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高校編・第1話「入学という名の、新たな侵攻」

四月。


高校入学の朝、母に制服のリボンを結んでもらっていた。


「凛、もうちょっと顎引いて」


「……このくらいか」


「そう。ほら、できた」


鏡の中に、紺色のブレザーを着た自分がいた。


中学の制服とは、色が違う、形も少し違う、少し鎧っぽい感じがする。


だが、やはりリボンがある。


最初に見た時、拘束具だと思った布の輪だ。


今はもう、そうは思わない。


ただ、結び方が毎朝うまくいかない。


(……この結び方だけは、いつまで経っても慣れない)


母が満足げに頷いた。


「似合ってるじゃない」


「そうか」


「もうちょっと嬉しそうにしなさい」


「嬉しい」


「全然伝わってこない」


台所から陸の声がした。


「姉ちゃん、また棒読みだ」


「うるさい」


楓が凛の袖を引っ張った。


「お姉ちゃん、写真撮って!」


「……後で」


「今!」


楓の勢いに押されるまま、玄関の前で写真を撮られた。


シャッター音が鳴るたびに、楓が「もう一枚!」と言った。


(……記録を残す文化か。まあ、悪くない)


中学の頃、胡桃に初めてスマホで写真を撮られた時は衝撃だった。


魔法か何かの類の危険なものではないかと疑ったものだった。


懐かしい。



凛が母親と一緒に高校に到着すると、胡桃が門の前で待っていた。


同じ制服だった。


当然だ、同じ高校なのだから。


「凛、おはよ」


「……おはよう」


「似合ってる」


「そうか」


「もうちょっと嬉しそうにしなさいよ」


「嬉しい」


「全然伝わってこない」


母と全く同じやりとりだった。


「私は?」


「……似合っている」


「ありがとう。よくできました」


二人で並んで歩きながら、胡桃が言った。


「高校かあ。なんか実感ないね」


「そうか」


「凛は?」


「……新たな領土への侵攻、というところだ」


胡桃が、吹き出した。


「相変わらずだね」


「何がだ」


「いや、安定感抜群!」


意味がよくわからなかった。


しかし胡桃は笑っていたので、悪い意味ではないのだろうと判断した。


高校は、中学より少し遠かった。


桜並木の続く道を歩きながら、凛は静かに辺りを見回した。


散り始めた花びらが、風に乗って舞っている。


(……悪くない)


中学の最初の朝は、二本足で歩くことに難儀した。


今は、それが当たり前になっている。


あの頃の自分が、随分と遠い気がした。


校門をくぐると、在校生が新入生を案内していた。


「一年生はこちらです」


誘導に従って体育館へ向かう。


入学式の会場らしく、椅子が整然と並んでいた。


(……また、儀式か)


卒業式で覚えた。


儀式とは、区切りをつけるためのものだ。


ならば入学式は、始まりを告げる儀式だろう。


しかし、なんだか妙な雰囲気だ。


うまく言葉にできないが、何かを感じる。


森の中で、知らない獣の気配をかいだ時のような。


あるいは、嵐の前の空気が変わる瞬間のような。


(……私も少し浮かれているのかもしれない。妙に感覚が敏感になっている)


着席して、しばらくした頃だった。


前の方の席で、女子生徒が数人、何やらひそひそしていた。


何を話しているのかは聞こえなかった。


視線の先に、長身の男子が座っていた。


整った顔立ちで、どこか超然とした雰囲気がある。


窓の外を眺めていた。


(……なんだ)


理由はない。


ただ、目を逸らせなかった。


男子生徒がこちらを振り向き、視線が重なった。


その瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。


息が一拍、遅れる。


戦場でも森でもない。


けれど、確かに知っている間だった。


刃が交わる直前の、あの静けさに似ている。


凛は無意識に、目を見開いていた。


周囲がざわついた。


「え、どうしたの?知り合い?」


胡桃が、凛の袖を引いた。


「凛?」


凛は、目を離さないまま口を開いた。


「……あいつ、もしかして」


男子も、同じ瞬間に言った。


「……お前、もしかして」


その時、入学式の開式の挨拶が始まった。


「ただいまより、入学式を開式致します」


二人とも、口をつぐんだ。


胡桃が、二人を交互に見てから、おそるおそる聞いた。


「私が知らないってことは、……何か設定系の知り合い?」


凛は答えなかった。


胡桃が、小さく息をついた。


「……今の、なに?」


誰にも聞こえないくらいの声だった。


式が終わり、クラスに分かれた。


凛と胡桃は同じクラスだった。


昨日から決まっていたことだが、改めて確認して、胡桃が小さくガッツポーズをした。


その様子を見て、凛は何がそんなに嬉しいのかと思いながらも、悪い気はしなかった。


あの男子生徒も、同じクラスだった。


クラスに分かれて席に着いた後、先ほどの男子生徒が凛の隣に来た。


「俺は、雪代湊人。後で話がしたいんだが」


「忙しいから、また今度な」


「わかった」


少し間があった。


「お前の名前は?」


「我は、じゅ、朝霧凛」


湊人は、何も言わなかった。


ただ、小さく頷いた。


胡桃が、凛と湊人を交互に見た。


「凛、この人……」


「雪代湊人」


湊人が、さらりと言った。


「雪代君、この子と知り合い?」


「わからないが、もしかしたら」


「?」


「気にするな」


凛がそう言うと、胡桃はまた凛と湊人を見比べてから、


「……うん、気にしないことにする」と言った。


担任が教室に入ってきた。


出席を取り、これからの学校生活についての説明が始まった。


凛は窓の外を見た。


桜の木が、風に揺れていた。


(……新たな領土だ)


まず出口を確認した。


扉は前後に二箇所。


次に座席の配置。


窓際の列は光が強すぎる。


後方中央が、最も全体を見渡せる。


騒がしい生徒が固まっているのは左前方。


静かなのは右奥。


(……把握した)


中学では、保健室を征服した。


図書室に入り浸り、数式の正体を見破った。


今度は、どこを征服するべきか。


「凛、なに考えてるの」


胡桃が小声で聞いてきた。


「征服の計画だ」


「……やっぱり相変わらずだ」


胡桃が、くすりと笑った。


それから、ふと思い出したように続けた。


「ねえ凛、さっきの雪代くんってさ」


「なんだ」


「今の二人、ちょっと気持ち悪いくらい自然だったよ」


凛は、答えなかった。


胡桃は特に深い意味もなさそうに「まあいいか」と言って、前を向いた。


(……自然)


その言葉が、妙に頭に残った。


ホームルームが終わり、廊下に出た。


人の流れに混じって歩きながら、ふと立ち止まった。


何かの匂いがした。


戦場でも森でもない。


だが、知っている。


どこかで確かに嗅いだことのある、何かだった。


振り返った。


廊下の少し先に、湊人が立っていた。


目が合った。


その瞬間、何かがぶれた。


映像ではない。


音でもない。


ただ、何か遠いものが一瞬だけ近づいて、すぐに消えた。


湊人は何も言わなかった。


凛も何も言わなかった。


ただ、互いに見ていた。


(……なんだ、これは)


答えは出なかった。


胡桃が凛の袖を引いた。


「凛、行くよ」


「……ああ」


歩き出しながら、もう一度だけ振り返った。


湊人は、もう別の方向へ歩いていた。


窓の外で、桜の花びらが一枚、静かに落ちた。


(……まさか、な)

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