中学編・第18話「突撃、胡桃の自宅」
胡桃の席が、朝から空だった。
今日は、第一回一般入試の合格発表日だった。
昨日のうちに、胡桃からそう聞いている。
学校には来ないかもしれない、とも。
それでも、あの席に誰もいない教室は、妙に広く感じた。
一時間目が始まった。
カッ、カッ、カッ、
チョークの音が響き、黒板に文字が並ぶ。
先生の声が、教室を満たしていく。
それなのに、視線だけが勝手に、胡桃の席の方へ向いた。
(……気のせいだ)
そう思ったが、二時間目も、三時間目も、同じだった。
胡桃がいつも座っているあの場所が、どうしても視界の端に引っかかる。空
の席というのは、こんなにも目に入るものだったのか。
昼休み、いつもなら胡桃が「凛、お昼一緒に食べよ」と駆け寄ってくる時間だった。
誰も来なかった。
当然だ。
胡桃は今、発表を確認しているはずだ。
わかっている。わかっているのに、教室の入り口に視線が向く癖が、どうしても抜けなかった。
保健室の見回りをしようと思った。
だが、なぜか足が向かなかった。
保健室に行けば、緑川先生がいる。
先生は何か話しかけてくるだろう。
今日は、誰かと話す気分になれなかった。
結局、教室の自分の席に戻り、窓の外をぼんやりと眺めて昼休みを終えた。
午後の授業も、頭に入らなかった。
放課後になっても、凛はすぐに帰る気になれなかった。
帰宅してしまえば、家族の気配や夕食の匂いに紛れて、余計に落ち着かなくなる気がした。
ここで待てば、
連絡が来た時すぐ動ける気がした。
根拠はなかったが、帰る気にはなれなかった。
誰もいなくなった教室の椅子に座ったまま、スマートフォンの画面を何度も確認した。
通知はない。
(……連絡が、来ない)
待っている、と言った。
昨日、確かにそう言った。
胡桃も「絶対報告する」と言った。
だから待っていた。
試験が終わる時間は、大体わかっていた。
終わっているはずだ。
なのに、連絡が来ない。
(……もしかして)
そこまで考えて、思考を止めた。
良くない結果だったから、連絡できないでいるのかもしれない。
そう思ったが、それ以上は考えたくなかった。
夕方になっても、胡桃からの連絡はなかった。
教室には、もう誰もいなかった。窓の外が、橙色に染まりはじめていた。
(……どうしているのだ)
スマートフォンを取り出し、画面を見た。
通知はない。
しばらく画面を見つめてから、LINEを開いた。
胡桃とのトーク画面には、昨日の「絶対報告する」というメッセージが最後に残っていた。
その一言が、やけに鮮明に目に映った。
凛は少し考えてから、文字を打った。
「どうだった」
送信した。
既読がついた。
返信まで、少し間があった。
「ダメだった」
五文字だった。
凛はしばらく、その五文字を見つめた。
ダメだった。
画面を閉じることも、別のアプリを開くこともできなかった。
ただ、その五文字だけが、視界の中心に居座り続けた。
慰める言葉を探した。何も出てこなかった。
「残念だったな」では足りない気がした。
「また頑張れ」は、違う気がした。
「次がある」も、なんか、違う。
どれも、言葉として存在はしているのに、胡桃に向けて打ち込む気になれなかった。
何百年も生きてきた。
森の覇者として、幾多の戦いを経てきた。
古竜を追い払い、甲殻の巨獣を七日かけて打ち倒し、勇者パーティーの聖剣にすら、
最後まで言葉を持って立ち向かった。
それなのに今、たった三文字の返信に、何も言葉が返せない。
(……私は)
何もできない。
その事実が、じわりと、じわりと、胸の奥に広がっていった。
スマートフォンを鞄に入れた。
立ち上がった。
どこへ行くつもりか、自分でも決めていなかった。
ただ、椅子に座ったままでいることが、できなかった。
気づいたら、靴を履いていた。
校門を出て、いつもと違う方向に歩いていた。
胡桃の家への道は、もう体が覚えていた。
表札の前に立った。
インターホンに手を伸ばして、止まった。
(……何を言うつもりだ)
慰めの言葉は、何も思いつかなかった。
気の利いたことも、言えない。
励ます言葉も、寄り添う言葉も、何一つ持っていない。
それでも、ここまで来てしまった。
なぜ来たのか、と問われれば、答えられなかった。
来なければならない理由があったわけでもない。
ただ、あの三文字を受け取った後、気づいたらここに立っていた。
それだけだった。
インターホンを押した。
少し間があってから、胡桃の母親が扉を開けた。
目が少し赤かった。
「あら、凛ちゃん」
「……胡桃は」
「部屋にいるわ。上がって」
一瞬、躊躇した。
何も持ってきていない。
何も言えない。
それでも、促されるままに玄関をくぐった。
通された廊下を歩き、胡桃の部屋の前に立った。
ドアの向こうは、静かだった。
ノックした。
「……誰」
声が、少しかすれていた。
「私だ」
沈黙があった。
長い沈黙ではなかったが、凛にはやけに長く感じられた。
「……入っていいよ」
扉を開けた。
胡桃は、ベッドの上で膝を抱えていた。
目が赤い。
泣いていたのだろう。
今は泣いていなかった。
泣き終わった後の顔だった。
制服のままだった。
着替える気力もなかったのかもしれない。
凛は部屋に入り、床に座った。
ベッドとの距離は、一メートルもなかった。
何も言わなかった。
胡桃も、何も言わなかった。
しばらく、静かだった。
窓の外が、少しずつ暗くなっていく。
部屋の電気はついていなかった。
夕暮れの光だけが、薄く差し込んでいた。
(……なぜ、黙っているのだ)
自分でも、おかしいとは思った。
何か言えばいい。
何か一言でも、言葉を出せばいい。
だが、出てこなかった。
前世であれば、誰かのそばでこうして黙って座るなど、考えたこともなかった。
弱い者が脱落するのは当然だと思っていた。
痛みを抱えた者を前に、何もできないまま座り続けるなど、獣王としてあり得ない行為だった。
なのに今、私には何もできない。
爪も、牙も、力も、言葉すら役に立たない。
ただここにいることしか、できない。
その事実が情けないかといえば、そうでもなかった。
ただ、不思議と、ここにいることが正しい気がした。
なぜそう思うのか、うまく説明はできなかったが。
「……来てくれたんだ」
胡桃が、ぽつりと言った。
「ああ」
「何も言わなくていいよ。慰めとか、いらないから」
「言えない。何も思いつかない」
胡桃が、小さく笑った。泣きそうな笑い方だった。
「凛らしいね」
「……すまない」
「謝らなくていい」
また静かになった。
窓の外が、みるみる暗くなっていく。
夕暮れの橙が、少しずつ藍色に変わっていった。
どのくらい、そうしていただろう。
胡桃が、ぽつりと口を開いた。
「悔しいな」
「……ああ」
「頑張ったつもりだったんだけどな」
「……そうか」
「凛は、もう合格してるじゃん。いいなあ」
羨む声ではなかった。
ただ、言葉にしないといられなかっただけのような、そういう声だった。
(……私には、何もできない)
前世であれば、こんなふうに誰かのそばで黙って座るなど、考えたこともなかった。
弱い者が傷つくのは当然で、立ち上がれぬ者は置いていく。
それが森の掟で、それが王の在り方だった。
なのに今の私は、何もできない。
爪も、牙も、力も、言葉すら役に立たない。
ただここにいることしか、できない。
だが——胡桃は、何十回でも付き合ってくれた。
ならば今度は、私の番だ。
「……第二回、ある」
しばらくして、凛は口を開いた。
「同じ高校の、第二回一般入試が、ある」
胡桃が、顔を上げた。
「知ってる」
「受けるか」
胡桃は少し考えてから、答えた。」
「……受ける」
「そうか、じゃあ一緒に頑張ろう」
「凛は、推薦でもう決まってるじゃん。関係ないでしょ」
「関係ある」
「なんで」
凛は少し黙った。
「副官がいなくて、どうする」
胡桃の目から、また涙がこぼれた。
今度は、泣き終わった後の顔ではなかった。
「……バカ」
「何がだ」
「そういうこと言うから」
意味がよくわからなかった。
だが、胡桃が泣いているのに、なぜか悪い気はしなかった。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
(……次は、私も一緒にやる)
推薦が決まっている。
勉強する必要はない。
だが、胡桃が第二回に向けて動くなら、隣にいる。
それだけは、決めた。
言葉にはしなかった。
ただ、そう決めた。
しばらくして、胡桃の母親が部屋の前に来た。
「凛ちゃん、夕飯食べていく?」
凛は少し考えてから、首を横に振った。
「……今日は、帰る」
「そう。また来てね」
廊下に出ると、胡桃が部屋の入り口まで出てきた。
「凛」
「なんだ」
「……ありがとう」
何に対しての礼なのか、よくわからなかった。
何もしていない。
何も言えなかった。
ただ来て、ただ座っていただけだ。
それでも、胡桃の顔は、来た時よりも少しだけ、楽になっているように見えた。
「……次は、合格させろ」
「うん」
「待っている」
玄関を出て、夜の道を歩いた。
冷たい風が、頬をかすめた。
(……不思議なものだ)
何もできなかった。
言葉も、力も、何一つ役に立たなかった。
これほどまで己の無力を感じたこともなかった。
それなのに、帰り道の足取りは、来た時より軽かった。




