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高校編・第8話「図書室という名の、静かな領土」

六月。


朝、洗顔を終えて洗面所から出ると、母が廊下で待っていた。


「凛、まだ痛む?」


「……少し」


「無理しないでね」


食卓に着くと、楓が心配そうな顔で凛を見た。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


「大丈夫だ」


「ほんとに?」


「ほんとに」


楓が、まだ不安そうな顔をしていた。


陸が、箸を持ちながら言った。


「本当にドジだよなー」


「うるさい」


「だって、お化け役で転ぶって」


「うるさい」


母が「陸!」と一喝すると、陸は途端に黙った。


文化祭の当日、凛はお化け役を自ら買って出た。


そこまではよかった。


準備の段階で考え抜いた戦術を、今度は自分の体で実行する番だった。


しかし。


(……あれは、仕方がなかった)


獣王だった頃の感覚が、うっかり戻ってきた。


獲物に襲いかかる時の、あの本能的な動き。


暗闇の中から飛び出した瞬間、あまりにも本気すぎた。


驚いた男子生徒が、反射的に凛を突き飛ばした。


凛は転んだ。


お化け屋敷の中で。


(……まさか、自分が倒される日が来るとは)


前世では、何者にも倒されなかった。


なのに今世では、びっくりした高校生に突き飛ばされて転ぶ。


不本意だった。


しかし、誰かのせいにもできなかった。


「……あの男子生徒は、その後どうした」


「怖すぎてしばらく動けなかったって言ってたよ」


胡桃が昨日教えてくれた。


(……それはよかった)


効果としては、最高だったらしい。



学校に着くと、真美が駆け寄ってきた。


「凛ちゃん、大丈夫!?昨日びっくりしたよ」


「問題ない」


「問題あるでしょ、転んだじゃん」


「転んだが、敵は倒した」


「お化け屋敷だから敵じゃないんだよ」


真美が苦笑いした。


湊人が、教室の入口から凛を見た。


「怪我の具合は」


「軽傷だ」


「そうか」


それだけだった。余計なことは言わなかった。


(……気遣いの仕方が、人間と少し違う)


悪くはなかった。


昼休み、凛は図書室に向かった。


中学の頃から、図書室には縁があった。


あの頃は数式の正体を追いかけてここに通った。


今は、別の理由で足が向く。


(……静かだ)


図書室の空気は、いつも少し違う。


廊下の賑やかさが、扉一枚で遮断される。


本棚の間を歩いた。


歴史の棚、理科の棚、文学の棚。前世では、文字というものがなかった。


この世界に来て初めて、文字が知識を蓄える道具だと知った。


(……人間は、記録する生き物だ)


窓際の席に座ろうとして、気づいた。


すでに誰かが座っていた。


湊人だった。


本を開いたまま、窓の外を見ていた。


(……また、か)


凛は少し考えてから、隣の席に座った。


湊人は凛を見たが、何も言わなかった。凛も何も言わなかった。


しばらく、静かだった。


凛は本を一冊手に取った。


歴史書だった。


ページをめくりながら、ふと思った。


(……前世では、これほど長い歴史を積み重ねた人間を、我は軽く見ていた)


しかし今こうして読んでみると、人間という生き物の複雑さが少しわかる気がした。


戦い、失い、それでも続けてきた記録。


「朝霧」


湊人が、本から目を離さないまま言った。


「なんだ」


「転んだそうだな」


「ああ、誰から聞いた」


「木下さんが廊下で話していた」


凛は少し黙った。


「不覚だった」


「そうだな」


「本気を出しすぎた」


「お化け役でか」


「そうだ」


湊人が、本を読みながら小さく笑った。


「お前らしい」


「笑うな」


「笑っていない」


「笑っている」


しばらくまた、静かになった。


二人とも、本を読んでいた。


(……不思議な時間だ)


前世では、こういう時間がなかった。


誰かと並んで、ただ静かにいる。


何も征服しようとせず、何も警戒せず。


(……悪くない)


「一つ聞いていいか」


凛が、本を読みながら言った。


「お前、世界は征服できたのか?」


湊人が、ページをめくる手を止めた。


「征服?」


「ああ。世界征服を企んでいたのだろ」


「誰がそんなことを」


「違うのか?」


「違う」


凛が、少し首を傾けた。


「俺は、理由もわからず攻め込んでくる人間を追い払おうとしていただけだ。数が多くて大変だった」


湊人が答えた。


「……そうだったのか」


「お前にも協力してほしかったんだが、断られたからな」


「興味がなかった」


「知っている」


湊人が、また窓の外を見た。


「今となっては、どちらでもよかった気がするが」


凛は、その言葉を少し考えた。


(……どちらでもよかった)


前世の長い時間が、今はずいぶん遠く感じる。


放課後、胡桃が廊下で凛を待っていた。


「図書室にいたの?」


「ああ」


「一人で?」


「……雪代もいた」


胡桃が、少し目を丸くした。


「二人で図書室?」


「たまたまだ」


「たまたまね」


胡桃が、何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。


「ねえ凛」


胡桃が、少し声を落とした。


「最近、凛と雪代くん、ちょっと変だよね」


「何がだ」


「なんか……二人だけの空気があるっていうか」


「前世でちょっと縁があった、のだと思う」


「うん、知ってるけど」


胡桃が、少し考えるような顔をした。


それから「まあいいか」と言って、話題を変えた。



「そういえば、ずっと不登校になっている男子、このまま学校来ないのかな」


「不登校、そういえばずっと空いている席があるな」


「確か名前は、佐伯くん。今度の席替えの時に佐伯くんの席どうなるんだろうねって、聖良が言ってたんだよね」


凛は、その名前を頭の中に入れた。


(……佐伯)


「体調不良と聞いたが」


「そうらしいんだけど、ずっとだからね。なんか心配だよね」


(……体調不良)


それ以上は、今は何もわからなかった。


六月の空は、まだ曇っていた。


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