番外編③ 綾瀬と琴原の『鈴村悩殺大作戦』
大学一年の夏休みに失恋をしたことをきっかけに、高校一年の夏休みにタイムスリップしてしまった鈴村徹。
タイムスリップ後の時間軸で、鈴村はかつての思い人であり、タイムスリップ前に別れを告げられた綾瀬凛と再会し、その思いを本人に伝え、鈴村と綾瀬が両想いであったことが判明する。
だが、タイムスリップで過去改変が行われた結果、鈴村の人生は大きく変わっていた。
鈴村はタイムスリップ前まで一度しか関わりのなかった琴原みどりから告白を受てしまう。
鈴村の綾瀬と琴原を悲しませたくないという思いから、鈴村は納涼祭にて二人と付き合うことを決意する。
しかし、綾瀬と琴原はそれぞれ鈴村に対する独占欲が強いため、事あるごとにいざこざを起こしていた。
これを見かねた生徒会長、飯田勝翔は鈴村、綾瀬、琴原に対し、『フェアに関係を築く』ことを目的とした熱海旅行を提案した。
鈴村は悩み悩んだ末、綾瀬、琴原と共に綾瀬旅行へ行くことを決心する。
これは、そんな鈴村に好意を抱いた綾瀬凛、琴原みどりの、鈴村により一層意識してもらうよう努力をした姿を描いた物語である。
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綾瀬の『鈴村徹浮気疑惑会議』の翌日。
綾瀬は冷房の効いたデパートにて、琴原と待ち合わせをしていた。
「んー、思ったより早く着いちゃった。やっぱ冷房の効いた屋内っていいよねー。こんな暑い外で待つなんて私には無理だよ……」
そんなことを呟きながら、綾瀬は快晴でカンカン照りの屋外を見ていた。
道行く人々はそのほとんどが日傘を差しており、太陽が照らす地面からは高気温の空気が上昇し蜃気楼のようなものを作り上げていた。
綾瀬は少し伸びをして体のストレッチをし、琴原の到着を待った。
「あっ、凛ちゃーん! お待たせしましたー!」
そんなことをしていると、少し遠くからぴょんぴょんと小さく跳ねながら叫ぶ琴原の姿が見えた。
琴原は綾瀬を見つけられて安堵したのか、そのまま少し駆け足で綾瀬の元へ向かう。
「おはようございます、みどり先輩! 私服かわいいですね!」
綾瀬は、琴原の着る白いワンピースを褒めながら挨拶をした。
「ありがとうございます! 私、杏里ちゃん以外の友達と買い物とかあまり行かないので、今日とても楽しみでした! 胸が躍るくらいでしたよ!」
笑顔で言う琴原であったが、綾瀬はその言葉を聞いて自然に視線が琴原の胸に行っていた。
「……ははは、そうですね。私も楽しみでしたよ」
確かに物理的に胸が躍っていたのを見ていた綾瀬は、少し棒読みで琴原に言葉を返した。
琴原はそんな綾瀬の様子に違和感があったのか、少し首を傾げて言う。
「どうかしましたか? もしかして、具合悪いとかですか?」
「え!? あ、いや、なんでもないです! 大丈夫です! ちょっとだけ暑さに負けてただけです」
綾瀬は慌ててはぐらかした。
「そうですね……。この暑さですし、熱中症には気を付けないとです……。……はい! これ、凛ちゃんにあげます!」
「なんですか? これ」
「塩ラムネです! 塩分足りないとすぐ水分不足になって熱中症になりますからね。夏の必需品ですよ!」
そう言って、琴原は綾瀬に塩分摂取用の塩ラムネを手渡した。
(……私、何バカなことしてるんだろう)
綾瀬は自分の愚かさを呪った。
琴原は純粋に友達と買い物をするのが楽しみだったのである。
綾瀬はどこか琴原に嫉妬する気持ちを抱いていたが、琴原の純粋無垢なその行動を見て自分がバカらしく思えてきていた。
綾瀬は笑顔で琴原から塩ラムネを受け取った。
「ありがとうございます! 確かに熱中症には気を付けないとですね……。旅行の時も多めに持って行ったほうがいいですかね?」
「そのほうがいいと思います。いつどこで倒れてもおかしくないような暑さなので……」
琴原はそう言いながら、綾瀬の手を掴んだ。
「さ、行きましょうか! この旅行、絶対いいものにしましょうね!」
琴原は満面の笑みであった。
綾瀬は琴原の表情を見て微笑み、琴原について行く。
「はい、そうしましょう! まずは何から見ていきますか? やっぱり水着?」
綾瀬、琴原は歩きながら会話を始めた。
「まずは水着、ですかねぇ……。凛ちゃんはどういう水着を着たいですか?」
「私が着たい水着なんて決まってるじゃないですか」
綾瀬は少し間を空けて言った。
「ズバリ! 鈴村君を悩殺する攻めた水着がいいと思ってます!」
「え? のうさ……、……え?」
琴原は綾瀬の言葉が理解できなかった。
「えっと、誰か殺すんですか?」
「なんでこのタイミングで殺す話が出るんですか……」
綾瀬は呆れ顔で言った。
琴原は異性を好きになったことはあるが、その好意をしっかりと形にしようとしたことはない。
好意を抱くままで留めており、その先の関係に発展させようとは考えていなかった。
そのため、綾瀬の言う『悩殺』がどういう意味なのか理解していなかったのである。
言葉の意味を理解していないと察した綾瀬は、琴原に説明する。
「いいですか? ここで言う『悩殺』というのは、イメージ的には自分の魅力を全力でアピールして、もうその人のことしか考えられない! っていう状態にすることです」
「ポケ〇ンの『メロメロ』と同じですか?」
「……うん、まあ、それでいいと思います」
琴原のその例えは根本的な部分が違っていたが、結果としては同じのため綾瀬はそれを正解とした。
「つまりですね、鈴村君に私たちの水着姿を見せて、私たち以外考えられないっていう状況にすればいいんですよ」
「な、なるほど……。それが『悩殺』ですか……」
琴原は丁寧にメモを取りながら聞いていた。
その様子を見て綾瀬はさらに続ける。
「そしてですね、みどり先輩。鈴村君を悩殺する上で大事な要素があります」
「大事な要素?」
琴原は首を傾げる。
綾瀬は少し間を空けて言った。
「その要素は、その人を悩殺するに値できるボディが維持できるか、です!」
「……ボディを維持できるか……?」
琴原の頭の上には「?」マークが浮かんでいた。
「いくらその人を悩殺させようとしても、その人が意識をしてくれなかったら意味がありません。相手から見る自分の印象はまず外見から決まります」
「……なるほど、そこで自分の持ち合わせているボディの魅力を着る服や水着で引き出すことで、鈴村君を悩殺させることができる、ということですね!」
「そういうことです!」
綾瀬は笑顔で琴原に言うが、綾瀬は琴原の姿を上から下までしっかり見たうえで言った。
「……ま、みどり先輩は何着ても悩殺できそうですけどね……」
「え、なんでですか?」
綾瀬の視線はどこか上の空であった。
「あの、凛ちゃん? どこ見てるんですか? 上に何かあります?」
「……みどり先輩はいいですよね、おっぱい大きくて」
「おっ!? え、何ですか急に!?」
琴原は突然の綾瀬の言葉に驚いたが、綾瀬はジト目で琴原を見た後、琴原の持つ二つのボールを掴み、優しく揉みながら言う。
「いいなぁ……。私もこれくらいあれば服なんか困らずこれ見せて鈴村君悩殺できたのに……」
「あのっ! ちょ、急に何ですか!? 人前だからやめてって……、んっ、やめてください!」
琴原は変な反応を見せつつも、綾瀬の手を振り払って綾瀬から少し距離を取った。
綾瀬はそんな反応をされつつも、じわりじわりと琴原に近寄って言う。
「いいなぁ……、私もそれほしいなぁ……」
「あ、あの、凛ちゃん? 趣旨変わってきてません?」
「それがあれば……、私も鈴村君を一瞬で悩殺……」
綾瀬の目は獣のようであった。
「お、落ち着いてください凛ちゃん! 凛ちゃんもちゃんとしたの持ってるじゃないですか!」
「え、そうですか?」
琴原のその言葉に、一瞬で我に返る綾瀬であった。
琴原は自分の危機が去ったのを感知し、さらに綾瀬を刺激しないよう、言葉に気を付けながら続けた。
「そ、そうですよ! 凛ちゃんも誰にも負けず劣らずのものを持ってます! それでも十分戦えますよ!」
「…………それ、みどり先輩が持つそれを見ても同じこと言えますか?」
「うぐっ」
なるべく否定したい琴原であったが、自分の持つボールを否定するのはどこか引っかかるところがあり、即答することができなかった。
それでも、琴原は綾瀬を説得する。
「わ、私のは、まあいいとしてですね!」
「いやよくないんですよ」
間髪入れずに綾瀬は言う。
琴原はそれを無視して続けた。
「私のを除けば凛ちゃんのもそれなりに大きいです! 十分すぎるくらいです! 自信持ってください!」
「……なーんかみどり先輩に言われても説得力に欠けるんですよねぇ……」
綾瀬は複雑な気持ちであった。
「よし、決めました」
「ど、どうしたんですか?」
綾瀬はどこか決心した顔を琴原に見せて言った。
「みどり先輩、今度の旅行で水着着るの禁止で」
綾瀬は驚くべきことを口にした。
「え!? なんでですか!?」
「だーって、勝ち目ないんですもん」
「か、勝ち目って……」
琴原は自分の体が映る鏡を見て、改めて思った。
(……やっぱり私、他の人から見たら大きいほう、なんですね。凛ちゃんの言う通り、何を着ても鈴村君を意識させることができるんでしょうか……)
琴原は自分の体に自信を持っていなかった。
琴原はそういった知識はそれなりに持ち合わせていたが、それが自分も通用するかどうかはあまり気にしていなかった。
しかし、綾瀬に改めて言われたことにより、自分にはしっかりとした武器があることを自覚したのである。
ただ、琴原は綾瀬とは対等でいたいと考えていた。
確かに琴原にも独占欲はある。
しかし、今回提案された旅行は『フェアなアタック』が目的である。
琴原だけがリードしていい理由はなかった。
「凛ちゃん!」
「え、な、なんですか?」
琴原は綾瀬の両頬に手を当て、自分に視線を向けるようにして言った。
「た、確かに何もしなければ勝ち目はないかもしれないです! でも、努力次第でそれはなんとでもなります! 凛ちゃんの言う『悩殺』の方法なんて、いくらでもあると思いますよ!」
「み、みどり先輩?」
気迫ある琴原の言葉に、綾瀬は少し驚いた。
琴原は少し恥ずかしながらも綾瀬に言う。
「わ、私は今までそういうの意識したことしたことなかったので、私のその、む、胸を見て鈴村君がいいと思ってくれるかどうかはわからないです」
「いやだからわかるんですって。それ見て興奮しない男子いないですから」
綾瀬は冷ややかな視線を琴原に送った。
(ひいっ! だ、ダメです、何を言っても凛ちゃんに対して矢を放ってる感じがします……!)
琴原は怯えていた。
綾瀬はそう言いながらも、少し微笑んで琴原に言う。
「……でも、確かにみどり先輩の言う通り、努力次第でなんとでもなるのはわかる気がします。諦めが早かったかもしれませんね」
「り、凛ちゃん……!」
琴原は自分の言ったことを理解してもらうことができ、顔色が明るくなった。
「じゃ、じゃあ、私が水着着るのは……」
「うーん……。……まあ、いいでしょう。目的は『鈴村君を悩殺させること』です。いっそ、二人で悩殺させて、あーんなことやこーんなことしちゃいましょうよ」
綾瀬はニヤニヤしながら言った。
「あ、あーんなことや、こーんなこと……」
片や琴原の頭には、とても映像化することはできないピンクな妄想が次々と浮かび上がり、顔が真っ赤になっていた。
その様子を見て、綾瀬は笑い始める。
「な、なんで笑うんですか!」
その行動に琴原は思わず怒る。
「ははは! すみません、なんかみどり先輩見てるとかわいく思えてきちゃって」
「もー、からかってます?」
「からかってないですよ。でも、それほどの勢いでいかないとダメってことですよね」
「……まあ、それはそうですかね」
琴原はそれを否定しなかった。
あくまで目的は『フェアなアタック』。
しかし、その『アタック』がどこまでのことを言うのか、琴原は想像できていなかった。
どこまでが許されるのか、どこからがアウトなのか、そのボーダーラインがわからないでいた。
「と、いうわけで! 私はこれを着たいと思います」
「り、凛ちゃん……、それは……!」
綾瀬が手に持ったのは、布面積が比較的小さい黒ビキニであった。
「これを着れば、鈴村君を間違いなく悩殺できますよね……」
綾瀬は不敵な笑みを浮かべながら言った。
琴原は慌てて手に持つ水着を元に戻そうとする。
「だ、ダメです凛ちゃん! これは禁じ手です!」
「なんでですか! 私だってそれくらい頑張ってもいいじゃないですか!」
綾瀬は必死で抵抗した。
だが、琴原も琴原で綾瀬の意向に必死に抵抗する。
「これは言ってしまえば奥の手だと思います! 凛ちゃんにはもっと似合うものがあると思うんですよ!」
「に、似合うもの?」
「た、例えば、これとかどうですか?」
琴原はそう言って、ビキニまでとは言わないものの、肩まで布がある少しファッション寄りの水着を手に取った。
「これなら、凛ちゃんの活発なイメージにピッタリだと思います!」
「……ふむふむ、なるほど。こういったものもあるんですね……」
綾瀬は興味津々に琴原に提案された水着を見た。
「なるほどなるほど……。これはこれでありですね……。候補に入れておきます」
「ほっ……、よかった……」
琴原は胸を撫で下ろして安堵した。
「あ、こういうのもありますよ! 私服っぽくも見えますけど、中はちゃんとした水着仕様になってるみたいです」
「へぇー……、こういうのもあるんですね……。水着は奥深いなぁ……」
綾瀬はさらに興味津々であった。
そんな綾瀬の様子を見て、琴原は微笑む。
(……こんなやり取りをするだけでも、私は楽しいと思えるんですね)
それは琴原の本音であった。
同じ生徒会のメンバーであり、友達であり、恋のライバルである綾瀬。
そんな綾瀬と買い物を楽しむこの時間を、琴原はかけがえのないものだと考えていた。
好きになった人は同じであれ、その人にしっかりと振り向いてもらうように相談し合いながら作戦を立てる。
普通であればトラブルになりかねないような状況であるが、綾瀬は琴原の気持ちをしっかり理解し、鈴村の選択も理解して今この場にいる。
綾瀬のその気持ちに、琴原はただただ感謝していた。
(ありがとうございます、鈴村君。鈴村君のおかげで、いい旅行ができそうです)
琴原は微笑んでいた。
「どうしたんですか? みどり先輩。そんなニヤニヤしちゃって。……もしかして、鈴村君とエッチなこと想像してました?」
「な、なんでそうなるんですか! してないですよ!」
琴原は恥ずかしそうにしながら怒った。
「それで、みどり先輩は水着決めました?」
「え、えっと、それなんですけど、まだちゃんと決めてなくて……」
琴原はもじもじしながら言う。
「みどり先輩なら何着ても似合いますって。ほら、何ならさっき私が見せたあのビキニでも……」
「わ、私にはあんなの着れません! 零れそうじゃないですか!」
琴原のその言葉は、綾瀬の心を酷く傷つけた。
綾瀬は顔をひくつかせながら言う。
「そ、そうですねー。みどり先輩が着たら確実に零れますね、そのメロン」
「め、メロンって言わないでください! 冗談ですよ! 私はビキニなんて着ません!」
琴原はしっかりと否定をした。
「私は攻め過ぎず、自然な水着にします。ビキニを着れるほど自信ないですし……、そのほうがいいです」
そう言って、琴原はレースがつき、スカートスタイルの露出が比較的少なめな水着を手に取った。
「そうですか……。まあ、みどり先輩が決めたならそれでいいと思います」
「内容はどうであれ、問題は鈴村君がこれを見てどう思うかです! 『悩殺』できるかどうかは水着だけに留まらないと思います」
「まあ、確かにそれはそうですね。……じゃあ、水着はそれで決定ですかね?」
「はい、私はこれにします。凛ちゃんもそれで決定ですか?」
「私はこれでいいです。少しでも鈴村君に意識させるために頑張りますから!」
綾瀬はそう言って最初に琴原に勧められたファッション寄りの水着を手に取った。
「じゃあ次は着ていく服ですね! 凛ちゃん、あの店に行きましょう!」
「あ、ちょっと待ってください! 私まだ会計が!」
琴原は綾瀬を急かすように、次の店へと走って行った。
「……全く、あれだけ楽しそうにしてるみどり先輩見てると、旅行当日が思いやられますなぁ」
綾瀬は琴原を心配するような顔を見せ、水着売り場を後にした。
*
「ふぅー……。疲れたぁー」
一通り買い物を終えた綾瀬と琴原は、喫茶店で休憩をしていた。
「随分買いましたね……。一泊二日なのにこんなに必要でしたか?」
琴原は綾瀬の隣の席にドサッと積み上げられた購入品を見て言った。
「買い物が思ったより楽しくて……。もちろんこれ全部持って行くつもりはないですよ? この夏で着るだろうなぁーと思ったものを一気に買いました!」
「それでもこの量って、凛ちゃんどれだけお出かけするつもりなんですか……」
笑顔で言う綾瀬だったが、琴原はその行動力に少し引いていた。
綾瀬は「ちっちっち」と指を振って言う。
「甘いですねみどり先輩。高校生活っていうのはあっという間なんですよ。この青春という代名詞と言っても過言ではない高校生活で、何も行動しないっていうのは自分の人生を無駄にしてるようなものです!」
「それはあまりにも過言では……」
「過言ではありません!」
綾瀬は琴原に圧をかけるように言った。
「人生は一度きりです! 後悔はなるべくしたくないんですよ!」
「まあ、気持ちはわかりますが……」
琴原は少し怯えていた。
しかし、綾瀬はそれを気にすることなく続ける。
「やっと鈴村君と付き合えるようになったんです。これを無駄にするつもりは微塵もありません。ちゃんと勉強も頑張って、恋愛もして、自分に後悔のない高校生活を送りたいんですよ」
「そうですね、それは私も同じ気持ちです」
「だから、今度の熱海旅行も楽しみですし、失敗に終わらせたくありません。何があっても、私は笑顔で帰ってくるつもりです」
「凛ちゃん……」
綾瀬の顔はとても真面目であった。
長らく片思いだった綾瀬だが、納涼祭でようやく鈴村と両想いになれた。
この人生の転機は綾瀬の中ではとても大きいものであり、絶対に手放したくないものであった。
琴原という『恋のライバル』も同時に出現してしまったが、綾瀬はこれに関して特に嫌な気持ちは抱いていなかった。
むしろ、鈴村の「好きな人を悲しませたくない」、「苦しませたくない」という考えに、綾瀬は優しさを感じていた。
「だから、みどり先輩。熱海旅行、目いっぱい楽しみましょうね!」
「…………はい!」
純真無垢な琴原の表情は笑顔だった。
綾瀬も笑顔であったが、その心は相違していた。
鈴村の優しさは、捉え方によっては『慈悲』を与えているようなものである。
綾瀬はその鈴村の優しさという『慈悲』がどちらに対するものなのか悩んでいた。
(……これが、私に対する慈悲じゃないといいんだけどな)
綾瀬は黄昏るような表情で店の外を見ていた。
「……凛ちゃん? どうしたんですか?」
「え? あ、いや、なんでもないですよ!」
琴原に心配の声をかけられたが、綾瀬は何もないフリをした。
「さ、旅行に必要なものはあらかた買いましたし、これからどうしますか?」
「うーん、そうですねぇ……。用事は済みましたし……」
少し考えた琴原は、綾瀬に提案をする。
「じゃあ、ここからは本格的に鈴村君を『悩殺』させる作戦を立てましょう」
「いいですねぇ、それ。やりましょう!」
綾瀬はニヤニヤしながら答えた。
それから約三時間ほど。
綾瀬と琴原はどうすれば効率的に、且つフェアに鈴村を悩殺できるかの議論をした。
気づけば外も暗くなっており、夕飯時も近い時間になっていた。
「話しましたねー。もうこんな時間ですし、さすがにここまでにしておきましょうか」
綾瀬が言う。
「そうですね。これくらい話せば、鈴村君を悩殺できますね!」
琴原は手をグーにし、意気込みながら言った。
「じゃあ帰りましょう! あとは熱海旅行当日を待つだけです!」
「ですね! それじゃ、今日はありがとうございました!」
そう言って、綾瀬と琴原は喫茶店を出て、それぞれの自宅へと向かった。
…………が、二人は別れて早々、重要なことを話していないことに気が付いた。
『……あっ。旅行で着る私服の話、してないじゃん(してませんね)』
男子生徒が普段目にすることがほとんどない、女子生徒の私服。
それは鈴村を悩殺させる要因の一つになり得るものであり、鈴村の未来を左右するかもしれない要素の一つであった。
二人は焦ったが、飯田の言う『フェアなアタック』を弁えているだろうと考え、お互いを信じて二人はその場を後にした。
「まあ、みどり先輩のことだし、抜け駆けするようなことは……しないよね……?」
「凛ちゃんのことですから、抜け駆けするなんてことは考えられないと思います……。ここは凛ちゃんを信じましょう……!」
お互いの気持ちがこのタイミングですれ違う中、熱海旅行は決行されるのであった。




