表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
14/35

中学編・第13話「甘い貢物と、臣下志願者たち」

二月。


合格通知が届いたのは、月の初めのことだった。


封筒を手にした母が、リビングで声を上げた。


「凛! 来たよ、合格通知!」


開封するのは私がやる、と思ったが、母の手がすでに封を切っていた。


紙を引き抜き、一読するなり、その目に涙が浮かぶ。


「よかった……本当によかった」


父が、珍しく表情を崩して頷く。


陸が「やったじゃん」とぶっきらぼうに言い、楓が「お姉ちゃん合格ー!」と飛びついてきた。


(……無血開城、完遂だ)


胸の内でそう呟きながら、私は騒ぐ家族の中心で、静かに拳を握った。


戦わずして道を切り拓く、と誓ったあの面接から一月。謁見の儀は、私の勝利に終わった。


「りんご飴、買ってもらえる?」


楓が、涙目の母の袖を引く。


「……そうだな。約束していたな」


私が口を挟むと、楓がぱっと顔を輝かせた。


「お姉ちゃんが買ってくれるの!?」


「ああ。陸の分も」


「べ、別に……まあ、せっかくだし」


陸が顔を背けながら呟いた。


その耳が、わずかに赤かった。



その夜、洗面台の前で歯ブラシを手に取る。


これも、ずいぶん慣れたものだった。


最初は何のためにこんな棒を口に突っ込むのかまるで理解できず、母に三度説明させてしまったが、今では手が勝手に動く。


前世では虫歯など無縁だった。


あの頑丈な牙は、何も手入れしなくとも欠けることがなかった。


だが今の歯は違う。


毎日磨かなければ朽ちて抜け落ちるという。


(……脆いものだ)


ぶつぶつ思いながらも、丁寧に磨く。


脆いなら脆いなりに、手入れをすればいい。


それもまた、今の戦い方というものだ。


鏡の中の自分と目が合った。


つるりとした頬。細い首。小さな体。


どこをどう見ても、獣王の面影などひとかけらもない。


それでも、今日この体で、一つの勝利を手に入れた。


「……悪くない」


呟いて、私は歯ブラシをすすいだ。


翌週、学校へ向かうと、教室に入るなり胡桃が駆け寄ってきた。


「凛、合格おめでとう!」


「……ああ。お前の特訓のおかげだ」


我ながら、らしくない言葉だと思った。


視線が、少し横に逸れた。


「え、なんか照れてる? 珍しい」


「……照れていない」


「照れてるじゃん」


胡桃が、嬉しそうに笑った。


教室の空気がどこかざわついていた。


(……この浮ついた気配は、何だ)


文化祭の前とも、体育祭の前とも違う。


もっと個人的な、甘ったるいような、落ち着かないような気配が、教室全体に漂っている。


ちょうどその時、担任が教室に入ってきた。


「朝霧さん、合格おめでとう。先生も嬉しかったよ」


「ありがとうございます」


すんなりと、敬語が出た。我ながら見事な一言だった。


(……完璧だ)


思わず口元が緩む。


チラリと、胡桃の顔を伺う。


「……今、自分でドヤ顔してるの気づいてる?」


隣から、胡桃の冷静な声が飛んできた。


「……していない」


「してたよ」


担任が苦笑しながら出席を取り始めた。


教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。


(……まあ、いい)


面接の練習以来、先生に対してだけは「です・ます」を使うよう心がけている。


最初は舌が縺れたが、今では意識すれば出るようになった。


ただし先生以外となると、まだ咄嗟には出てこない。


それでも、敬語が出た事実は変わらない。



その日の午後、教室の後ろの掲示板に目が止まった。


「卒業まであと○○日」


手書きの紙が、静かに貼られていた。


進路の決まった者たちの空気は、どこか緩んでいる。


まだ受験を残している者の張り詰め方とは、明らかに違った。


(……この群れで過ごせる時間は、あと僅かということか)


改めて認識したのに、不思議と実感が湧かなかった。


放課後、昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。


「あの……朝霧さん」


思えば、朝からその気配は感じていた。


殺気ではない。敵意でもない。


ただ、妙にこちらを意識するような、落ち着かない気配がずっとまとわりついていた。


獣王だった頃も、近しい気配を感じることは少なくなかった。


弱き者が庇護を求める際に醸し出していた、あの気配に近い。


いわゆる、小物の気配だ。


脅威にはならないと判断したので、正体など特に気にも留めていなかったが。


振り返ると、同じクラスの男子が立っていた。


名前は確か、佐藤という。

成績優秀で、クラスの中でも一目置かれているタイプだ。


そういう者が、わずかに表情を固くしながらこちらを見ていた。


「ちょっといい」


「なんだ?」


佐藤は少し周囲を見回してから、「こっち」と廊下の隅、人通りの少ない方へ歩き出した。


(……人払いか)


私は無言でついていった。


角を曲がった先の、誰もいない踊り場で、佐藤は足を止めた。


一拍置いてから、まっすぐにこちらを見た。

頬が、わずかに赤い。


「朝霧さん、文化祭の時から好きでした。俺と付き合ってくれませんか」


(……)


私はしばらく、その言葉の意味を咀嚼した。


好き。付き合う。


どちらも、聞き覚えはあるが、意味がよくわからない言葉だった。


ただ、この者が何か重要な申し出をしているらしいことは、その真剣な顔から読み取れた。


(……この者は、私に服従を申し出ているのか。臣下志願、というやつか)


それ以外の解釈が、思い浮かばなかった。


考えてみれば、前世でも似たような申し出は何度もあった。


格下の魔物が「お側に置いてください」と擦り寄ってくるのだ。


煩わしさから、全て断ってきた。


魔王とやらからも声をかけられたことがあったが、あの時も話など聞かなかった。


紫りんご以外に興味がなく、誰かに従属する気などさらさらなかったからだ。


魔王というやつは何やら面倒なことをやっていて、物好きなやつだと思っていた。


現世でも、同じことらしい。


「気持ちはわかった」


私は静かに答えた。


「だが、今は時期ではない。私の配下に加わるだけの力が足りぬ。仕えたければ力を示せ。鍛えてから出直せ」


佐藤が、妙に嬉しそうな顔で「はい!」と答えた。


(……なぜそこで喜ぶ)


理由はよくわからなかった。


申し出を断られたのに、なぜ「はい」と答えるのか。


人間というものは、つくづく理解しがたい生き物だ。


翌日、胡桃にその話をすると、長い沈黙の後にこう言われた。


「……凛、それ、告白だよ」


「告白?」


「好きって気持ちを伝えること。佐藤くん、凛のことが好きで、付き合いたいって言ったんだよ」


「……付き合う、とは?」


「恋人になること」


(……恋人?)


また、知らない言葉が出てきた。


「……それは、どういう関係だ?」


「特別な一人を、ずっと大切にするってこと、かな。んー……獣王の目線で言うと、つがいになる、に近いかな」


「???」


私はしばらく、その言葉を頭の中で転がした。


「つがいだと!?」


「ちょっと、なんでそんな動揺してるの」


「つがいとは……強き雄が、雌を服従させ、子をなすことではないか!」


「違う違う違う!」


胡桃が、両手を振り回した。


「現代人のつがいはそういう意味じゃないから! 対等に好き合って、一緒にいるってこと!」


「……対等に」


「そう。強い弱い関係ない」


(……強き雄に服従するメス、それ以外のつがいが存在するというのか)


「……まだ、よくわからない」


「まあ、そうだよね」


胡桃は、笑いも呆れもせず、ただそう言った。


私は少し考えた。


(特別な一人を、ずっと大切に……対等に)


紫りんごの木の下で、一人で昼寝をしていたあの頃が、ふと頭をよぎった。


あの頃の私には、大切にしたいと思うものなど、紫りんごしかなかった。


対等も服従も関係なく、ただそれだけが、私の「大切なもの」だった。


「ていうか、もうすぐバレンタインだしね。そのせいもあるんじゃない」


「……バレンタイン?」


聞き覚えのない単語だった。胡桃が、呆れたような顔で説明してくれる。


「チョコレートを好きな人に渡して、気持ちを伝える日。二月十四日」


「チョコレートを……渡す」


「うん。好きっていう気持ちとか、日頃の感謝の気持ちを、チョコに込めて渡すの」


(……なるほど)


私はしばし考えた。


(供物を捧げることで、相手への服属を示す儀式か。あるいは逆に、相手を自らの支配下に引き入れるための贈り物か)


「それは、贈った相手が配下になるということか。それとも、贈った者が配下になるということか」


「どっちでもないよー」


胡桃が、ずっこけ気味に突っ込んだ。


「配下になるとかの儀式じゃないよ。気持ちを伝えるだけ」


感謝は、少しずつわかってきた。


好き、というのは別の種類の感情らしい。


バレンタインというのは、その気持ちを形にする日、ということだろうか。


よくはわからなかった。


その帰り道、ふと気づいた。


来月になれば、この群れを離れる者が出る。


同じ高校に進む者もいれば、別の道へ向かう者もいる。


佐藤も、その一人かもしれない。


(別れ、か......)


その言葉の重さを、私はまだ、うまく量ることができなかった。


ただ、その前に――甘い供物が飛び交う、奇妙な儀式が待っているらしい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ