中学編・第3話「人間の暮らし」
父と母、そして弟の陸、妹の楓。これが今の我の家族だ。
出会った最初の頃は妙に距離感の近い人間達、という印象しかなかったが、次第に家族というもの達が、凛にとって特別大切な存在である事は理解できた。
頭で理解というよりは、体の内側の何かがそう感じさせるのだ。
(家族の顔を見ていると、何だか警戒感が薄れるな・・・。)
退院してから家族と一緒に見覚えのない家に帰ってきた。
「姉ちゃん、お帰りー。」
「お姉ちゃん、おかえりなさい。」
陸と楓が口を揃えて出迎えてくれた。
(...... 。)
「凛、ただいま、は?」母に促される。
「ただいま。」
(人間は住処に戻った時に、こういった挨拶を交わすのか......。)
「姉ちゃん久しぶりに帰ってきて嬉しいのはわかるけど、早く靴脱いで上がったら?」
「あっ、そうだな」
履き慣れない靴を脱いで玄関を上がると、楓が我の手を引きリビングへと誘ってくれた。
ソファーに座るや否や、
「お姉ちゃんが無事に退院できて本当によかったー。」
と楓が抱きついてくる。
「お兄ちゃんもこっちに来たら?」
「何でだよ?」
「お姉ちゃん聞いて。お兄ちゃんね、お姉ちゃんが帰ってくるまでずっとソワソワしてたんだよ」
「ソワソワとかしてないし」
と陸は顔を赤くしながらも隣に腰をおろしていた。
思わず陸の頭を撫でてやる。
陸は嫌がるわけでもなく、ちょっと嬉しそうにじっと頭を撫でられ続けるのだった。
家に帰ってきてからも、人間社会での生活は戸惑うことばかりだ。
まずは、立って歩くこと自体が、まだどうにも板についていなかった。
前世では、屈強な四本の足と尾とで体のバランスを取りながら、地を駆けていた。
重心が崩れかけても、尾の一振りで瞬時に立て直せた。それが当たり前だった。
それなのに今は、足が二本しかない。尾もない。
片足を踏み出すたびに、体が左右に揺れる。
(……これで、よく人間どもは器用に歩けるものだな)
まだ使い慣れない2本の手を壁に添え、細く二本しかない足で、元獣王こと朝霧凛は、家の廊下をのろのろと進むのであった。
助かったのは、少しではあるが、日常の生活動作をこの体が覚えていてくれた事だ。
食事もそうなのだが、以前とは体の作りが違うのに自然と体が動く。
ただ、箸という2本の棒にはかなり苦戦している。
しっかり持とうとすると動かせないし、かといって力を抜いた途端に、ストンと手からこぼれ落ちるのだ。
(くっ、また落ちた。よくもまあ、みんな器用に使いこなせるものだ。)
何度も諦めて手掴みで食べようとしたのだが、
(自分よりも幼き者どもですら自在に操っているのだ。獣王である我がここで無様な姿は見せられん。)
と健気に努力を続けるのであった。
「姉ちゃん、箸持つの苦手になったの?俺が教えてあげようか?」
と陸が自慢げな顔で言ってきた。
「陸、あんた人に教えれるほど箸の持ち方上手じゃないでしょう。」
と母親がやれやれという顔をしながら言う。
「お姉ちゃん、私に任せてー。」
と楓が我の右手に優しく手を添え、箸の持ち方と動かし方を教えてくれるのだった。
「楓、まだ少し手の動かし方がぎこちないようだから凛にスプーンとフォークを出してあげて。」
と母が楓に声をかけた。
「それから楓、お兄ちゃんに箸の正しい持ち方を教えてあげて。」
と陸の方を横目で見ながら言うのだった。
よく見ると、陸の持っている2本の箸は互いに交差していて、母や楓の持ち方とはずいぶん違うようだ。
「い、いや、俺はいいよ。」と陸が慌てて食事を口にかき込み、「ご馳走様でしたー」とそそくさと場を離れていった。
家では、母が食事の準備をしてくれる。
「凛、ご飯できたわよー」これが食事の合図だ。
毎回、温かな食事がテーブルに並んでいる。
しかも1日に3回もだ。
獣王であった時、食べ物は自分で探すか、狩るのが当たり前だった。
決まった時間に食べるという感覚もなかった。
それ以外の時にでも喉が渇いたり、小腹が減った時には、「冷蔵庫」と呼ばれる食糧庫の扉を開けばそこに食料が入っている。
(なんと恵まれていることか。この生活を長く続け過ぎると、狩の感覚が鈍りそうだ。)
しかし、何でも食べて良いというわけではないらしい。
昨日、小腹が空いたので冷蔵庫を開け、手前に置いてあったものを適当に手に取り食べていると、妹の楓が「あーっ、それ私のシュークリームー」とわんわんと泣かれた。
「そうだったのか、すまん。あああっ、そんなに泣くな。」楓に泣かれると自分でもどうしたらいいのか分からなくなって戸惑ってしまった。
(これからは食べても良いかどうか必ず確認しよう)
そうこうしているうちに、日常生活に支障がない程度にはこの世界に馴染んできていた。
楓のおかげもあり、箸の扱いもかなり上達してきた。
ソファーに腰掛けていると、陸が横に座ってきて、
「姉ちゃん、最近だいぶん調子が戻ってきたね」
「箸の扱いについては、もはや陸を超えたと確信している」
「いや、まだ俺の方が上手いから」と、食事の時間でもないのに箸を持ち出して一生懸命に動かして見せる。
「お兄ちゃん、何してるの?」
と呆れた顔の楓と目があった陸は、
「俺と姉ちゃん、どっちが上手い?」
「お姉ちゃんだね。」
「えっ、マジで?」
「お兄ちゃんは箸がずっとバッテンになってるよ。もっと頑張ろうね。」
(陸よ、本当に上達せんな......)
そこに買い物から帰ってきた母が、
「ただいまー、あら、3人揃って何してるの?」と陸の手元の箸を見た。
「陸......、頑張ろうね。」
その日の夜、母が「凛、そろそろ大丈夫そうだから、来週あたりから学校行ってみようか。」と言ってきた。
制服というものを着せられ、学校という場所に通うことになるのだと聞かされた。
(学校か......、何かの修練場のことであろうな。楽しみだ。)
「その『我』っていう最近の口癖も学校ではやめなさいよ」と何度も「私」と言うのだと、言い直させられた。
(一体、我という言い方の何がいけないのだ?)




