中学編・第16話「数式か、呪文か、それが問題だ」
二月、下旬。
期末テストまで、あと一週間だった。
教室の空気が、じわじわと張り詰めていくのを感じていた。
(……これは、戦前の気配に近い)
文化祭の前とも、体育祭の前とも違う。
個人個人が、それぞれ見えない敵と向き合っている、そういう緊張感だ。
私には、関係のない話だった。
推薦入試はすでに合格している。
期末テストの結果が多少悪くとも、高校入学に支障はない。
そのはずだった。
「凛、テスト勉強してる?」
放課後、胡桃が当然のように私の机の前に座った。
「していない。推薦はすでに決まっている」
「出たよ余裕の推薦組」
胡桃が呆れたように眉を下げた。
「でもさ、一緒に勉強しない? 私、数学ちょっと危ないんだよね。一人でやると逃げたくなるし」
(……副官の頼みとあれば、断るわけにもいかぬか)
やむを得ない、と思った。
放課後の図書室で、胡桃と向かい合って教科書を開いた。
胡桃は黙々と問題を解き始めた。
凛は、自分の教科書のページをめくった。
数式が、並んでいた。
(……また、この白き悪魔か)
転生当初から、この記号の意味がわからなかった。
白い紙の上に黒い記号が禍々しく並ぶその様は、まるで悪魔の書物のようだと思っていた。
前世では、魔法陣を一目見ただけで仕組みを理解できたのに、人間の数式はどうしても頭に入ってこない。
魔法陣には「意味」があった。風を呼ぶ印、大地を揺らす紋様。
そもそも前世では、数字で何かを計算するという発想がほぼなかった。
力は感覚と紋様で扱うものだったのだ。だがこの白き悪魔には――
「凛、ここわかる?」
胡桃が、ノートを差し出した。二次方程式の問題だった。
「……わからない」
「素直だね」
胡桃が苦笑しながら、丁寧に説明してくれた。
xがこうで、式をこう変形して――。
聞きながら、教科書を見た。
胡桃のノートに書かれた式を見つめているうちに、ふと既視感が走った。
未知の何かを仮置きし、式を変換し、不要なものを削ぎ落として核だけを取り出す。
(……この手順は)
魔法陣の展開と、どこか似ていた。
魔法陣では、エネルギーを別の形に変換する際に、特定の印を使う。
xという記号は、未知の何かを別の形に変える、その「変換の印」ではないか。
(……違う。これは呪文ではない。手順だ)
そう気づいた瞬間、紙の上の記号が、ただの模様ではなく意味を持った線として立ち上がってきた。
「胡桃、もう一度言え」
「え、急にどうしたの」
「説明をもう一度頼む」
胡桃が、首を傾げながらも繰り返した。
今度は、全く違って聞こえた。
(……なるほど。変換し、整理し、答えを導く。これは魔法陣の展開と同じ理屈ではないか)
次の問題を見た。
記号が、少しだけ違って見えた。
その次も。
その次も。
「……」
「凛? どうしたの、急に黙って」
答えなかった。
ページを繰る手が、止まらなかった。
そして――。
「見えるぞ……私にも、敵の姿が見えてきた」
「え?」
「白き悪魔の正体が……見える」
胡桃が、目を丸くした。
「凛、今なんて――」
「この記号の羅列は、呪文ではなかった。魔法陣と同じ、変換と展開の体系だ」
「……いや、まあ、そうなんだけど」
胡桃が、呆気にとられた顔でこちらを見た。
「凛、それ中学三年の三学期に気づくことじゃないよ……ていうか今まで何だと思ってたの」
「なんらかの呪文だと思っていた。人の言葉ではなさそうだったので、悪魔族が使う呪詛の類かと」
「……そっか」
長い沈黙があった。
「凛って、ほんとに凛だよね」
胡桃が、力の抜けた笑いを浮かべた。
その後、二時間ほど図書室に残った。胡
桃の問題に付き合いながら、自分でも問題を解いてみた。
全問正解とはいかなかったが、以前より格段に理解できた。
帰り道、胡桃が言った。
「凛、もしかして数学の才能あるんじゃない?」
「……元より、博識だ」
「この世に生を受けてからまだ間もないゆえ、人間の言語にうまく翻訳されていなかっただけだ」
「あははは、なにそれ」
胡桃が、体をくの字に折り曲げるようにしながら笑った。
翌週、期末テストが行われた。
数学の答案が返ってきた時、白衣の担任が少し不思議そうな顔をした。
「朝霧さん、数学八十七点。急に伸びたね」
「……白き悪魔の正体が、見えたので」
担任は一瞬だけ固まり、「そう」とだけ言って次の答案を配り始めた。
胡桃は、笑いを堪えるために机で必死にもがいていた。
「凛、それ先生に言っちゃダメなやつ(笑)」
窓の外では、校庭を渡る風が、どこか春の匂いを含んでいた。
期末が終われば、卒業まで、もうあまり時間はない。




