ちゃん。」
胡桃は、陸と楓に手を振り、
「さあ、久しぶりの学校へレッツゴー」と中学校に向かって歩き始めた。
(いよいよ学校か......)




