中学編・第19話「共に目指す」
翌朝、胡桃は学校に来た。
いつもの席に、いつもの顔で座っていた。
目の下にわずかに隈があったが、凛が声をかけるより先に「おはよ」と言ってきた。
「……おはよう」
それだけだった。
余計なことは言わなかった。
胡桃も、昨夜のことには触れなかった。
ただ、いつもと少しだけ違ったのは、胡桃が自分から凛の隣の席に鞄を置いたことだった。
いつもは凛が先に教室に着いていて、胡桃が後から来る。
今日は逆だった。
(……来た)
それだけで、十分だった。
昼休み、凛は胡桃に告げた。
「放課後、図書室で勉強する。来い」
胡桃が、箸を止めた。
「……凛には関係ないでしょ。推薦でもう決まってるんだから」
「関係ある」
「なんで」
「副官の試験は、主の試験でもある」
胡桃が、しばらく凛の顔を見た。それから、小さく息をついた。
「……わかった」
断らなかった。
放課後の図書室は、静かだった。
窓から差し込む光が、机の上に細長い影を落としている。
他に人影はなく、ページをめくる音と、シャープペンシルの走る音だけが、静かに響いていた。
胡桃は問題集を開き、黙々と解き始めた。
凛も、同じ問題集を開いた。
(……なぜ私が、これをやっているのだ)
自分でも、よくわからなかった。
推薦はすでに決まっている。
この問題集を解いても、入試には何の関係もない。
それでも、胡桃が問題を解く横で、同じページを開いていた。
シャープペンシルを走らせながら、ふと、面接練習の記憶が蘇った。
「いるからです」「いるですからだ」「いるです、からだ」――何十回繰り返しても滑らかに出てこない凛の言葉に、胡桃は最後まで付き合い続けた。
笑いながら、呆れながら、それでも「もう一回」と言い続けた。
今の凛にできることは、それと同じことだ。
ただ隣にいる。
ただ同じものに向き合う。
それだけでいい。
一時間ほど経った頃、胡桃がシャープペンシルを置いた。
「……凛、この問題、わかる?」
ノートを差し出してくる。数学の問題だった。
凛は覗き込んだ。
問題を見て、少し考えた。
「ここの変換が、違う」
「え、どこ?」
「この式を展開する前に、まずここを整理しろ。順番が逆だ」
「……あ、ほんとだ」
胡桃が、鉛筆でノートに書き直す。
「凛って、数学得意になったよね」
「最近、見えるようになった」
「何が?」
「白き悪魔の正体が」
胡桃が、吹き出した。久しぶりに聞く、屈託のない笑い声だった。
「相変わらず何言ってるかわかんない」
「褒め言葉として受け取っておく」
また、静かになった。
胡桃がノートに向かい、凛も問題集に目を落とす。
シャープペンシルの音が、また静かに響き始めた。
しばらくして、胡桃がぽつりと言った。
問題集を見たまま、独り言のような声だった。
「凛って、なんでそんなに一緒にいてくれるの」
凛は、手を止めた。
答えを探した。
獣王として生きてきた言葉の中に、それに当てはまるものがなかった。
縄張りのためでも、服従のためでも、征服のためでもない。
胡桃が副官だから、という言葉も、どこか違う気がした。
(……なぜだ)
自分でも、わからなかった。
ただ、気づいたら来ていた。
ただ、隣にいたかった。
それだけだった。
その理由を言葉にしようとすると、するりと逃げていく。
沈黙が続いた。
胡桃は答えを急かさなかった。
ただ、問題集のページをゆっくりとめくった。
凛は、逆に思った。
(……胡桃こそ、なぜだ)
なぜ、あんなに付き合ってくれたのか。
面接練習で何十回も同じやり取りを繰り返した。
保健室に一緒に行き、祭りに行き、プレゼントを交換した。
凛の奇妙な言動を笑い飛ばしながら、それでも離れなかった。
その理由を、凛は胡桃に聞いたことがなかった。
聞けなかった、という方が正確かもしれない。
(……もしかして、胡桃も)
わからないのかもしれない。
凛と同じように、言葉にならないまま、それでもそこにいた。
そういうことなのかもしれない。
「……わからない」
凛は、正直にそう答えた。
胡桃が、少しだけ顔を上げた。
「わからないの?」
「ただ、ここにいたい。それだけだ」
胡桃は、また問題集に目を落とした。
「……そっか」
それだけだった。
追及しなかった。
笑いもしなかった。
ただ「そっか」と言って、またシャープペンシルを走らせた。
その「そっか」が、妙に、胸に馴染んだ。
二時間ほど勉強して、図書室を出た。
廊下の掲示板に、目が止まった。
「卒業式まで、あと七日」
手書きの文字が、静かにそこにあった。
(……七日か)
この群れで過ごせる時間が、あとわずかだと、改めて気づいた。
毎日当たり前のように隣にいた者たちが、それぞれ別の場所へ向かっていく。
「ねえ凛」
胡桃が、掲示板を見ながら言った。
「第二回、絶対受かる」
断言だった。不安を押し隠した言葉ではなく、自分に言い聞かせているわけでもなく、ただまっすぐな言葉だった。
「……ああ」
凛は頷いた。
「待っている」
胡桃が、小さく笑った。
「また待つの?」
「待つのは、得意になった」
胡桃が、今度は声を上げて笑った。
廊下に、その笑い声が響いた。
夕暮れの光が、窓から斜めに差し込んでいた。
(他者を信じて待つ、……悪くない)
凛は、その光の中を並んで歩きながら、静かにそう思った。




