中学編・第1話「尻尾を失った日」
九月。
――「あとは、お願いね。」
幼い、けれど芯のある声が、やけにはっきりと耳に残っていた。
目を覚ますと、見知らぬ天井があった。
まず、おかしいと思ったのは天井そのものではなく、自分の体勢だった。
仰向けだった。
(……仰向け?)
これまでの人生――いや、獣生というべきか――で、仰向けのまま眠ったことなど、一度たりともなかった。
腹を晒すなど、無防備にも程がある。
獣にとって仰向けとは、降伏か、死を意味する姿勢だ。
奇妙な体勢のまま、私はしばらく目だけを動かした。
体の下には、妙に柔らかい感触があった。
地面でも、岩でも、土でもない。沈み込むほど柔らかい、何か。
(これは……寝床、なのか?)
しかも、体の上には別の柔らかい何かが覆い被さっていた。重さはほとんどないのに、ぴたりと体温を閉じ込めてくる、奇妙な布のようなもの。
毛布、というものらしいと、後になって知ることになる。
地面の上で、葉と土の匂いに包まれて眠ることしか知らなかった身には、これらすべてが理解の範疇を超えていた。
視界の隅では、何かが規則正しい音を立てている。
ピ、ピ、ピ、と。聞いたことのない音だった。
匂いも妙だった。土でも血でもない、もっと無機質な、刺すような匂い。
しばらくの間、私はぼんやりと視線を彷徨わせた。
白い天井。四角い部屋。聞き慣れない音。状況は、まるで飲み込めなかった。
――が、別に動揺はしていない。
獣王たる者、寝床ひとつでうろたえるはずがない。
そう自分に言い聞かせながらも、視線はあちこちを彷徨い続け、時間だけが無為に過ぎていった。
ふと、最後の記憶が蘇った。
(……そうだ。我は、人間どもに討たれたのだ。)
聖剣の輝き。連携の一撃。胸を貫いた熱。
ああ、思い出した。
あの四人組は、思いの外に強かった。
紫りんごを守ろうと押し切ったところを、土壇場で隙を突かれた。
(……それで、我は死んだはずだ)
死んだはずなのに、今、こうして目を開けている。
おかしい。
そういえば、意識が途切れる直前、聞き覚えのない声がした気がする。
――あとは、お願いね。
幼い声だった。今思えば、ずいぶんと心細げな響きだった気もする。
(……ああ、あれか)
森にいた頃にも、似たようなことが何度かあった。縄張り争いに疲れた小物の魔物が、我に仲裁を頼みに来て、最後にそう言い残して去っていく。「あとはお願いします」と。
きっと、それと同じ類のものだろう。誰かに何かを託された。よくあることだ。深く考える必要もない。
――そう、この時の私は、大真面目にそう結論づけていた。
それよりも、今は目の前の異変の方が重大だった。
体が、おかしいくらい小さい。
手のひらを顔の前にかざしてみる。
爪はない。鱗もない。ただの、骨ばった頼りない人間の手だった。
無意識に手で顔を触ってみる。
あの自慢の毛皮はどこにもない。
剥き出しの肌が、妙に心許なかった。
顔がのっぺりしていて、はなが低い。
耳を動かそうとしてみたが、耳は動かない。
もしやとは思ったが、牙もなかった。
頭を振ってみても、揺れたのは長い黒髪だけだった。
反射的に、腰の辺りへ手をやる。
何百年も当たり前のようにそこにあったはずの、尾の感触がない。
(……は?)
布団の中で身をよじり、何度も腰の周りを確かめたが、結果は変わらなかった。
(ない。本当に、ない……)
頭の中が、真っ白になった。
数百年、慈しんできた尾だった。
苔むした岩に擦り付け、清流に浸して梳いてきた、唯一誇りを持って手入れしてきた部分だった。
それが、跡形もない。
古竜にも、甲殻の巨獣にも、聖剣にすら、これほどの衝撃は受けなかった。勇者たちに討たれた事より、よほど堪えた。
(尾が、ない……尾が、ないだと……!?)
声にならない悲鳴が、喉の奥でくぐもった。
しばらくの間、私はただ呆然と、自分の腰の辺りを見つめながら、尾が生えていたはずの場所を、無意識のうちに何度もさすり続けた。
ひとしきり打ちのめされたあと、ようやく、ひとつの仮説に行き着いた。
(……もしや、これが、転生というものか)
遠い昔、人間たちの間で語られていたという伝承を、どこかで小耳に挟んだ覚えがある。
死した魂が、まったく別の生に生まれ変わる――おとぎ話の類だと思っていたが、まさか自分がその当事者になろうとは。
半信半疑のまま、ゆっくりと体を起こそうとした。
「あ……っ、目、覚めました……!」
廊下の向こうから、誰かの声がした。複数の足音が、慌ただしく近づいてくる。
病室に駆け込んできたのは、四体の人間だった。
年嵩のオスとメス、それより小さなオスとメス。
「凛! 凛、良かった……! ずっと、ずっと心配してたのよ……!」
年嵩のメスが、目に涙を浮かべながら抱きついてきた。
(……来るぞ)
最初は何らかの攻撃かと思い、咄嗟に薙ぎ払おうとした。だが、体に力が入らず、それも叶わなかった。
なすすべもなく、メスにしがみつかれるまま、ふと気づく。
(……言葉が、わかる)
聞こえてくる音の響き自体は、前世で使っていた言語とは明らかに違う。
それなのに、意味だけはすんなりと頭に流れ込んでくる。
便利な体だ、と素直に思った。
(凛、というのが、我の名前らしい)
状況はまだ半分も飲み込めていなかったが、ひとまずそう理解しておくことにした。
年嵩のオスは、メスの後ろで黙って立っていた。
声を荒げることもなく、ただ目元だけを赤くして、私の頭をひとつ、そっと撫でた。
「本当によかった。」
それだけだった。騒がしいメスとは対照的な、やけに静かな安堵の仕方だった。
(……人間の、しかも子供の体に転生した、ということか)
驚きはしたが、取り乱しはしなかった。何百年も森の中で生きてきた精神は、多少のことでは揺るがない。
「痛いところとか、ない?」
白い服を着たメス――おそらく白魔導士か、それに類する者だろう――が、こちらを覗き込みながら尋ねてきた。
「尻尾がなくなってしまった。」
至って真剣に、私はそう答えた。
「……。」
場が、静まり返った。
先ほどまで抱きついていたメスが、ひきつった笑みを浮かべる。白衣のメスも目を大きく開いたまま、表情が固まっていた。
(何かまずいことを言っただろうか。深刻な答えを返したつもりはなかったのだが。)
問題は、体を起こした瞬間に判明した。
ふらつく。力が入らない。さっきまで大樹を一撃で薙ぎ倒せる腕力を持っていたはずなのに、今は上体を起こすだけで腕が震えた。
(……人間たちとの戦いの傷が、まだ癒えていないせいか?)
一瞬、そう考えた。だが、すぐに違うと気づく。
痛みはどこにもない。
傷というより、そもそもこの体自体が、根本から非力にできているのだ。
(……この小さな体は、もとから、こういうものらしい)
どれほどの力が失われているのか、確かめておく必要があった。
目を閉じ自分の魔力の流れを探ってみた。が、何も感じない。
試しに、馴染み深い詠唱を口にしてみた。
森を揺らした初級の火炎魔法――何も起こらない。
もう一度。やはり何も起こらない。
(魔法が、使えない……だと?)
一瞬、血の気が引いた。だが、すぐに思い直す。
(……いや、待て。もしかしたら、獣魔と人間では詠唱の仕方が違うのか?それについては、おいおい解明していけばいいことだ。)
愕然としはしたものの、すぐに気持ちを切り替える。
元・獣王は、立ち直りも早い。
ふと、視線を感じて顔を上げる。
白衣のメスも、私にまとわりついてくる四体も、揃って奇妙なものを見るような目で私を見つめていた。
「姉ちゃん、何意味のわからない事言ってんの?」
小さなオスが、不思議そうに首を傾げながら言った。
そういえば、先ほどの詠唱は、誰に聞かれても構わないとばかりに、声に出して唱えていた。
(……まずいところを見られたか)
人間たちには、ただ意味不明な言葉を呟いているようにしか聞こえなかったはずだ。尾の件に続いて、また奇異な目で見られることになった。




