中学編・第12話「面接という名の、謁見の儀」
一月。
三学期の始業式を迎えた朝のことだった。
洗面所で、顔を洗う。
これにも、ずいぶんと慣れたものだった。
前世にはなかった、毛のない、つるりとした頬。
泡立てた石鹸でそれを撫でるように洗うと、得も言われぬ爽快感が肌を駆け抜ける。
前世では、決して味わえなかった感覚だった。
「……悪くない」
口ではそう呟きながらも、実のところ、この習慣がかなり気に入っていた。
獣王だった頃は、自慢の尾の手入れを欠かさなかった。
岩に擦り付け、清流に浸し、艶を保つことにだけは妙にこだわっていたものだ。
だが、その尾はもうない。
いつしか、その執着の矛先は、このすべすべとした頬へと移っていた。
毎朝の洗顔にだけは、人一倍念を入れるようになっている。
「いつまで正月気分でいるの! 陸も楓も、さっさと支度しなさい!」
リビングから、母の一喝が轟いた。
寝坊した陸と、まだパジャマのままだらだらしていた楓が、弾かれたように飛び起きる。
「ご、ごめん!」
「いま着替える!」
母の纏う気配に、私もまた思わず姿勢を正していた。
(……この女の覇気だけは、未だに侮れぬ)
思えば、昨夜の面接練習に家族全員を巻き込んでしまったせいで、陸も楓も眠るのがずいぶん遅くなっていた。
それが今朝の寝坊につながっているのだとすれば、原因は私だ。
「……すまなかった。昨夜は遅くまで付き合わせた」
陸が、一瞬きょとんとした顔をした。
「別に。気にしてねーし」
楓は、パジャマのまま靴下を片方だけ履きながら、ぱっと顔を上げた。
「凛お姉ちゃんの面接だもん! 楓は全然眠くなかったよ!」
明らかに眠そうな目で、それでも満面の笑みでそう言い切る妹を見て、私はしばらく言葉を探した。
「……今度、りんご飴を買ってやる」
「やったー!」
楓が、眠気などどこへやら、ぱっと顔を輝かせた。
「俺も?」と陸が横から口を挟む。
「……お前も、だ」
「べ、別に欲しいわけじゃないけど」
そう言いながら、陸の口元が少し緩んでいた。
そんなことを考えながら、私たちは慌ただしく身支度を整え、いつもより緊迫した空気の中、家を出た。
ホームルームで、担任が淡々と切り出した。
「さて、新学期最初のホームルームだけど、まずは恒例の学級委員決めからね」
教室が、一瞬しんと静まり返る。誰もが、互いの顔色を窺うような空気だった。
「誰かやりたい人――」
「私がやろう」
担任が言い切る前に、私は手を挙げていた。
「お、朝霧さん。立候補?」
「文化祭の後、先生に勧められていたのでやってみようと決めていた」
「うん、そうだね。立候補してもらって嬉しいよ」
担任が苦笑しながら、黒板に私の名を書き記す。
「他に立候補は……いないか。じゃあ、朝霧さんに決定で」
ぱらぱらと拍手が起きた。
「朝霧さんなら安心だわ」
「文化祭の時、すごかったもんね」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
(……やはりな。これで、クラスという領地の、正当な統治権を認められたようだな)
勝手な勘違いと共に、私は学級委員という称号を手にし、クラスの征服という目的を、ひとまず完遂したのだった。
「よろしくね、朝霧委員長」
胡桃が、隣の席からにやにやと笑いかけてくる。
「委員長、ではない。学級委員だ」
「同じようなもんでしょ」
そう言って笑う胡桃に、私は小さく息をついた。
放課後、教室に残っていた胡桃に、面接練習の相手を頼んだ。
「いいよ、やったげる。じゃあ、まずは自己紹介から」
「うむ」
居住まいを正し、私は口を開いた。
「我が名は朝霧凛。元は――」
「待って、それ言っちゃダメなやつ」
(……またか)
「家でも同じことを言われた」
「だろうね。元・獣王とか世界征服とか、面接で言ったら普通に落ちるから」
胡桃が、呆れたように肩をすくめる。
「志望理由は?」
「……この高校に、然るべき群れがいるからだ」
「それも変換しよう。『仲のいい友人と同じ高校に通いたいから』、くらいでいいよ」
「……この高校に、然るべき仲間がいるからだ」
「うん、内容はそれでいいんだけど、語尾。『だ』じゃなくて『です』」
「……然るべき仲間が、いるからだ、です」
「だです、じゃなくて」
「……いるから、ですだ」
「それも違う」
何度直しても、語尾だけがどうしても元に戻ってしまう。
慣れない言葉遣いに、何度も舌が縺れた。数百年、命令と断定の言葉だけで生きてきた口には、まるで馴染まない響きだった。
「……いるです、からだ」
「今の何?」
「……自分でも、よくわからない」
何十回と繰り返しても、一向に改善の兆しが見えなかった。
胡桃は呆れたように額を押さえ、それでもどこか真剣な顔でこちらを見ていた。
胡桃はこういう時、妙に粘り強い。
私がどれだけ奇妙な言動をしようと、最後まで付き合ってくれる。
それが、少しだけ、ありがたかった。
まあ、無理もないか、と胡桃は呟いた。
「獣王には、ちょっと難しいよね、この言葉。いや、だって敬語だよ? 格上の相手にへりくだって喋る言葉。人間にとってはただの作法だけど、これまでへりくだる必要がなかった獣王には、ちょっとハードル高いのかなって」
「……何だと?」
挑発的な物言いに、私はぴたりと動きを止めた。
(……格下に、これしきの作法もこなせぬと侮られている、ということか)
許せる話ではなかった。
「いるから......いるから、です」
次の瞬間、これまでで最も滑らかな「です」が、すんなりと口から出ていた。
「お、できるじゃん」
胡桃が、満足げにニヤリと笑う。
(……してやられた)
単純な挑発だと、頭の片隅ではわかっていた。
それでも、一度乗ってしまった以上、もう後には引けなかった。
そんな調子で、何度も同じやり取りを繰り返すうちに、いつしか窓の外は茜色に染まっていた。
「凛、筋はいいと思うよ。あとは、変な単語さえ出さなければ大丈夫」
「肝に銘じる」
胡桃の太鼓判に、私は静かに頷いた。
面接前夜、
夕食の席で家族がそれぞれに声をかけてくれた。
「緊張したら、ゆっくり話せばいいからね」
母が、そう言いながら私の皿に唐揚げを一つ多く乗せる。
「変なこと言いそうになったら、一回深呼吸しろよ」
陸が、らしくもなく真面目な顔でそう助言してきた。
「お姉ちゃんなら、絶対できるよ!」
楓だけは、何の根拠もなく無邪気にそう言い切った。
(……根拠のない確信、というものは、悪くないものだな)
不思議と、肩の力が抜けていくのを感じた。
前世であれば、戦の前にこのような声をかけられたことなど、一度もなかった。
面接当日、
控室で順番を待つ間、私は静かに闘志を燃やしていた。
(……これより、謁見が始まる)
呼ばれて部屋に入ると、机の向こうに二人の面接官が座っていた。
「では、自己紹介をお願いします」
「朝霧凛です。中学三年。文化祭ではクラスを、体育館では校外の有志を、束ねた経験があります」
辿々しくはあったが、練習通り「です、ます」で締めることができた。
面接官たちが、わずかに顔を見合わせる。
「……なるほど。では、本校を志望する理由は?」
胡桃と家族との特訓の成果を、ここで発揮する時だった。
「気心の知れた仲間が、共にこの学び舎を志しているから、です」
「ほう」
「それに、」
ここで、つい本音が漏れた。
「戦わずして道を切り拓く、というこの制度の在り方に、興味を惹かれました」
面接官の片方が、小さく笑った。
「面白い言い方をしますね。では、中学校生活で頑張ったことは?」
「文化祭では、意見の異なる者たちを束ね……いえ、まとめ、同じ方向へ進める経験をしました。体育館でも、対立していた集団の間に入り、双方の言い分を踏まえた上で、場を……治めたことがあります」
すんでのところで、際どい単語をいくつか飲み込んだ。額に、じわりと汗が滲む。
面接官たちは、特に気にした様子もなく、相槌を打ちながらメモを取っていた。
(……今のは、危なかった)
内心で、静かに胸を撫で下ろす。
「では、あなたにとって、リーダーに必要なことは何だと思いますか?」
少し、間があった。
「……群れの、誰一人として、置き去りにしないことだと思います」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
かつての獣王であった頃の私なら、決して選ばなかった答えだった。
一匹で立ち、誰にも従わず、誰も従えなかった。それが私の在り方だったはずだ。
それなのに。
面接官が、小さく頷いた。
「では最後に、将来の夢は?」
(……ここだけは、偽るわけにはいかない)
私はまっすぐに面接官を見据え、意を決して口を開いた。
「将来の夢は、世界せ……いえ、私の手で、世界に安定をもたらしたいのです。そして、大切に思っているもの(紫りんご)が、二度と失われることがないようにしたいと考えています」
「その第一歩として、この学校で、自分の定めた目標(征服)を、一つずつ達成していきたいと思います」
部屋に、しばし沈黙が落ちた。
「……それは、なかなか壮大な目標ですね」
面接官は、一瞬だけ何かを堪えるように口元を押さえ、それから静かにペンを走らせた。
(……?)
予想に反した反応に、私は内心首を傾げた。
面接を終え、控室を出る。
「お疲れ様でした、どうだった?」
廊下で待っていた母が、優しく声をかけてくる。
「……手応えは、あったような、なかったような」
「そう。結果は来月だっけ?」
「ああ」
正直な感想だった。
前世であれば、勝敗は一合を交えた瞬間にわかったものだ。
だが、言葉だけで決着するこの戦いは、終わった後ですら、勝敗の行方が見えない。
面接という勝負の結果を、相手の判断に委ねるしかないこの形式は、獣王であった頃にすら覚えのない、煮え切らない感情を私に抱かせた。
(……これも、新しい戦い方というものか)
慣れない感覚を抱えたまま、私は冬の空を見上げた。




