中学編・第21話「朝霧凛として」
三月、終わり。
送られてくたメッセージで、胡桃の合格を知った。
「受かった!!!!」
感嘆符が四つついていた。
「そうか」
「そうかって何!? もっと喜んでよ!」
「……喜んでいる」
「全然伝わってこない!」
「喜んでいる」
「言葉増やしてよ!!」
「大変よくできた」
「なんか違う!!」
意味がよくわからなかった。
喜んでいると言っているのに、何が足りないのか。
しかし胡桃は、次の行に「でもありがとう(笑)」と送ってきた。
凛は、その「ありがとう」をしばらく見つめた。
(……合格した)
それだけが、じわじわと、胸の中に広がっていった。
卒業式は、三月の終わりにあった。
体育館に椅子が並び、保護者が後ろの席を埋めていた。
来賓の話が続いた。前世の即位式より長い気がした。
担任が、名前を読み上げていく。
「朝霧凛」
凛は立ち上がった。
壇上に向かいながら、ふと思った。
(……この体になって、もうすぐ半年か)
最初の朝、尾のないことに打ちのめされた。
二本足で歩くことに難儀した。
お金の使い方がわからず、胡桃に呆れられた。
数式を呪術と疑い、保健室を征服し、文化祭で屋台を領地とし、面接で敬語を覚えた。
紫りんごを探した。
期間限定で終わった。泣いた。
胡桃の不合格の夜に、何も言えないまま部屋の床に座った。
(……なのに)
悪くなかった、と思った。
式が終わり、最後のホームルームが終わり、教室が少しずつ解散していった。
廊下で、緑川先生と目が合った。
「朝霧さん、卒業だね」
「……はい」
先生が、少し笑った。
「高校でも、保健室は征服するの?」
「領地は拡大するものです」
「そうか。まあ、頑張ってね」
先生は頷いてから、廊下を歩いていった。
その後ろ姿を、凛はしばらく見送った。
(……礼を言うべきだったか)
少し遅かった。
まあ、いい。
校庭に出ると、胡桃がいた。
「凛!」
手を振ってくる。
凛は歩み寄った。
「合格したおめでとう」
「もう何回言うの。さっきも言ったじゃん」
「……改めて言いたかった」
胡桃が、呆れたような顔で笑った。
「ありがとうね、ほんと」
「何がだ」
「色々」
「……具体的に言え」
「全部」
意味がよくわからなかったが、胡桃がそう言うなら、そういうことなのだろうと思うことにした。
しばらく、二人で校庭の隅に立っていた。
在校生が、卒業生に花を渡している。
写真を撮る声と、泣き声と、笑い声が、ごちゃまぜに混ざっている。
(……騒がしい)
だが、不思議と悪くなかった。
「ねえ凛」
「なんだ」
「高校も、隣の席ねらう?」
「……検討する」
「なにそれ笑」
胡桃が笑った。
凛は、その笑い声を聞きながら、ふと空を見た。
三月の終わりの空は、薄く白くて、どこまでも広かった。
(……朝霧凛)
凛は、静かにその名を、胸の内で繰り返した。
これが自分の名だ。
獣王でも、魔王の森の覇者でもなく、今はただ、朝霧凛だ。
尾はない。
爪もない。
力も、魔法も、毛皮もない。
だが。
(……ここにいる)
胡桃がいる。
家族がいる。
緑川先生がいる。
数式が、ある日突然見えるようになった。
毎朝の洗顔が、悪くないと思えるようになった。
前世では一度も手に入れなかったものが、今はそこにある。
征服しようとするたびに感謝された。
力ではなく、ただそこにいることが、誰かの何かになった。
(……それが、この生の答えなのかもしれない)
答えかどうかは、まだわからない。
「凛、写真撮ろうよ」
胡桃が、スマートフォンを差し出してくる。
「……なぜ」
「なんとなく。記念に」
「記念とは何の」
「ここにいた記念」
(……ここにいた記念)
その言葉が、妙に胸に馴染んだ。
凛は、胡桃の隣に並んだ。
「はい、笑って」
「笑い方がわからない」
「じゃあそのままでいいや」
シャッター音が鳴った。
画面を覗き込む。
胡桃が笑っている。
凛は笑っていないが、どこか、険のない顔をしていた。
(……悪くない)
「よし、高校でもよろしく」
「……ああ」
校庭を、春の風が抜けていった。
桜が、まだ咲いていなかった。
だが、もうすぐ咲くのだろうと思えた。
朝霧凛は、今日、中学を卒業した。
その夜、凛は部屋の机に座って、窓の外を眺めた。
前世のことを、少しだけ思い出した。
紫りんごを初めて口にした、あの瞬間。
何百年も、ただそれだけがあれば十分だと思っていた。
(……だが)
今は、それだけではない。
証書は机の上に置いてある。
「朝霧凛」という名前が、縦書きで書かれている。
凛は、その名前をじっと見た。
(……朝霧凛として、生きていく)
征服するためでもなく、誰かに託されたからでもなく、ただ自分でそう決める。
この体で。
この名前で。
この騒がしくて、厄介で、それでもどこか目が離せない場所で。
窓の外に、細い月が出ていた。
前世の森でも、同じ月を見ていたはずだ。
あの頃の自分には、月の下で待つ誰かも、隣にいる誰かも、いなかった。
今はいる。
(……まあ)
凛は、窓の外の月を見たまま、静かに思った。
悪くない。




