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中学編・第20話「待つという、戦い」

三月。


第二回一般入試の当日。


今日、学校はなかった。


凛は朝から、いつもより早く目が覚めた。


なぜ早く起きたのか、自分でもわからなかった。


試験が終わる時間まで、どうせ何もできない。


わかっていても、眠り続けることができなかった。


いつも通りの手順で、いつも通りの時間をかけて洗顔を終えた。


それだけで、いつもより長く感じた。


(……時間とは、何かを待っている時、これほど遅いものなのか)


紫りんごの実がなるのを待ち遠しく思ったことは何度もあった。


しかし、それとは全く違う感覚だ。


朝食の席には、母がいた。


「凛、今日学校ないの?」


「ない」


「じゃあ買い物手伝ってよ」


(……今日は、それどころではない)


そう思ったが、断る理由がうまく出てこなかった。


「……わかった」


しぶしぶ頷きながら、箸でほうれん草を掴んだ。


「凛、最近箸使いが綺麗になったわね」


母が、味噌汁をよそいながら言った。


「……そうか」


「事故の後しばらく、意識してないと落としてたじゃない。


後遺症も、もう大丈夫そうね」


凛は、箸を持ったまま少し考えた。


数式の正体が見えた頃から、色々なことがスムーズになった気はする。


自分自身が、ようやく凛の体に馴染んできたのか。


理由は、よくわからない。


「……まあ、そういうことだ」


母は「そう」とだけ言って、食事を続けた。


スーパーに着いても、スマートフォンが鞄の中でやけに気になった。


画面を確認したい衝動をこらえながら、母の後を歩いた。


野菜売り場で、母が大根を手に取りながら言った。


「胡桃ちゃん、今日試験だっけ?」


「……なぜ知っている」


「お母さん同士、話すんだから。


心配してるんでしょう?」


凛は答えなかった。


「心配してるの、顔に出てるわよ」


「……別に」


「そう」


母は大根をかごに入れた。


それ以上は何も言わなかった。


(……顔に出ていたのか)


そもそも前世では、感情などというものについて考えたこともなかった。


だが今の自分には、どうやらそれが顔に出るらしい。


不本意だった。


しかし、否定する気にもなれなかった。


昼前に帰宅した。弟の陸が居間でゲームをしていた。


「姉ちゃん、胡桃ちゃんどうだったの?」


「まだ試験中だ」


「朝からずっとソワソワしてる」


(……二人にも見えるのか)


凛は黙って自室に戻った。


胡桃は朝早くに家を出た。


昨日の夜、凛には「明日、行ってくる」とだけLINEが来た。


凛は「ああ」とだけ返した。


それ以上の言葉は、どちらも打たなかった。


机に座り、参考書を開いた。


どうせ自分には必要ないが、眺めていれば時間が過ぎる。


だが、ページを開いても、文字が頭に入ってこなかった。


(……胡桃は今、何の科目をやっているのだろう)


昨日の夜、最後に一緒に解いたのは英語の長文問題だった。


胡桃が「この単語わからない」と言った時、凛は黙って辞書を引いた。


それだけだった。


七日七晩続いた古竜との縄張り争いですら、こんなに長いとは感じなかった。


そもそも数百年生きてきたのだ。


一年やそこらは、まばたきのような話だった。


待つことに、感覚が鈍かった。


時間が過ぎるのを、ただ眺めていればよかった。


それなのに今は、時計の針が気になって仕方がない。


(……おかしい)


スマートフォンを、また取り出していた。


参考書を閉じた。


スマートフォンを取り出した。通知はない。


(……まだ、試験中だ)


わかっている。


わかっているのに、画面を見た。


時刻は十二時を少し過ぎたところだった。


凛は、スマートフォンを机に伏せた。


窓の外を見ると、三月の空は、薄く霞んでいた。


遠くの屋根が、白っぽい光に溶けている。


(……待つのは、得意になった)


そう言ったのは、自分だ。


ならば今日も、ただ待てばいい。


それだけのことだ。


胡桃が戦っている。


それだけが、今日の事実だった。


凛には何もできない。


それは、胡桃の部屋での夜と同じだった。


だが今日は、あの夜と少しだけ違う。


あの夜は胡桃が傷ついていた。


今日の胡桃は、だた傷ついているのではない。


現実を受け入れ、己がなすべき事に向き合い、戦っている。


(……ならば)


ただ、信じて待てばいい。


凛は窓の外を見たまま、静かにそう決めた。


目を閉じた。


前世の森の、静かな夜明けを思い出した。


木々の隙間から差し込む光が、地面に斑模様を描く。


紫りんごの香りが、風に乗って流れてくる。


あの頃の獣王には、待つべき誰かも、共に目指す場所もなかった。


今はある。


それが、どれほど奇妙なことか。


しかしそれを、悪くない、と思えた。


そんな感情に浸っている時、スマートフォンが震えた。


時刻は、午後三時を少し回ったところだった。


胡桃からだった。


凛は、一瞬だけ画面を見つめた。


開いた。


「終わった」


「どうだった」


既読がついた。返信まで、少し間があった。


前回の「ダメだった」の五文字が、脳裏をよぎった。


「わかんない」


「……そうか」


「手応えはあった気がするんだけど、気のせいかも」


「気のせいではない」


「なんでわかるの笑」


「……わかる」


根拠はなかった。だが、そう返した。


「ありがと」


凛は、スマートフォンを持ったまま、しばらくそのトーク画面を見つめた。


(……合格発表は、後日だ)


また、待つことになる。


だが今日は、それでいいと思えた。


胡桃が戦い終えた。それだけで、今日は十分だった。


そして胡桃を誇らしくも感じていた。


ふと、凛は窓の外に目を向けた。


三月の午後の光が、薄く部屋に差し込んでいた。


(……悪くない)


凛はそっとスマホの画面を閉じた。

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