中学編・第15話「甘い貢物と、臣下志願者たち」
二月十四日、午後のことだった。
五時間目が始まる前、教室に戻ると空気がいつもと違った。
女子の鞄が、妙に膨らんでいる。
廊下を歩く男子が、そわそわと後ろを振り返る。
休み時間になった瞬間、廊下のあちこちで小声の会話が始まった。
(……供物が、動き始めている)
胡桃から教わったバレンタインという儀式は、思いのほか大規模なものらしかった。
学校全体が、ひとつの祭事の気配を帯びていた。
「凛、午前中大丈夫だった? 顔色戻った?」
隣の席の胡桃が、こっそり声をかけてくる。
「……問題ない」
「ならいいけど」
胡桃は、納得したような、していないような顔で頷いた。
それから、口元をほんの少し緩めて付け足した。
「チョコ、おいしかったよ。ありがとね」
「……そうか。胡桃からもらったチョコもな」
放課後になると、周囲の気配が本格的に動き出すのを感じた。
最初に声をかけてきたのは、隣のクラスの男子だった。
名前は知らない。
「あの、朝霧さん。好きです。付き合ってください」
(……臣下志願か)
「我に仕えたいなら、それなりの力を示せ。お前はまだその域に達しておらぬ。鍛え直して出直せ」
男子が、なぜか目を輝かせながら「はい!」と答えた。
二件目は、同じクラスの男子だった。
佐藤ではない。
背の高い、運動部らしき者だ。
「朝霧さん、俺と付き合ってください」
「文化祭のあの統率力、ずっとかっこいいと思ってました」
(……文化祭か)
あの時のことを、まだ覚えているらしい。
「我に仕えたいなら、それなりの力を示せ。お前はまだその域に達しておらぬ。鍛え直して出直せ」
「はい!」
またも嬉しそうだった。
三件目は、女子だった。
廊下の曲がり角で、小柄な女子が待ち構えていた。
襟章の色が違う。
下級生だ。
「あの……朝霧先輩」
先輩、という響きに、少し戸惑った。
「朝霧先輩のまっすぐなところが、ずっと好きでした」
(……まっすぐ、か)
前世では、まっすぐとは剛直なことだと思っていた。
強く、曲がらず、折れないこと。
それが今の私にも見えているというのなら――それは、悪くない評価かもしれなかった。
「気持ちはわかった。だが、今は時期ではない。もっと力をつけてから出直せ」
下級生が、少し驚いた顔をしてから、ゆっくりと頷いた。
「……はい」
三人とも、なぜか落ち込んだ様子がなかった。
(……人間というものは、つくづく理解しがたい)
夕方の校舎を出ると、空気が少し冷たかった。
胡桃が、隣を歩いていた。
「凛、今日何件だったの」
「三件だ」
「……多っ」
胡桃が凛を指差し、指をくるくると回しながら笑った。
「お主も罪な女よの〜」
「よくわからない」
「そっか」
また少し黙った。
「ねえ凛」
「なんだ」
「私、頑張って絶対凛と同じ高校に合格するね!」
「……当然だ。副官がいなくてどうする」
「獣王にはこの副官胡桃がついていないとね」
胡桃が、笑いながらそう言った。
空は、うっすらと夕焼け色に染まっていた。
紫りんごの色に、少しだけ似ていた。
来月になれば、卒業式がある。
この群れを離れる者が出る。
そして私も、今いる場所を去ることになる。
(……大切なものを失うとは、これほど堪えるものなのか)
紫りんごの味が、まだ舌の奥に残っている気がした。
そういえば、と胡桃が思い出したように言った。
「来週から期末テストだよ。凛、大丈夫?」
「……推薦はすでに決まっている。関係ない」
「まあそうなんだけどね」
胡桃が苦笑した。
関係ない、とは思った。
ただ――あの忌まわしき数式の羅列が、また眼前に迫ってくると思うと、なぜか気が重かった。




