中学編・第13話「甘い貢物と、臣下志願者たち」
二月。
合格通知が届いたのは、月の初めのことだった。
封筒を手にした母が、リビングで声を上げた。
「凛! 来たよ、合格通知!」
開封するのは私がやる、と思ったが、母の手がすでに封を切っていた。
紙を引き抜き、一読するなり、その目に涙が浮かぶ。
「よかった……本当によかった」
父が、珍しく表情を崩して頷く。
陸が「やったじゃん」とぶっきらぼうに言い、楓が「お姉ちゃん合格ー!」と飛びついてきた。
(……無血開城、完遂だ)
胸の内でそう呟きながら、私は騒ぐ家族の中心で、静かに拳を握った。
戦わずして道を切り拓く、と誓ったあの面接から一月。謁見の儀は、私の勝利に終わった。
「りんご飴、買ってもらえる?」
楓が、涙目の母の袖を引く。
「……そうだな。約束していたな」
私が口を挟むと、楓がぱっと顔を輝かせた。
「お姉ちゃんが買ってくれるの!?」
「ああ。陸の分も」
「べ、別に……まあ、せっかくだし」
陸が顔を背けながら呟いた。
その耳が、わずかに赤かった。
その夜、洗面台の前で歯ブラシを手に取る。
これも、ずいぶん慣れたものだった。
最初は何のためにこんな棒を口に突っ込むのかまるで理解できず、母に三度説明させてしまったが、今では手が勝手に動く。
前世では虫歯など無縁だった。
あの頑丈な牙は、何も手入れしなくとも欠けることがなかった。
だが今の歯は違う。
毎日磨かなければ朽ちて抜け落ちるという。
(……脆いものだ)
ぶつぶつ思いながらも、丁寧に磨く。
脆いなら脆いなりに、手入れをすればいい。
それもまた、今の戦い方というものだ。
鏡の中の自分と目が合った。
つるりとした頬。細い首。小さな体。
どこをどう見ても、獣王の面影などひとかけらもない。
それでも、今日この体で、一つの勝利を手に入れた。
「……悪くない」
呟いて、私は歯ブラシをすすいだ。
翌週、学校へ向かうと、教室に入るなり胡桃が駆け寄ってきた。
「凛、合格おめでとう!」
「……ああ。お前の特訓のおかげだ」
我ながら、らしくない言葉だと思った。
視線が、少し横に逸れた。
「え、なんか照れてる? 珍しい」
「……照れていない」
「照れてるじゃん」
胡桃が、嬉しそうに笑った。
教室の空気がどこかざわついていた。
(……この浮ついた気配は、何だ)
文化祭の前とも、体育祭の前とも違う。
もっと個人的な、甘ったるいような、落ち着かないような気配が、教室全体に漂っている。
ちょうどその時、担任が教室に入ってきた。
「朝霧さん、合格おめでとう。先生も嬉しかったよ」
「ありがとうございます」
すんなりと、敬語が出た。我ながら見事な一言だった。
(……完璧だ)
思わず口元が緩む。
チラリと、胡桃の顔を伺う。
「……今、自分でドヤ顔してるの気づいてる?」
隣から、胡桃の冷静な声が飛んできた。
「……していない」
「してたよ」
担任が苦笑しながら出席を取り始めた。
教室のあちこちから、小さな笑い声が漏れた。
(……まあ、いい)
面接の練習以来、先生に対してだけは「です・ます」を使うよう心がけている。
最初は舌が縺れたが、今では意識すれば出るようになった。
ただし先生以外となると、まだ咄嗟には出てこない。
それでも、敬語が出た事実は変わらない。
その日の午後、教室の後ろの掲示板に目が止まった。
「卒業まであと○○日」
手書きの紙が、静かに貼られていた。
進路の決まった者たちの空気は、どこか緩んでいる。
まだ受験を残している者の張り詰め方とは、明らかに違った。
(……この群れで過ごせる時間は、あと僅かということか)
改めて認識したのに、不思議と実感が湧かなかった。
放課後、昇降口で靴を履き替えていると、後ろから声をかけられた。
「あの……朝霧さん」
思えば、朝からその気配は感じていた。
殺気ではない。敵意でもない。
ただ、妙にこちらを意識するような、落ち着かない気配がずっとまとわりついていた。
獣王だった頃も、近しい気配を感じることは少なくなかった。
弱き者が庇護を求める際に醸し出していた、あの気配に近い。
いわゆる、小物の気配だ。
脅威にはならないと判断したので、正体など特に気にも留めていなかったが。
振り返ると、同じクラスの男子が立っていた。
名前は確か、佐藤という。
成績優秀で、クラスの中でも一目置かれているタイプだ。
そういう者が、わずかに表情を固くしながらこちらを見ていた。
「ちょっといい」
「なんだ?」
佐藤は少し周囲を見回してから、「こっち」と廊下の隅、人通りの少ない方へ歩き出した。
(……人払いか)
私は無言でついていった。
角を曲がった先の、誰もいない踊り場で、佐藤は足を止めた。
一拍置いてから、まっすぐにこちらを見た。
頬が、わずかに赤い。
「朝霧さん、文化祭の時から好きでした。俺と付き合ってくれませんか」
(……)
私はしばらく、その言葉の意味を咀嚼した。
好き。付き合う。
どちらも、聞き覚えはあるが、意味がよくわからない言葉だった。
ただ、この者が何か重要な申し出をしているらしいことは、その真剣な顔から読み取れた。
(……この者は、私に服従を申し出ているのか。臣下志願、というやつか)
それ以外の解釈が、思い浮かばなかった。
考えてみれば、前世でも似たような申し出は何度もあった。
格下の魔物が「お側に置いてください」と擦り寄ってくるのだ。
煩わしさから、全て断ってきた。
魔王とやらからも声をかけられたことがあったが、あの時も話など聞かなかった。
紫りんご以外に興味がなく、誰かに従属する気などさらさらなかったからだ。
魔王というやつは何やら面倒なことをやっていて、物好きなやつだと思っていた。
現世でも、同じことらしい。
「気持ちはわかった」
私は静かに答えた。
「だが、今は時期ではない。私の配下に加わるだけの力が足りぬ。仕えたければ力を示せ。鍛えてから出直せ」
佐藤が、妙に嬉しそうな顔で「はい!」と答えた。
(……なぜそこで喜ぶ)
理由はよくわからなかった。
申し出を断られたのに、なぜ「はい」と答えるのか。
人間というものは、つくづく理解しがたい生き物だ。
翌日、胡桃にその話をすると、長い沈黙の後にこう言われた。
「……凛、それ、告白だよ」
「告白?」
「好きって気持ちを伝えること。佐藤くん、凛のことが好きで、付き合いたいって言ったんだよ」
「……付き合う、とは?」
「恋人になること」
(……恋人?)
また、知らない言葉が出てきた。
「……それは、どういう関係だ?」
「特別な一人を、ずっと大切にするってこと、かな。んー……獣王の目線で言うと、つがいになる、に近いかな」
「???」
私はしばらく、その言葉を頭の中で転がした。
「つがいだと!?」
「ちょっと、なんでそんな動揺してるの」
「つがいとは……強き雄が、雌を服従させ、子をなすことではないか!」
「違う違う違う!」
胡桃が、両手を振り回した。
「現代人のつがいはそういう意味じゃないから! 対等に好き合って、一緒にいるってこと!」
「……対等に」
「そう。強い弱い関係ない」
(……強き雄に服従するメス、それ以外のつがいが存在するというのか)
「……まだ、よくわからない」
「まあ、そうだよね」
胡桃は、笑いも呆れもせず、ただそう言った。
私は少し考えた。
(特別な一人を、ずっと大切に……対等に)
紫りんごの木の下で、一人で昼寝をしていたあの頃が、ふと頭をよぎった。
あの頃の私には、大切にしたいと思うものなど、紫りんごしかなかった。
対等も服従も関係なく、ただそれだけが、私の「大切なもの」だった。
「ていうか、もうすぐバレンタインだしね。そのせいもあるんじゃない」
「……バレンタイン?」
聞き覚えのない単語だった。胡桃が、呆れたような顔で説明してくれる。
「チョコレートを好きな人に渡して、気持ちを伝える日。二月十四日」
「チョコレートを……渡す」
「うん。好きっていう気持ちとか、日頃の感謝の気持ちを、チョコに込めて渡すの」
(……なるほど)
私はしばし考えた。
(供物を捧げることで、相手への服属を示す儀式か。あるいは逆に、相手を自らの支配下に引き入れるための贈り物か)
「それは、贈った相手が配下になるということか。それとも、贈った者が配下になるということか」
「どっちでもないよー」
胡桃が、ずっこけ気味に突っ込んだ。
「配下になるとかの儀式じゃないよ。気持ちを伝えるだけ」
感謝は、少しずつわかってきた。
好き、というのは別の種類の感情らしい。
バレンタインというのは、その気持ちを形にする日、ということだろうか。
よくはわからなかった。
その帰り道、ふと気づいた。
来月になれば、この群れを離れる者が出る。
同じ高校に進む者もいれば、別の道へ向かう者もいる。
佐藤も、その一人かもしれない。
(別れ、か......)
その言葉の重さを、私はまだ、うまく量ることができなかった。
ただ、その前に――甘い供物が飛び交う、奇妙な儀式が待っているらしい。




