高校編・第2話「試験という名の、領土確認」
四月。
入学から三日後。
朝食の席で、陸が箸を持ったまま言った。
「姉ちゃん、今日テストなんだろ。頑張れよー」
と、凛の顔を見ながらニヤニヤしていた。
(……お前も笑っていられるのは今のうちだけだ)
そう思ったが、口には出さなかった。
言ったところで陸には意味が伝わらないだろうし、そもそも凛自身、今日の試験にさほど危機感を覚えていなかった。
中学の内容だ、問題はないはずだ。
「わんわる……」
口の中が邪魔をして、うまく言葉にならなかった。
「なんか怖い言い方」
「二人とも、口いっぱいに頬張りながら喋るのやめなさい!」
母が、呆れた顔で言った。
陸が肩をすくめた。
学校に着くと、クラスがざわついていた。
「えー、入学早々テストとか」
「しかも中学の内容って、範囲広すぎない?」
「勉強してきた人いるの?」
(……中学の内容)
凛は少し考えた。
推薦入試が決まったあと、本来であれば猛勉強などする気もなかった。
しかし中学卒業間近まで、胡桃と二人で机を並べて勉強していた。
あの時間が、まさかここで役立つとは。
「凛、数学大丈夫?」
胡桃が隣から小声で聞いてきた。
「問題ない」
「自信満々だね」
「胡桃は?」
「……まあ、なんとか」
胡桃が苦笑いした。
試験が始まった。
問題用紙を開いた。
数式が、並んでいた。
かつては呪術の羅列にしか見えなかったものが、今は読める。
あの日、白き悪魔の正体が見えた瞬間から、数式は凛の言語になった。
ペンを走らせた。
数式が、獲物のように見えた。
どこに弱点があるか、どこから崩せるか。
問題を「解く」というより、「仕留める」感覚に近かった。
気づけば手が止まらなかった。
(……悪くない)
解き終わり、ペンを置き、顔を上げる。
ふと、視線が前の方へ向いた。
(……あいつは)
湊人が、すでにペンを置いていた。
腕を組んで、窓の外を眺めている。
(……もう終わっているのか)
私よりも早い。
次の科目でも同じだった。その次も。
どの試験でも、湊人の方が先にペンを置いていた。
腕を組む。
窓の外を見る。
同じ動作を繰り返す。
一度も焦った様子がなかった。
(……何者だ)
解答の速さといい、あの者の持つ雰囲気といい、あいつは、かなりできる。
ふと、周囲を見渡した。
まだ悩んでいる者、手が止まっている者、消しゴムを走らせている者。
皆の動きが、妙に遅く見えた。
(……これが人間の速度か)
獣王だった頃は、気にしたこともなかった。
試験が全て終わり、解散になった。
廊下に出たところで、胡桃が深いため息をついた。
「最後の英語、やばかった……」
「どのくらいだ」
「見たくない点数になってそう」
「……中学でやっていた範囲だ」
「わかってる、わかってるんだけど」
胡桃がうなだれた。
その時、後ろから声がした。
「朝霧」
振り返ると、湊人が立っていた。
廊下の少し離れたところで、数名の女子生徒が湊人のことを遠目で見つめていた。
「何だ」
「今日、時間あるか?」
「……今か」
「今でなくてもいい、いつなら大丈夫だ?」
凛は少し考えた。
胡桃がちらりと湊人を見て、また凛を見た。
「凛、私、先行っとくね」
「……ああ」
胡桃が廊下を歩いていった。
二人は人気の少ない壁際まで歩いていった。
湊人は壁にもたれかかり、腕を組みながら言った。
凛は腰に手を当てて、正面から向き合った。
「お前、もしかして、前世の記憶があったりするか?」
凛は少し間を置いた。
「……どうしてそんな質問をする?」
「……ふう、そうだよな。突然投げかける質問ではないよな」
「……そうだな。話せ」
湊人は一瞬だけ目を伏せてから、口を開いた。
「ああ。俺には前世の記憶がある。……しかも、人間ではない記憶だ」
「?!……もしかして、お前……」
「俺はかつて、魔王と呼ばれていたことがある。朝霧、お前からその記憶と近しい感覚を感じている」
(……まさかとは思っていたが、こいつは魔王の転生か)
凛は、腰に当てた手に少し力を込めた。
「我にも前世の記憶がある。我はかつて獣王と呼ばれていた」
「やはりそうか。そうではないかと、入学式の時から感じていた」
湊人が、少しだけ目を細めた。
「前世では一度だけ会ったな」
「そうだな」
「お前に協力を断られた」
「興味がなかったからな」
「今世でも断るか」
「何をだ」
「共闘」
その一言だけだった。冗談の色はなかった。
「断る」
即答だった。
湊人は、ふっと息をついた。
笑っているのか呆れているのか、よくわからない顔だった。
「相変わらずだな」
凛は返事をせず、少しのあいだ湊人を見つめてから質問した。
「一つだけ聞く」
「なんだ」
「お前は、今世で何をするつもりだ」
湊人は、窓の外を一瞬だけ見てから言った。
「さあな。まだ決めていない」
少し間があった。
「ただ、守るべきものができたら動く。それだけだ」
凛は、その言葉を少し考えた。
(……守るべきもの)
人間らしい言い方だった。
しかし、その温度は人間のものではなかった。
「……そうか」
「お前は?」
凛は、答えなかった。
(……私は)
何をするつもりか。
征服か。
それとも、別の何かか。
答えが出る前に、予鈴が鳴った。
「また話そう」
湊人がそう言って、廊下を歩いていった。
凛は、その背中をしばらく見送った。
廊下の端で、胡桃が待っていた。
「なんの話だったの?」
「昔の知り合いに似ていたから、本人かどうか確かめたかったらしい」
「で、どうだったの?」
「関わり合いはなかった」
「そうなんだ。てっきり告白されてるのかと思ってた」
凛は、少し間を置いた。
「……なぜそうなる」
「だってあの距離感、傍から見たらそうじゃん」
(……告白)
意味はわかる。しかし、全くそういう感覚はなかった。
「違う、なぜいつもそういう方向の話になる?」
「わかってる、冗談だよ」
胡桃が笑って凛の腕をとり、二人で並んで廊下を歩いた。
(魔王、あいつもこの世界に来ていたのか......)
凛は心の奥底で、少しだけ、あたたかなものを感じていた。




