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中学編・第11話「初詣という名の、神域平定」

十二月三十一日。

大晦日の夜、家族はこたつを囲み、テレビの前で長い夜を過ごしていた。


「凛、年越し蕎麦まだ食べてるの?」


母に促され、細長い麺を箸で挟もうとするが、何度も滑り落ちる。

前世では麺などという概念に縁がなかった上、箸という得物にもまだ慣れていなかった。


「無理しなくていいから、フォークにする?」


「……そうする」


差し出されたフォークで麺を絡め取ると、ようやく滑らかに口へ運べた。


箸が苦手なことも、いまだに「事故の後だから仕方ない」の一言で片付けられている。

否定する気にもならなかった。


零時が近づいても、家の中はやけに明るいままだった。


(前世では、日が落ちればすぐに眠ったものだったが)


獣王だった頃は、日が昇れば起き、日が沈めば眠る。

それだけのことだった。


夜更かしという概念自体が薄かった。


だが、この体に明かりという文明の利器が与えられてからというもの、夜更かしにもすっかり慣れてしまっていた。


それ自体は構わない。


ただ、こうして真夜中まで起き続け、わざわざ蕎麦を啜るという行為の意味が、今ひとつ呑み込めずにいた。


(……寝てしまえば、腹も減らぬだろうに)


そんなことを考えながらも、私は黙って蕎麦を口に運び続けた。


零時が近づくと、テレビから低く鈍い音が響き始めた。


「除夜の鐘だよ。百八つ鳴らして、人間の百八つの煩悩を祓うんだって」


楓が説明してくれる。


(百八つの煩悩?。人間にはそんなに多くの煩悩があるのか?)


詳しい意味はわからなかったが、何百年と生きて時間の感覚が鈍くなていた身には、こうして年が一つ巡る瞬間に立ち会うこと自体が、新鮮な感覚だった。



元日、

家族揃って近所の小さな神社に出かけた。


参道には、押し合うほどの人波ができていた。


「初詣だよ。昨年一年間のお礼と、これからの一年の無事を祈るの」


母の説明に頷きながらも、私の意識は、早くも別のところに向いていた。


(……これだけの群れが、一つの社に殺到しているのか)


何を祀っているのかは知らないが――世界征服を志す身としては、ゆくゆくはこの社一帯も征服し、我が領土としておく必要がありそうだ。


そんなことを考えていた矢先、幼い子どもの泣き声が聞こえた。


人混みの中、迷子になったらしい小さな男の子が、べそをかきながら立ち尽くしている。


(……はぐれた群れの子、か)


将来この社の主となる身としては、放っておくわけにもいかなかった。

すぐ傍に屈み込む。


「お前の親はどこだ」


「わかんない……」


「泣くな。私が見つけてやる」


男の子の手を引き、人混みを見渡す。


背の低い子どもの視点では、到底親を探せまい。


だが、この程度の人混みの中から、それらしき人物を嗅ぎ分けるくらい、造作もないことだった。


(そういえば......)


鼻と耳の鋭さだけは、なぜか今世にも僅かに引き継がれていた。

前世ほどの精度ではないだろうが、これくらいの人混みでなら、十分に役立つ。


ほどなくして、必死の形相で辺りを捜し回る女性を見つけ出した。


「あれだろう」


指差すと、男の子がぱっと顔を輝かせ、駆け出していった。


「ありがとうございます……! 本当に、助かりました」


女性が、何度も頭を下げてくる。


(……また、これか)


迷い子の保護程度、造作もないことだったはずだ。


それなのに、なぜこうも丁寧に礼を言われるのか。


慣れない感覚を持て余しながら、私は家族のもとへ戻った。


それから、家族とともに本殿へと進み、列に並んだ。


(……そういえば)


獣王だった頃は、神という存在にも興味がなかった。


祈るという行為もしたことがない。


する必要が、そもそもなかったからだ。


現世の神がどのような存在かは知らない。


だが、これだけの群れを集める以上、それなりの力の持ち主には違いないだろう。


敬意を払う意味で、参拝することにした。


母に教えられた通り、賽銭を投げ入れ、二礼二拍手をしたのち、手を合わせる。


(……この領地は、私が貰い受ける。安心して立ち去るがいい。私に服従するというのなら、それもよし)


心の中でそう告げ、最後に一礼した。


「凛、何お願いしたの? 今度の面接のこと?」


参道を歩きながら、母が尋ねてきた。


「いや。神に何かを願ったわけではない」


「え?」


「この社一帯を、これより我が領土として譲り受ける、と申し伝えただけだ。安心して立ち去るがいい、とも言っておいた」


しん、と一瞬、家族の間に妙な沈黙が落ちた。


「……お母さんは、凛の高校合格をお願いしたわよ」


「それは重畳。だが、私の言葉の方も、いずれ意味を持つことになるだろう」


母が、何とも言えない顔で頷く。


父は、ただ黙って苦笑いを浮かべていた。


参拝を終えた後、社務所と呼ばれる小屋の前を通りかかった。


並べられているのは、小さな布の包みや、細長い紙片だった。


「お守りだよ。学業成就とか、交通安全とか、色々あるの」


楓が、楽しそうに一つを手に取って見せてくれる。


(……お守り、というのは)


手に取って眺めてみる。

布で包まれた小さな塊。紐がついており、身につけて持ち歩くものらしい。


(……これは、魔導具の類か)


前世にも、似たようなものはあった。


小さな護符や呪具に魔力を込め、身につけた者に加護を与える代物だ。


期待を込めて、お守りを軽く握ってみる。


(……何も、感じない)


ふと、勇者パーティーとの戦いの記憶が蘇る。


(……そういえば、あの魔法使いが使っていた、宝珠のようなものは)


敵を拘束する、あの淡く光る魔導具。


あれほどのものが、この社務所にも置いてあるのではないか。


「巫女殿。敵を拘束する光を放つ魔法具は、ここには置いていないのか」


「……はい?」


社務所の奥に座っていた巫女が、きょとんとした顔でこちらを見た。


「えっと……うちにあるのは、交通安全とか、縁結びとか、そのあたりのお守りだけですね……」


「拘束系統は、扱っていない、ということか」


「は、はい、申し訳ございません……」


困惑した様子の巫女に、私は静かに肩を落とした。


魔力の流れも、込められた術式の気配も、欠片ほども伝わってこなかった。


ただの布と紙の塊にしか思えない。


(……まさか、本当にただの布なのか? それとも――)


ふと、別の可能性が頭をよぎった。


(そもそも、この世界には魔法というものが、最初から存在しないのではないか)


これまで、幾度となく詠唱を試みてきた。


だが、ただの一度も、何も起こらなかった。


最初は、人間の体では詠唱法が違うだけかもしれないと思っていた。


だが、もう何ヶ月も経つ。それでも何一つ、兆候すら掴めていない。


(……この世界には、魔法そのものが、端から存在しないのかもしれない)


そう思い至った瞬間、なぜか妙な寂しさを覚えた。


「お姉ちゃん、合格祈願か、学業成就のお守り買う?」


楓の無邪気な声に、私は物思いから引き戻された。


「……ああ。それを、一つもらおう」


何の根拠もなく、勧められるままその布の塊を一つ手に取った。


魔力は感じずとも、悪い気はしなかった。


その矢先だった。


雑踏の中、誰かの悲鳴が上がった。


「きゃっ! 鞄、鞄が……!」


振り返ると、若い女性の鞄をひったくった男が、人波を縫うようにこちらへ向かって走ってくるのが見えた。


(……逃走経路、こちらか)


考えるより先に、体が動いていた。


(この社の主となった以上、領地の安定を保つのも、主たる責務)


獣王たるもの、体格でいかに不利であろうと、冷静に戦うのみだ。


魔王の森で、あの巨獣と相見えた時の記憶が、ふと蘇る。


相手の動きをよく観察し、次の一手を予測する。


バランスを崩させ、隙を作る。


そして繰り出す一撃を、必殺の一手とする。


男が真横を駆け抜けようとした瞬間、すっと足を踏み出し、その爪先に引っ掛ける。


「うわっ!?」


勢いのついていた男は、自らの足に絡まるようにして体勢を崩し、そのまま勢いよく地面に転がった。

奪われかけた鞄が、宙を舞って地面に落ちる。


「動くな。お前の罪は、もう見られている」


低く告げると、周囲の人々に取り囲まれたその男は、すっかり観念したように、その場にへたり込んだ。


ほどなくして、騒ぎを聞きつけた神社の関係者と、駆けつけた警察官が、男を取り押さえていった。


「ありがとうございました、お嬢さん。お見事でした」


警察官にまで礼を言われ、私はますます釈然としない気持ちになった。


(今日だけで、二度も同じことが起きた)


迷子を見つけ、ひったくりを取り押さえた。


どちらも、誰かを支配しようとしてやったことではなかった。


(妙だな......)


領地を広げたかったわけでも、服従を誓わせたかったわけでもない。


ただ、目の前で誰かが脅かされているのが、気に食わなかっただけだ。


害する者がいれば排し、怯える者がいれば、気づけば体が先に動いている。


それは、保健室で胡桃を庇った時と、同じ感覚だった。


(……これは、もはや征服ではないのかもしれない)


かつての自分が、誰よりも理解できなかった――勇者どもの振る舞いに、どこか似ている気がした。


気に食わない。だが、悪くもなかった。


そう思った直後に、


「今回は怪我もなく無事だったからよかったけど、危ないからもうこんな無茶したらダメだよ。」


と、警察官からしっかり釘を刺された。


色々な思いを胸中を抱えたまま、凛は家族の輪へと戻っていった。


それにしても、と思う。


今回の社の征服は、争うことなく、神との話し合いだけで決着がついた。


考えてみれば、これまでにない体験だった。


もっとも、その「征服」とやらが、傍から見ればただ普通に参拝しただけにしか見えていないことを、私はまだ知らない。


夜、自室の布団に潜り込みながら、今日一日を振り返る。


ふと、来たる一月のことが脳裏をよぎる。


(……次は、面接、というものが待っているらしいな)


新たな"儀式"への心構えを、また一つ固めながら、凛はゆっくりと眠りに落ちていった。

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