中学編・第17話「隣の空白と、それぞれの戦い」
三月、初め。
昨日、母に連れられて美容院へ行った。
卒業式を前に、髪を整えておきなさい、と言われたのだ。
椅子に座り、白い布をかけられ、鏡の前に座った。
美容師が、丁寧にハサミを入れ始めた。
チョキ、チョキ、と小さな音が、耳元で響く。
その音を聞いているうちに、ふと、遠い記憶が蘇った。
魔王の森の、大きな古木の下。
木漏れ日の中で昼寝をしていると、時折、小鳥が立髪に降り立った。
小さな爪の感触と、羽ばたく音。
そしてチュッチュッと鳴きながら、毛並みの中を歩き回る。
追い払う気にもなれず、ただそのまま目を閉じていた。
あれは、悪くない時間だった。
「お客様、卒業式ですか? 入学式もありますもんね。最近はね、こういうスタイルが流行っていて――」
美容師が、矢継ぎ早に話しかけてくる。
(……少し、黙っていてほしい)
小鳥たちは、何も喋らなかった。
ただそこにいるだけで、それで十分だった。
そんなことを思いながら、黙って鏡を見ていた。
その夜、仕事から帰ってきた父が、リビングに入った瞬間に足を止めた。
「……凛、髪、切ったのか」
「ああ」
父が、ゆっくりと頷いた。
「似合ってるな」
珍しく、そう言った。
「そうでしょう」
楓が、隣でなぜか誇らしそうに胸を張って言った。
(……悪くない)
鏡の前で確認した時も、そう思った。
立髪はもうない。尾も、爪も、牙も。
だが今の自分には、今の姿がある。
それでいいだ。今は本当にそう思える。
翌朝、学校に着くと、胡桃の席が空だった。
今日は、受験だ。
(……そうか、今日だったな)
当然のように知っていたはずなのに、実際に席が空いているのを見ると、妙に落ち着かなかった。
授業中も、どこかそわそわした。
(……なぜだ)
自分でも、よくわからなかった。
推薦で合格済みの私には、受験など関係のない話のはずだ。
それなのに、なぜか胡桃の席を何度も見てしまう。
昼休み、胡桃がいないと、いつもと違う空白が生じた。
(……落ち着かない)
自分でも、よくわからなかった。
ただ、いつも隣にいる者がいないというのは、こういう感覚なのか。
ぼんやりと窓の外を見ていると、クラスの女子が二人、こちらに近づいてきた。
「朝霧さん、今日一人? 一緒にお昼どう?」
(……群れの動きが、変だ)
普段、こちらから積極的に話しかけてくる者ではなかった。
「……いや、これから領地の見回りがある」
「領地……?」
「保健室だ」
女子二人が、顔を見合わせた。
「朝霧さんってやっぱり面白いよね」
「ね」
二人がくすくすと笑いながら去っていった。
(……なぜ笑う)
理解しがたかったが、悪意ではないことはわかった。
廊下に出ると、今度は階段の踊り場で小さな群れが待ち構えていた。
見覚えのある顔だった。
バレンタインの時に告白してきた下級生と、その取り巻きとおぼしき者たちだ。
「朝霧先輩!」
「髪切ったんですね! 似合います!」
「あの、今日って胡桃先輩が入試で、先輩一人じゃないですか。
よかったら一緒にお弁当食べませんか!」
(……胡桃がいない隙に、副官の地位を狙ってきたのか)
下級生たちの顔を見た。
(いや、違うな。この者たちからは、そんな野心は感じられん……そうか。私も知らぬ間に、胡桃が、これほどまで群れを統制していたとは)
「今日は先約がある。また今度だ」
「え、先約って誰ですか!」
「保健室の先生だ」
下級生たちが、また顔を見合わせた。
「……かっこいい」
「私たちも一緒に行っていいですか?」
(……この群れで押しかけると、緑川先生が迷惑する)
領地の安定を保つのも、主たる者の務めだ。
「ならぬ。今日は私一人で行く」
「えー」
「また今度だ」
下級生たちが、名残惜しそうにしながらも引き下がった。
(……何がかっこいいのだ)
首を傾けながら、保健室へ向かった。
胡桃がいないだけで、今日は誰もかれもが妙に近くに来る。
その理由はわからなかったが、少なくとも今は、静かな場所に身を置きたかった。
扉を開けると、緑川先生が書き物をしていた。
顔を上げ、少し驚いた顔をした。
「あら、朝霧さん。今日は一人?」
「……ああ、……はい」
「そうか、今日はみんな入試試験だもんね」
先生が、微笑みながら書き物に戻った。
いつものように棚を確認し、薬品の在庫をざっと眺めた。
特に乱れはなかった。
長椅子に腰を下ろし、窓の外を見た。
「先生」
「なに?」
「……この学校で、まだやり残していることがある」
先生が、ペンを止めた。
「何?」
凛は少し間を置いた。
「制服」
「……征服?」
先生が、ゆっくりと首を傾けた。
「次は何処を征服するの?」
緑川先生は凛の獣王設定を個性と認識し、その言動を随分と受け入れていた。
「その征服ではなくて、学校の制服」
「ああ、学校の制服ね」
「最初の頃、リボンが結べなかった。母に何度も直された。今もさほど上手くはない」
先生が、静かに聞いていた。
「人間の群れには、それぞれの装いがある。この制服も、この群れの一員であることの証だ。群れを率いる者として、それをうまく纏えないまま卒業するのは……この群れで過ごし、この群れに受け入れられてきたのに、その証を最後までまともに纏えぬまま去るのは――どうにも、据わりが悪い」
言葉が、途切れた。
「悔しい?」
この子は、自分でも気づいていないのだろうな、と先生は思った。
悔しいのではなく、この場所にちゃんと属していたいのだ、と。
「……そういうわけでは、ない」
「そう」
先生が、立ち上がった。引き出しを開け、小さな鏡を取り出した。
「じゃあ、練習する?」
「……え」
「リボン。今ここで」
凛は少し黙ってから、頷いた。
先生の前で、リボンを外し、もう一度結んだ。
うまくいかなかった。
先生は黙って見ていた。
保健室の整理をする凛の手つきは、いつも丁寧だった。
薬品棚の並べ方も、包帯のたたみ方も、言われた通りに正確にこなす。
手先が不器用なわけではない、と先生は思っていた。
ただ、コツをつかめていないだけだ。
要領さえわかれば、すぐできるはずだと。
「こうして、この端を――」
先生が、手を添えながら教えてくれた。
二度目。少し形になってきた。
三度目で、なんとか形になった。
鏡を見た。
不格好ではあったが、一応、リボンだった。
「……上手くなったじゃない」
「まだだ」
「そうね」
卒業式まで、もう少しある。
この子なら、きっと間に合う。
先生が、また微笑んだ。
「でも、卒業式まで練習する時間はある」
鏡に映る決意のこもった目を見つめ、小さく頷いた。
(……卒業式まで、あと少しだ)
放課後、
鞄を持って昇降口を出ると、校門の前に胡桃が立っていた。
「凛!」
「……胡桃」
「待ってた。試験、終わったよ」
胡桃の顔を見た。疲れてはいるが、晴れやかだった。
無事に終えた顔だ、と思った。
それでも、まだ戦いが終わったわけではないのだろう。
「……どうだった」
「頑張れた、と思う。結果はまだわからないけど」
(……頑張れた、か)
その言葉の意味を、少し考えた。
勝敗がわからないまま、それでも「頑張れた」と言える。
前世の私には、そういう感覚がなかった。
戦いは勝つか負けるか、それだけだった。
「そうか」
「うん」
しばらく、二人で並んで歩いた。
「凛、髪切った?」
「……ああ」
「似合う。なんか、柔らかくなった感じ」
「……そうか」
悪くない、と思った。
「合格発表、いつだ」
「来週」
「……そうか」
また少し黙った。
「待っている」
「え?」
「結果が出たら、報告しろ。待っている」
胡桃が、一瞬だけ目を丸くした。
それから、口元をゆっくりと緩めた。
「……うん。絶対報告する」
歩き慣れた通学路を、二人で歩いた。
夕暮れの風が、切ったばかりの髪をかすかに揺らした。
それはもう、立髪ではなかったが――悪くないと思えた。




