中学編・第9話「保健室という名の、新たな領土」
十二月。
クリスマスを十日後に控えた、ある朝のことだった。
布団から出た瞬間、思わず身震いした。
(……寒い)
前世であれば、この程度の気温、気にしたこともなかった。
毛皮はもちろんあったが、それだけではない。
あの体には、内側から絶えず滾る何かがあった。
力という名の熱だ。
それが全身を巡り、どんな寒風の中でも、芯から凍えるということがなかった。
今の体には、それがない。
剥き出しの肌の下に、たいした熱源もない。
小さく、細く、ただ薄い皮一枚で外気と隔てられているだけの体だ。
なんと心許ないことか。
「凛、ちゃんとコート着ていきなさいよ。今日、すごく冷えるから。」
母に着せられた、もこもことした上着に袖を通しながら、つくづく思う。
(……毛皮どころか、内から滾る力そのものを失った、ということか。)
尾を失った時とはまた違う種類の喪失感だった。
あの時は誇りを失った。
今回は、自分を内側から支えていた何かそのものを失った気がした。
ただ、純粋に寒い。
それだけのことが、こんなにも心細い。
尾も、爪も、牙も失った。
物理的な攻撃力という意味では、もはや無に等しい。
それだけではない。
この、毛皮一枚すらない体の防御力は、一体どれほどのものなのだろうか。
先日、小さな金属片一つを踏んだだけで、声にならない悲鳴を上げた記憶が蘇る。
あの程度の衝撃にすら、まともに耐えられなかった。
おそらく、羽虫の一撃にすら危ういだろう。
(攻めることも、守ることもできぬ。これでは、ただの......)
そこまで考えて、苦笑した。
前世の自分なら、即座に格下と断じていたであろう状態だった。
学校では年末の大掃除が行われた。
机を運び、床を磨き、窓を拭く。
普段とは違う空気の中、生徒たちは思い思いに作業をこなしていた。
廊下の向こうで、二年生らしき男子二人が、雑巾を投げ合ってふざけ合っているのが見えた。
最初は、ただのじゃれ合いだった。
だが、ふとした拍子に、片方の投げた雑巾が相手の顔に直撃した。
「……は? 今わざとだろ」
「いや違うし」
笑いを含んでいた空気が、急速に冷えていく。
「謝れよ」
「だから違うって言ってんじゃん」
突き飛ばし合いが始まり、それはあっという間に、本格的な殴り合いへと変わっていった。
(……ほう)
私はその場に立ち止まり、しばらく様子を眺めていた。
久しく見ていなかった光景だった。
力と力が真正面からぶつかり合う、それだけの単純な争い。
前世では当たり前に目にしていたものが、妙に懐かしく感じられた。
「先生呼んでくる!」
誰かが叫び、廊下を駆けていく。
「ちょっと、二人ともやめなよ!」
そう叫びながら、慌てて二人の間に割って入ろうとしたのは、胡桃だった。
(……あいつ)
止めに入るには、いささか分の悪い体格差だった。
そう思った時には、もう遅かった。
殴り合いの勢いそのまま、一人が大きく振り回した腕が、間に入ろうとした胡桃の頬をかすめた。
胡桃が、頬を押さえてその場にうずくまる。
(……っ)
ブチッ、と。
頭の奥で何かが切れる音がした。
気づいた時には、私は既に二人の間に立っていた。
低く、地を這うような声が出た。自分でも、驚くほど冷えた声音だった。
「……今、何をした」
殴り合っていた二人が、弾かれたようにこちらを見る。
何も言わなくとも、伝わるものがあったのだろう。
二人の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「お、おれら、わざとじゃ……」
「お前たちは……」
何かを言いかけて、言葉に詰まった。
胸の奥で、得体の知れない感情が渦巻いていた。
これは、ただの縄張り意識ではない。
「……胡桃を、巻き込んだ。それだけで、お前たちの喧嘩は格を失う」
「うるせーよ……ブス」
殴られた側の男子が、悔し紛れにそう吐き捨てた。
(……ブス?)
意味はわからなかった。
だが、侮蔑の響きであることだけは、はっきりと伝わってきた。
(獣王たるもの、格下のそんな安い挑発には乗らん)
そう思った、はずだった。
「なんだと、貴様。それは、命の覚悟を持っての言葉であろうな!」
気づけば、そう叫んでいた。
自分の意志とは無関係に、口が勝手に動いていた。
「ひっ……」
男子が、小さく息を呑んで後ずさる。
しゃがみ込み、頬を押さえる胡桃の顔を覗き込む。
傷はそう深くはなさそうだったが、頬が赤く腫れ始めていた。
「大丈夫か」
「あ、うん……平気平気。ちょっと当たっただけだから」
軽い口調を装ってはいたが、よく見ると、その手は小さく震えていた。
男子二人を止めに入ったはいいものの、力では到底敵わず、殴られる寸前のところまで肉薄されたのだろう。
唇を固く結び、目元には涙が滲んでいたが、それでも泣くまいと懸命に堪えているのが伝わってきた。
頷くのを確認してから、私はゆっくりと立ち上がり、未だ呆然と立ち尽くす二人を見据えた。
「殴り合いがしたいなら、二人だけでやればいい。だが、止めようとした者を巻き込むなら、話は別だ」
それ以上、何かを命じたわけではなかった。
それでも、二人はすっかり戦意を失った様子で、互いに目を逸らし合っていた。
ほどなくして、先生が駆けつけてきた。
「お前ら、何やってんだ! ……怪我した子は? 保健室連れてくぞ」
慌ただしく場が動き出す中、私はその場を静かに離れた。
(……いつもと、何かが違う)
これまでの「征服」は、いつも自分から仕掛けるものだった。
だが今回は、誰かを――それも、胡桃を守ろうとして、気づけば体が動いていた。
その違いに、自分自身、少し戸惑っていた。
保健室まで、私は胡桃に付き添った。
「もう平気だってば。凛、教室戻りなよ」
「いや、念のためここも見ておく」
(……万が一、ここでまた何かあっては困る)
そう判断し、保健室の隅に陣取ることにした。
白い壁、消毒液の匂い、整然と並んだ薬品棚――転生直後に目を覚ました、あの病院の記憶がふと蘇る。
(……あの白魔導士たちの巣と、似た類のものか)
緑川先生もまた、白い服に身を包んでいた。
おそらく、あの時の白魔導士と同じ類の者なのだろう。
緑川先生が、冷えピタを胡桃の頬に貼りながら、苦笑する。
「付き添ってくれて優しいのね、えっと……」
「朝霧凛」
「朝霧さんね」
「優しいわけではない。警戒しているだけだ」
手負いの状態に乗じて、好機と見て牙を剥いてくる輩は、前世でも珍しくなかった。
瀕死で身動きの取れない私に襲いかかってきた、あの短絡的な魔物たちの顔が、ふと脳裏をよぎる。
胡桃が今、まさにあの時の自分と同じ状態にある。
油断などできるはずもなかった。
そう答えると、緑川先生はますます笑みを深めた。
保健室には、独特の匂いが立ち込めていた。
消毒液だろうか、つんと鼻を刺す、好みではない匂いだ。
(……いずれこの陣地を完全に制圧し、現在の主である緑川先生の服従を勝ち取った暁には、もう少し気に入った香りの部屋に作り替えてやってもいいかもしれない)
そんな野心を密かに抱きながら、私は鼻先に皺を寄せた。
ふと、ベッドの一つで、別の生徒――足を捻ったらしい一年生の男子が、所在なさげに座っているのが目に入った。
「先生、湿布どこでしたっけ……」
緑川先生が、棚の中を探しながら困った声を上げる。
(……この陣地、些か手薄だな)
棚を覗き込み、いくつか並んだ箱の中から、それらしきものを見つけ出す。
「これか」
「あ、ありがとう。助かるわ」
差し出すと、緑川先生が驚いた顔をした。
「助かった。実はずっと整理できてなくて……ありがとう」
(……礼を言われるとは。存外、悪くない気分だ)
それからも、私は保健室の隅に居座り続けた。
(……自室の散らかりとは、わけが違う)
私物が転がっている程度、気にしたこともない。
だが、ここは違う。
誰かが緊急に物を求めて駆け込んでくる場所だ。
物の置き場所一つで、命に関わることもあるかもしれない。
秩序を保つべき領地と、放っておいていい私物の山は、根本から別物だった。
包帯の置き場所がばらばらなのに気づき、サイズ順に並べ直す。
体温計が違う引き出しに紛れ込んでいるのを見つけ、元の場所に戻す。
誰に頼まれたわけでもなかったが、放っておけなかった。
もしかすると、これは母の躾の賜物だったのかもしれない。だが、当の本人にその自覚はなかった。
「あ、それ、私もずっと気になってたんだよね……」
緑川先生が、苦笑しながらそう呟いた。
そこへ、別の生徒が、鼻血を出しながら駆け込んできた。
「先生、鼻血止まらなくて……」
「はいはい、こっち座って」
緑川先生が対応する横で、私はすかさずティッシュの箱を引き出しから取り出し、差し出した。
「これを使え。頭は下げるな、上を向きすぎるな。ほどよく俯け」
「は、はい……」
戸惑いながらも従う生徒を見て、緑川先生が小さく笑った。
「朝霧さん、保健委員でもやってたっけ?」
「いや、何も」
そう答えながらも、内心では深く頷いていた。
(……領地の安定を保つのも、主たる者の務めというものだろう)
しばらくの間、私は保健室の隅で、出入りする生徒たちの様子を観察し続けた。
誰がどこに何を置いているか、どの棚に何があるか。
気づけば、保健室の配置をすっかり把握していた。
(これで、この陣地も掌握した)
保健室、新しい我が領土。
そう胸の内で位置づけると、不思議と落ち着いた気分になった。
満足げに頷いていると、胡桃が呆れた顔でこちらを見ていた。
「凛、保健室の先生に気に入られすぎでしょ。今度から呼ばれそう」
「呼ばれれば、いつでも応じよう。保健室の主として、領土の安定に尽くすのは当然のことだ」
大真面目に答えると、胡桃が小さく噴き出した。
「何それ、似合わな……ふふっ」
笑いながらも、その声が次第に震え始めた。
「あはは……怖かった、よ。男子二人がかりで……止めようとしたのに、全然敵わなくて」
笑顔のまま、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。我慢していたものが、笑った拍子に決壊したのだろう。
「……ありがと、凛」
不意にそう呟かれて、何かが、すとんと胸に落ちた。
(……仲間、というやつか)
前世では一度も持ったことのない感覚だった。
だが、この温かさには見覚えがある。
勇者パーティーの面々が、互いに向けていたあの空気に似たものだ。
(……胡桃は、もしや私のパーティーメンバーになりつつあるのではないか)
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
柄にもなく、悪くない気分だった。
夕食の席で、楓が浮かれた声を上げた。
「お父さん、今年もケーキ買ってきてね! あと、プレゼント交換もしよう!」
「プレゼント、交換?」
聞き返すと、家族全員の視線が集まった。
「凛、クリスマスにプレゼント贈り合うの、まさか忘れたの? 毎年やってるじゃん」
陸が、呆れたような顔で言う。
(……贈り物の交換、か)
ようやく、合点がいった。
「なるほど。互いに貢物を捧げ合う儀式というわけか」
「貢物て」
「事故の後だからね……」
母が、もういつものことのように苦笑いした。
それでも、その夜のうちに、私は家族それぞれへの「貢物」を真剣に検討し始めることになった。
「そういえば凛、胡桃ちゃんへのクリスマスプレゼント、もう何にするか決めた?」
母が、ふと思い出したように尋ねてきた。
「……胡桃にも、贈るものなのか」
「あなたたち二人の、毎年の恒例行事じゃない。幼稚園の頃からずっと、毎年欠かさずやってるでしょ」
(……幼稚園の頃から、だと)
そんなに長く、あの補助役とは縁が続いていたのか。
自分でも知らなかった、前世以前からの繋がりだった。
文化祭、体育館の一件、直近の貢献だけでも十分すぎるほどなのに、それよりずっと昔から、毎年欠かさず貢物を交わしてきた仲だったらしい。
「考えておく」
そう答えながら、私は家族の分とは別に、胡桃への「貢物」も、いつも以上に真剣に検討し始めることになった。




