中学編・第14話「紫りんごと、甘い貢物の儀」
二月十四日の、朝のことだった。
「凛、大丈夫?」
朝食の席で、楓が心配そうに顔を覗き込んできた。
私は答えなかった。答える気力が、なかった。
自分自身が記憶している中だけでも、最悪の気分の朝だ。
母がキッチンから声をかけてくる。
「そういえば凛、胡桃ちゃんへのチョコ、今年はどうするの? 買うの、作るの?」
「……買う。昨日、選んだ」
それだけは、できた。
小さな箱に入った、上品な見た目のチョコレート。
胡桃の好みかどうかはわからなかったが、店員が「人気があります」と言っていたので、それにした。
「なんか元気ないね、姉ちゃん。」
陸が、トーストをかじりながら横から口を挟んだ。
茶化す気配はなかった。
「……気のせいだ」
「絶対気のせいじゃないじゃん」
楓が、心配そうな目でこちらを見ている。
朝食が並んだ。
手を合わせた。
「いただきます」
気づいたら、口が動いていた。
転生当初は、この作法の意味がよくわからなかった。
食事の前に手を合わせ、感謝を述べる。
誰に? 何に? しばらく理解できなかったが、今では体が勝手に動く。
落ち込んでいても、手は合わさっていた。
(……妙なものだ)
「大丈夫かなあ、お姉ちゃん……」
楓が、心配そうな顔で私を見送った。
「はあ、……」
足取りが重い。
森の巨獣との戦い直後の満身創痍の感覚にも似ている。
学校までたどり着けるか。
学校へ向かう道を、私は一人でとぼとぼと歩いた。
教室に入った瞬間、胡桃の顔が目に入った。
「凛、おはよ――」
その瞬間だった。
目から、何かがこぼれた。
(……?)
自分でも、わけがわからなかった。止めようとしたが、止まらなかった。ぽろぽろと、勝手にこぼれ続ける。
「ちょ、凛!? どうしたの!?」
胡桃が、血相を変えて立ち上がった。
「……わからない」
「わからないって、どこか痛いの!?」
「痛くはない」
「泣いてるじゃん! ねえ、保健室行こう。緑川先生呼んでくる――」
「泣いていない」
「泣いてるよ!!」
気づけば胡桃に腕を引かれ、廊下を歩かされていた。
保健室の扉を開けるなり、胡桃が叫んだ。
「緑川先生、凛が大変です!」
緑川先生は、一瞬だけ目を丸くしたものの、すぐにいつもの調子で長椅子を示した。
最近の私は、保健室を「領地の見回り」と称してたびたびここを訪れている。
棚の整理を手伝ったり、書類を運んだりするうちに、先生ともすっかり顔なじみになっていた。
だから今日も、余計な説明は要らなかった。
問診が始まった。
熱はないか、頭は痛くないか、気分は悪くないか。
「体は、何ともない、です」
敬語が出た。この状況でも、出た。
先生が、ほっと息をつく。
「じゃあ、少し落ち着こうか。ちょっと待ってて」
しばらくして、湯気の立つカップが二つ、目の前に置かれた。
ココアだった。甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐった。
「ありがとうございます、先生」
胡桃が頭を下げる。
「ああ、これ、ありがとうございます、です」
先生が小さく吹き出した。
温かいものを飲むうちに、少しずつ、落ち着いてきた。
目頭が、まだ少しじんじんする。
「……何があったか、話せる?」
胡桃が、隣で優しく聞いてくれた。
口を開こうとしたが、うまく言葉にならなかった。
「・・・うわあ・・き・・・」
「ん?」
胡桃が優しく覗き込む。
「うわわきいいんあ〜」
「……上履き委員?」
「いがう」
凛が首を横に振る。
「凛、もう一回落ち着こう」
深呼吸した。
「…むあ」
「うん」
「…むあさきりんごが」
「え?」
「……紫りんごが」
「うん?」
「……期間限定で、販売が、終わっていた」
沈黙が落ちた。
一拍置いて。
「ぶーっ!!」
胡桃と緑川先生が、同時にココアを吹き出した。
――昨夜のことが、脳裏に蘇った。
陸と楓を引き連れ、ショッピングモールへ向かった。
目的は三つ。
胡桃へのバレンタインチョコを選ぶこと、面接練習のお礼として二人にりんご飴を買ってやること、そして――スタンプカードの、五つ目を押してもらうこと。
四つ貯まったカードを、大事に財布に入れていた。
次で満タン。
一つ無料で手に入れられるはずだった。
あの、紫色の――。
りんご飴専門店に着いた。
楓が「どれにしようかなー」と迷い始めた横で、私はまっすぐガラスケースへ向かった。
ガラスケースを見渡した。
コーラ味、チョコレート味、ラムネ味、ストロベリー味――。
紫色が、どこにもなかった。
メニュー表を確認した。
やはり、ない。
「あの、紫り……ブルーベリーヨーグルト味を」
店員が、申し訳なさそうな顔をした。
「ブルーベリーヨーグルト味は、一月末で終了してしまったんです」
「?……えっ?」
「今回の期間限定フレーバーは、ハニーレモ――」
――途中から、声が聞こえなくなった。
いや、本能的に体が外的な情報を遮断したのだ。
――世界が、止まった気がした。
スタンプカードを握りしめたまま、私はしばらく動けなかった。
どうやって帰ったか、よく覚えていない。
「それで泣いてたの!?」「朝霧さん、それで!?」
二人の声が、重なった。
「泣いていない」
「泣いてたよ! めっちゃ!」「泣いてましたよ! めっちゃ!」
緑川先生も、思いっきり突っ込んだ。
また重なった。
保健室に、しばらく笑い声が響いた。
胡桃と緑川先生は、ゼーゼー言いながら、飛び散ったココアをティッシュで拭くのであった。
私には、何がそんなにおかしいのか、よくわからなかった。
紫りんごは、本当においしかったのだ。
あの色、あの香り、あの味。
前世で何百年も食べ続けた、あの果実の記憶を呼び起こす、たった一つの味だった。
それが、なくなったのだ。
「……もう二度と、食べることは叶わないのか」
「え?」
「あの味は、もう食べられないのか」
胡桃が、ようやく笑いをおさめて、真剣な顔になった。
「期間限定だから、また来年やるかもしれないよ。もしかしたら定番になることもあるし」
「……来年」
「うん」
私は少し考えた。
スタンプを五つ貯めれば、あの店は征服したも同然と、たかを括っていた。
勝てる、そう思った瞬間こそが足元を掬われる最も危険な瞬間であることを、あの勇者パーティーとの戦いで学んだはずだったのに。
私はまたしても、油断してしまったというのか。
それよりも、だ。
尻尾、爪、牙、内から漲る熱――獣王としての力を失うことは、凛に転生したという事実と共に、受け入れることができていた。
なのに、このやり場のない喪失感は、なんなのだ。
大切なものを失うとは、これほど堪えるものなのか。
来年。私はもう、この中学校にはいない。高校生になっている。
このモールに来ることはできる。でも、また食べられる保証はない。
「……そうか」
「大丈夫だよ、凛。また絶対食べられるから」
胡桃が、そう言って笑った。
根拠はなかった。だが――。
(……胡桃がそう言うのなら、そうかもしれない)
不思議と、そう思えた。
緑川先生が、そっとティッシュを差し出してくれた。
「はい、朝霧さん」
「……ありがとうございます」
敬語が、すんなり出た。
先生が、また小さく笑った。
「随分上手になりましたね、敬語」
「……精進しています」
「それも敬語」
気づいたら、口元が少し緩んでいた。
――そういえば、今日はバレンタインだった。
胡桃へのチョコを、鞄の中に入れてきている。渡すタイミングを、すっかり忘れていた。
「胡桃」
「なに?」
「……これを」
鞄から取り出した小箱を、差し出した。
「え、チョコ? ありがとう!」
胡桃が、ぱっと顔を輝かせた。
そして鞄をごそごそと漁り、「実は私も」と似たような小箱を出してきた。
「お揃いじゃん」
「……そうだな」
緑川先生が、微笑ましそうに二人を見ていた。
しばらくして、保健室を出た。廊下は、いつも通りの学校だった。
紫りんごは失われた。
だが、今日という日が完全な敗北だったかと問われれば、そうでもない気がした。
その理由を、私はまだ、うまく言葉にできなかった。




