第55話 聖夜
十二月二十四日、クリスマスイブ。
鈴村徹は恋人である綾瀬凛と共に、綾瀬の誕生日を祝すのも兼ねて水族館でデートをした。
タイムスリップ前、鈴村は綾瀬とのデートで悲惨な結果を迎えた。
しかし、タイムスリップ後、初となる綾瀬との二人きりのデートは大成功に終わった。
そしてその帰り道、綾瀬に「家に泊まらないか」と提案され、突如として鈴村は聖夜に彼女の家にお泊りすることになったのであった。
実家に両親や身内が不在となった彼女の家に、ましてや誕生日で、クリスマスイブであるこの日にお呼ばれされた鈴村は、心臓の高鳴りが治まりきらなかった。
綾瀬の家に入ったはいいが、玄関で立ち尽くし、鈴村は動くことができなかった。
(大丈夫、大丈夫だ……、こうなるかもと少しは期待してたからこれは予想の範囲内……、予想の範囲内……)
鈴村は左胸をぎゅっと握りしめながら、綾瀬の誕生日に家に泊まることができる嬉しさと、理性を保ったまま翌日を迎えられるかの不安と戦っていた。
鈴村も男の子である。
タイムスリップする前から好きだった相手と、ついに正式に交際することができ、初デートは大成功。
そのうえ、当日に彼女の家にお泊りすることができているのである。
鈴村にとってはこれは成長以上の何物でもなく、自分の努力が報われた瞬間であった。
しかしながら、鈴村はその次のステップのことをあまり考えていなかった。
純粋に興味はあったが、この日は綾瀬を楽しませようと心に決めていたからである。
少しは期待していたものの、いざそれが現実になると、鈴村は不安でいっぱいになっていた。
「鈴村君、まだ入らないの? 夕飯作っちゃうよ?」
先にリビングに入っていた綾瀬がひょこっと顔を出し、玄関に突っ立ったままの鈴村に声をかけた。
「……え、夕飯?」
「そうだよ。水族館から出てきてから今まで何も食べてないじゃん? 泊まることも決まったし、今日はうちでご飯食べてよ!」
綾瀬は笑顔で鈴村に言った。
鈴村は水族館デートが終わった後、どこかのレストランに寄って夕食を綾瀬と共にし、そのまま帰宅しようと考えていた。
そこに突然のお泊りの誘いが入ったため、夕食のことが頭から離れていたのである。
鈴村は慌てながら答えた。
「あ、うん、夕飯ね! ぜひいただくよ。綾瀬が作ってくれるの?」
「そうだよー。実はねー、今日はとっておきのを用意してあるんだー」
綾瀬はルンルンしながらそう言った。
「とりあえずそこにずっと立ってないで、こっちに早く来なよ」
「あ、うん。お邪魔します」
綾瀬に言われ、鈴村はようやく玄関から動き出した。
靴を脱ぎ、脱いだ靴を玄関に揃えて置き、ギクシャクしながらリビングへ入った。
パンッ
「…………えっ?」
リビングに入ったと同時に、クラッカーの破裂する音が聞こえた。
その直後、綾瀬の声が聞こえる。
「ハッピーメリークリスマース!!!」
「……へ?」
鈴村は突然の出来事にぽかんと口を開けた。
その様子を見て、綾瀬は不満そうな顔をする。
「もー、今日はクリスマスイブだよ?」
「あ、ああ、それはわかってるんだけど……、なにこれ?」
鈴村は状況を呑み込めていなかった。
綾瀬はその様子に余計に不満そうな顔をした。しかし、「ふふっ、鈴村君らしいな」、と少し微笑みながら説明した。
「今日うちに来てもらったのは、鈴村君とクリスマスパーティーをするためでした! 私なりのサプライズ! どう? びっくりした?」
「う、うん、めちゃくちゃびっくりした」
鈴村は今感じているそのままの気持ちを綾瀬に伝えた。
「ふふーん、大成功!」
綾瀬はそう言いながら、鈴村に向かってブイサインをした。
「でもなんでクリスマスパーティーを? この前、桜庭生徒会長たちとやったばっかじゃんか」
「それは皆でやったクリスマスパーティーでしょ? 私は鈴村君とクリスマスパーティーがしたかったの! ……わかるでしょ?」
綾瀬は少し照れながら言う。
鈴村は綾瀬にここまで言われて、ようやく綾瀬の家に招かれた理由を理解した。
綾瀬は鈴村と二人きりで、クリスマスイブを最後まで過ごしたかったのだ。
この日は綾瀬にとって大切な日である。
そんな日を、好きな人とずっと過ごしたいと思う気持ちは、改めて考えてみれば普通のことであった。
(……俺はそんな簡単なことにも気づかず、邪な気持ちで来ちまったのか……)
鈴村が自分を恥ずかしく思った。
「ありがとな、綾瀬」
「なんで鈴村君がお礼言うの?」
「……俺は今日、綾瀬に一日楽しんでもらうためにいろいろと準備してきたんだ。……綾瀬も同じ気持ちだったんだな」
「当たり前でしょ。私は鈴村君の彼女だよ? 私だって鈴村君に喜んでもらいたいよ」
綾瀬は鈴村の頭を撫でながら言った。
「…………タイムスリップする前のリベンジ、果たせた?」
綾瀬は、鈴村に微笑みながら言う。
「……ああ、リベンジどころか、あの時の自分をオーバーキルした気分だ」
「何それ、変なの」
綾瀬と鈴村はそんなやり取りが面白くなり、二人で笑っていた。
綾瀬は一しきり笑い終えると、気を取り直して鈴村を椅子へ座らせる。
そして綾瀬は、鍋敷きの上にキッチンから持ってきた大きめの鍋を置いた。
「この匂い、もしかして……」
「そう! 今回はビーフストロガノフに挑戦してみました!」
そう言って、綾瀬は鍋の蓋を開けた。
「…………おぉ、すげえ」
鈴村はその完成度に思わず声が出ていた。
「すごいでしょ。ビーフストロガノフ作るの結構大変なんだよ」
「ああ、それは知ってる。前にエビチリを振る舞ってくれた時も思ったけど、綾瀬って料理できるんだよな。すごい特技だわ」
「特技かぁ。綾瀬家は皆料理できるよ?」
「え、そうなの? 綾瀬のお父さんもできんの?」
「うん、できるよ。あんなだけど」
「…………見かけによらずすげえな、あの人」
緑ヶ丘学園理事長であり、綾瀬の実の父である綾瀬忠一も、実は料理が得意だということを知り驚きを隠せない鈴村であった。
「……そういえば、綾瀬のお兄さん、信彦さんも料理がうまかったな」
「そうなんだよ。お兄ちゃんは私よりも数段料理が上手かなぁー。ま、一番は私だけどね!」
綾瀬はどや顔で言った。
「ささ、どうぞ、私が腕によりをかけて作りました、ビーフストロガノフを存分にご堪能ください」
そう言って、綾瀬は皿にビーフストロガノフをよそい、鈴村の前に置いた。
「……いただきます」
鈴村は恐る恐るビーフストロガノフを口に運ぶ。
「…………うんま! なんだこれ初めて食ったわ!」
「え、鈴村君ビーフストロガノフ食べるの初めてなの?」
「そういう意味じゃなくて! こんなうまいビーフストロガノフ食ったの初めてだわ! すごいな綾瀬! これ店に出せるレベルだぞ!」
「えへへー、褒めたって何も出ませんよー」
綾瀬は照れながら席に座る。
「さて、私も食べますか。いただきまーす」
そう言って、綾瀬も自分が作ったビーフストロガノフを食した。
「……うーん、練習した時より少し味が薄いかな」
「え、そうなの?」
「こんな難しいの一回で作れるわけないでしょ……。鈴村君に喜んでもらうためにめちゃくちゃ練習したんだからね」
綾瀬は自分の辛く苦しい練習の日々を思い出しながら言った。
「……ありがとう、綾瀬」
「どうしたの? お礼ならさっきも聞いたよ」
「そうじゃなくてさ。なんかこう、綾瀬にはもっとたくさんお礼を言いたい気分になったんだよ」
「何それ。……鈴村君、うちに来てからなんかテンション変じゃない?」
「そうか? いつも通りだと思うけど」
鈴村は誤魔化しながら言った。
鈴村は心の底から綾瀬に感謝をしていた。
タイムスリップ前にしっかり届くことのなかった綾瀬への恋心。
それがちゃんと本人に伝わり、しっかりと関係を築くことができ、今こうして自分と誕生日を、クリスマスイブを共に過ごしてくれている綾瀬に、とても感謝をしていた。
これは鈴村がタイムスリップしたことによる努力の結晶かもしれない。
努力は必ず報われるというが、報われない努力も少なくはない。
しかし鈴村は、その努力をしっかりとこなし、自分の望んだ未来を手にすることができた。
鈴村の『過去』を変えることにより、見事にこの瞬間、鈴村の『未来』は変わったのだった。
「……タイムスリップってすげえわ」
「何か言った?」
「何でもないよ。あ、そのサラダもらっていいか?」
「どうぞどうぞ。このシーザーサラダも私が作りました」
鈴村は「うん、これもうまい!」と微笑みながら夕飯を楽しんだ。
綾瀬はその顔を見て、ぽつりと呟く。
「……鈴村君はさ、私とこれからも、こういう生活を続けたいって思う?」
綾瀬の顔は真剣だった。
鈴村は少し顔を逸らして答える。
「な、なんだよ、急に」
「さっき水族館で話してたことの続きだよ」
「続き?」
鈴村は未だ綾瀬の顔を見ることができないまま聞く。
「鈴村君は私の傍から離れないって言ってくれたよね? ってことは、そういう覚悟があるのかなぁーって思っただけだよ」
「…………それってつまり……」
鈴村は間を開け、綾瀬の目を見て言う。
「俺が綾瀬と、結婚する気があるか、ってことか?」
鈴村のその言葉に改めて現実味を感じたのか、綾瀬は鈴村から視線を逸らし、小さく頷いた。
「…………結婚、か」
綾瀬は、鈴村の綾瀬を思う気持ちが、ただ『綾瀬と付き合う』だけで留まるものではないことはわかっていた。
しかし、その先にある『結婚』のことまで考えているのかが気になっていた。
鈴村はタイムスリップしてまでも綾瀬と接点を持ち、なるべく関係を絶たないようにさせ、自分の思いを綾瀬に伝える努力をしてきた。
鈴村は晴れて綾瀬と付き合うことができた今、『次の一歩』を踏み出す時が来たのである。
その『次の一歩』とは人それぞれであり、タイミングも異なる。
しかし綾瀬は、その『次の一歩の中の一つ』のことをとても気にしていた。
鈴村は綾瀬の恥ずかしそうな顔を見て、面白くなり笑い始めてしまった。
「ちょ、なんで急に笑うのさ! 失礼じゃない!?」
綾瀬はその行動に少し怒る。
「ごめん、悪気はないんだ。でもちょっと、綾瀬が少しかわいく見えてさ」
「……少し?」
「真に受けるなよ……。ムードが台無しになる」
鈴村は少し呆れ顔で言った。
綾瀬は膨れ顔になるが、その顔を見つめて鈴村は言う。
「俺はこれからずっと、綾瀬と将来を共にするつもりだよ。どんなに辛い未来が来ても綾瀬を守るし、綾瀬をもっと楽しませたい。喜ばせたい。そんな未来を俺は望んでる。俺のこの未来に、一緒についてきてくれるか?」
鈴村は無意識のうちに綾瀬の手を両手で握っていた。
顔を真っ赤にし、今にも恥ずかしさで暴れ狂いそうな気持ちを抑えながら、鈴村は真剣な顔で綾瀬に言った。
綾瀬は、そんな鈴村を見て、にっこりと微笑んで答えた。
「もちろん、私は昔も今も、これからも、ずーっと鈴村君の傍にいるよ。何があっても、私は鈴村君から離れたりしない。一緒に明るい未来を創っていこう」
鈴村と綾瀬はそのまま、顔をゆっくりと近づける。
今にも、唇が触れ合いそうになる、その時だった。
ガチャンッ。
『…………え?』
部屋は真っ暗になった。
鈴村と綾瀬は焦り、お互いに手を握りながら辺りを見渡す。
しかし、窓の外を見てみても、隣の家の電気はついたままだった。
「…………もしかして、ブレーカー落ちた?」
鈴村はぽつりと呟く。
「…………あっ! 暖房のせいだ!」
「……あー、なるほど。今日めちゃくちゃ寒かったもんな。暖房強くしすぎたのか」
「あちゃー……、こりゃ完全にやらかしましたなぁ」
綾瀬は頭を掻きながら眉間に皺を寄せていた。
「私ブレーカー上げてくるよ! ちょっと待ってて!」
「うん、頼んだ」
「あ、その前に……」
「え、何?」
綾瀬はこの暗さを利用した。
静かにそっと、鈴村の頬にキスをした。
「……お前、一日に何回キスすれば気が済むんだよ」
「それくらい気分が乗ってるってことだよ♪ さて、スマホの明かりを頼りに……」
そう言って、綾瀬はブレーカーを上げにスマホの明かりを使ってリビングを出た。
「……どう? ついた?」
「ついたぞー」
綾瀬の遠くから聞こえる問いに、鈴村が答える。
綾瀬はそのままゆっくりとリビングに戻ってきた。
「さーて、ごはんが冷めないうちに食べちゃいますかねー。あ、クリスマスケーキもあるから楽しみにしててね!」
「…………全部食い切れるかな」
鈴村は少し量のある夕食を食べきれるか若干不安であったが、男として情けないところは見せられないと考え、用意された料理を全て平らげた。
「……ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。よくあれだけの量食べたねー。……お腹壊さないでね?」
「…………自信はないかな」
実際、鈴村の腹はぱっと見でわかるほど大きくなってしまっていた。
「あ、鈴村君、お風呂先に入りたい? 後に入りたい?」
綾瀬はそんな話の流れで、自然を装って鈴村に問う。
鈴村は特に何も考えず、その問いに答えた。
「んー、じゃあ先にいただこうかな。風呂ってどっちだ?」
「リビング出て右進んだ突き当りを右だよー。もうお風呂湧いてるから、先に入ってていいよ」
「おう、ありがとう」
鈴村はそう言って、着替えを持って風呂場に向かった。
「………………かかったわね、鈴村君」
綾瀬は鈴村が風呂場に向かったことを確認し、不敵な笑みを浮かべた。
*
「ふぃ~~~~。あったけぇ~~~~~~」
鈴村は一人、綾瀬家の浴槽に浸かっていた。
「やっぱ寒い冬に入る熱い風呂はいいなぁ。体が内側から暖まっていっていい気分だ」
鈴村は浴槽に背中を預け、リラックスしながら風呂を堪能していた。
「どう? お湯加減は」
「バッチリだよ。この暖かい風呂に先に入っちゃって悪いな。綾瀬も暖かい風呂入りたかっただろ」
鈴村は少し頭がぼーっとしながらも、綾瀬に答えた。
「……うん、そうだよ。だから、今から入るね」
「…………えっ!?」
その綾瀬の声と共に、風呂場の扉が開く。
そこには、タオルで前を隠した状態の綾瀬が立っていた。
「え、ちょっ、綾瀬!? 何してんの!?」
「…………結婚を考えてくれてるほど私のことが好きなんでしょ? ……だったら、一緒にお風呂入るくらい、なんともないじゃん」
綾瀬は照れながらも、そのまま風呂場に入り、扉を閉めた。
鈴村は慌てて顔を隠して言う。
「だ、だからって順序ってもんが……!」
「順序も何も、熱海旅行でもう私の裸見てるじゃん……。みどり先輩のだって見てるし、今さらだよ」
「た、確かにそうだけど……」
綾瀬の言うことは至極正しかったが、しかし鈴村はわかってはいても心の準備ができていなかった。
(あの時は事故みたいなもんだったけど……、今回はしっかりと関係を築いた上での混浴だ……! あの時とはわけが違う! ……ムードが!! 違うんだよ!)
鈴村の理性は崩壊しそうになっていた。
綾瀬、琴原と熱海旅行に行った際にも三人で混浴をしたが、そこで失神するほど意思の弱い鈴村である。
今回も例に漏れず、鈴村は頭がおかしくなりそうになっていた。
綾瀬は鈴村の照れる後ろ姿を見てニヤニヤしながら、ゆっくりと浴槽に入った。
その音が聞こえ、鈴村はビクッと反応する。
「……ふふっ」
「な、何が面白いんだよ」
綾瀬は思わず小さく笑う。
「鈴村君、私にあれだけ好きだって言っておきながら、こういう場面になると一気に奥手になるよね」
「そ、そりゃあ、慣れてないし……」
「そっか、鈴村君は童貞だもんね」
「バカにしてんのか?」
鈴村は少し怒る声色で言った。
「してないよ。鈴村君も男の子なんだなって、素直に思っただけ」
「ちょ、バカ、綾瀬何して……!」
綾瀬はそう言って、浴槽に浸かり、鈴村の背中に体を預けるように後ろから抱きついた。
鈴村の背中に、柔らかい感触が伝わってくる。
綾瀬は小さく笑いながら言う。
「……鈴村君、結婚っていうのはこういうのも覚悟しなきゃいけないんだよ。……それくらい、わかってるよね?」
「……わかってる、わかってるよ」
「私もこれでもすごく恥ずかしいんだよ? 男の子にこんなことしたことないし……、その、続きだってしたことないし……」
綾瀬の声はだんだん小さくなっていった。
しかし綾瀬のその行動は、鈴村に対して覚悟があることをしっかりと示していた。
「熱海旅行の時はみどり先輩がいたからこんなことできなかったけど、今は邪魔者なんていない。……今の鈴村君は、私だけのものなんだよ」
綾瀬は体勢を変えず、鈴村に言った。
綾瀬の心臓の鼓動が早くなっているのが、鈴村には直接伝わっていた。
そしてこれが綾瀬なりの覚悟なのだと、鈴村は理解した。
「……綾瀬の気持ちはわかった」
「……ほんと?」
「ああ。ほんとだ。逆に俺の気持ちが綾瀬に伝わって、本当によかったと思ってる」
「…………苦労したんだもんね、鈴村君は」
綾瀬は、鈴村の努力を讃えるように優しい顔をしていた。
この状態を長く続けたいと思っていた綾瀬だったが、しかし鈴村は少し焦りながら言う。
「さ、さて、体洗わないと。綾瀬、ちょっと離れてくれるか?」
「あ、じゃあ背中洗ってあげ――」
「それはいいから!」
「え?」
鈴村は綾瀬の言葉を遮って言った。
「え、遠慮しなくていいから! 今日疲れたでしょ? 私にいろいろしてくれたんだし、恩返ししてあげないと……」
「そ、それはさっきのビーフストロガノフでチャラってことで! 体は自分で洗えるから!」
鈴村は慌てながら綾瀬の提案を必死に断った。
そして、鈴村はなるべく自分の体を前から見られないように、浴槽から出た。
そのまま、綾瀬に背を向けるように鈴村は体を洗い始めた。
「…………あー、なーるほど」
綾瀬は、鈴村が今現在進行形であの生理現象が起きていることを理解した。
そうでなければ、こんな挙動不審な動きはしないからである。
綾瀬はこれ以上鈴村をからかうのはかわいそうだと思い、それ以上のことはしないことにした。
後ろから見ても鈴村の耳が赤くなっているのを見て、綾瀬は少し嬉しくなっていた。
それは風呂に入っているからかもしれないが、少なくとも自分のせいであるということはわかっていた。
綾瀬はそのまま鈴村に話しかけることはなかった。
鈴村も、恥ずかしいからか、理性を保つためか、綾瀬に話しかけることはなかった。
鈴村は洗い終えた後、綾瀬に言う。
「じゃあ、俺は先に出てるから。綾瀬はゆっくり風呂に入っててくれ」
「うん、わかった」
そう言って、鈴村は風呂から出た。
その間も鈴村は、なるべく綾瀬に体を前から見られないようにしながら移動していた。
「…………ふふふっ、わかりやすすぎだよ、鈴村君」
鈴村のその挙動不審さに、未だに笑みがこぼれる綾瀬であった。
*
「じゃじゃーん! ここが私の部屋です!」
鈴村からすると理性が破壊されてもおかしくない入浴を終え、二人は綾瀬の部屋へ来ていた。
綾瀬の部屋を一望し、鈴村は謎の感想を述べる。
「……おぉ……、ちゃんと女の子……」
「……どういう意味?」
「いや、これは俺の勝手なイメージなんだけど、綾瀬の部屋はもっと寒色系の部屋をイメージしてた」
「失礼な。私だって女の子です。かわいいぬいぐるみだって置くし、部屋のイメージカラーはピンク系統に統一してるよ」
綾瀬の部屋はピンク系統のベッドやインテリアが置かれており、ベッドの上には様々なかわいらしいぬいぐるみが置かれていた。
鈴村はそれが意外だったのか、思わず自分が思い描いていた綾瀬の部屋のイメージを吐露していた。
「そ、そんなじろじろ見られると、ちょっと恥ずかしいな……」
綾瀬はまじまじと自分の部屋を見る鈴村を見て、少し照れくさくなっていた。
「自分で見るように仕向けたのに恥ずかしいのかよ」
「そりゃまあ、見るようには言いましたけど。私も女の子ですし。恥ずかしいものは恥ずかしいです」
綾瀬は腕を組んで言う。
「いずれ鈴村君の部屋も見せてもらわないとね」
「俺は別に構わないけど」
「ほんと!? ……あ、エッチな本とか隠してないよね」
「一冊も買ったことねえよ」
「いたっ」
綾瀬のその言葉に、鈴村は綾瀬の頭を軽く叩く。
「……で? もうこんな時間だけど、寝るか? それともゲームでもする?」
鈴村はそう言いながら、ゲーム機を探し始めた。
綾瀬は少し顔を俯かせて答える。
「今日はもう寝たいかな。…………鈴村君と一緒に」
「…………え?」
綾瀬はそう言って鈴村と目が合うと、慌てて視線を逸らした。
鈴村は少し変な妄想をしてしまったが、綾瀬が疲れているものだと考えてゲームを探すのをやめた。
「そ、そうだな! 明日も出かける予定だし、今日は早く寝るか!」
「…………うん」
綾瀬はそう言って、先に自分のベッドに入った。
そして、ベッドの半分を開け、掛布団を持ち上げて、トントンと手を叩いて言った。
「鈴村君、ここに来て、いいよ」
ゴクリ、と、鈴村の生唾を飲む音が聞こえた。
綾瀬のその表情、行動から、綾瀬にはその『覚悟』があるのだと、鈴村は察していた。
これは鈴村の理性がどうこうという話ではない。
綾瀬の気持ちにどう応えるかが重要な話になっていた。
鈴村は改めて、綾瀬に問う。
「……ほんとに、いいんだな?」
その言葉に、鈴村は小さく頷く。
鈴村はゆっくりと歩を進め、綾瀬のベッドに入り込んだ。
「…………鈴村君、やっぱり体大きいね」
背を向ける鈴村に少し残念がる綾瀬であったが、その肩幅の広さを間近で見て、綾瀬は改めて言った。
「……そりゃまあ、男だしな」
「すごいなぁ、成長期の男の子ってそういうもんなんだね」
「まあな」
「でも、飯田会長には負けるね」
「…………そういえばあの人、いつだか生徒会室で宮田先輩に服脱がされてたな」
鈴村はふと、蒼碧祭が終わって数日後の生徒会活動の際に、飯田が太鼓を叩いていたのを思い出した。
鈴村に生徒会の加入についてのルールを説明しようとした際に使用した、あの太鼓である。
その太鼓の音があまりにうるさかったのか、宮田は飯田を叱り、飯田に『上半身裸で一時間太鼓を叩かせる』という罰を与えていた。
そんなことを思い出し、鈴村は思わず笑いだす。
「どうしたの?」
綾瀬は心配する声で聞く。
「いや、思い出し笑いだよ。そんなこともあったなぁって思っただけ」
「……そっか」
綾瀬は微笑みながら答えた。
そのまま綾瀬は続ける。
「…………ほんとに、この一年間、いろんなことがあったね」
「……そうだな」
「飯田会長も言ってたけど、たぶん、夏休みのあの日に鈴村君が現れなかったら、あの思い出たちはもしかしたらなかったのかもね」
「そうかもしれないな」
鈴村は、綾瀬の言うことは正しいとわかっていた。
タイムスリップの前の鈴村は少なくとも、高校生活中にこんな経験をした覚えはない。
鈴村が様々な思い出を持ち、綾瀬と誕生日を共に過ごせているのは、紛れもなく鈴村の努力の成果である。
鈴村は、人生の選択を成功させて、今この状況下にいるのである。
鈴村はこの現実を、深く噛みしめていた。
「……ねえ、鈴村君」
「どうした? 寝れないか?」
「……そうじゃないんだけどさ、今日ってクリスマスイブじゃん」
「そうだな」
「…………『性の六時間』って言葉、知ってる?」
「……なんで今それ聞くの?」
鈴村は敢えて誤魔化すように聞く。
「……今の時間が、その時間だからだよ」
「うわっ」
そう言って、綾瀬は鈴村の体を無理やり自分のほうに向かせた。
「い、意外と力あるんだな、綾瀬って」
「曲がりなりにも運動部だからね。力は少し自信があるよ」
鈴村は修学旅行の時の綾瀬の行動力を思い出し、その言葉に納得した。
二人は暗い部屋の中、静かに見つめ合う。
先に口を開いたのは綾瀬だった。
「……だからね、鈴村君。私もそれなりに、『覚悟』があるんだよ」
「…………だろうな」
「わかってたの?」
「わかってたよ。でなけりゃ風呂であんなことしないだろ」
「…………、鈴村君は、私とそういうこと、したくないの?」
「……それは…………」
上目づかいで聞く綾瀬に、鈴村はたじろぐ。
「したくないって言ったら、……嘘になる」
「……じゃあ、してもいいんだ」
「でも……」
「でも?」
鈴村は綾瀬にはっきりという。
「そういうのはさ、なんていうかその、段階を踏んでからするものじゃないか……?」
鈴村のその言葉に、綾瀬はぽかんと口を開ける。
そしてそのすぐあと、はっきりと鈴村に言った。
「ヘタレめ」
そう言って、綾瀬は鈴村の腹を少し強めに殴った。
「うっ………………! ちょ、綾瀬、どういうつもりだよ……」
鈴村は腹を抱えて苦しそうにしながら言う。
綾瀬はとても残念そうな顔をしたが、それでも鈴村の言葉を理解して言った。
「……ま、確かに鈴村君の言うことは確かかもね。順序は大事かも。今日はお預けしておくよ」
「……今日は……、ね」
「あ、でもやっぱりさっきのお風呂でのことは結構刺激が強かったかな? 鈴村君ずっとこっち向いてくれなかったし」
「お前わかっててやってるだろ! 人をからかうのもいい加減にしてくれ!」
鈴村は恥ずかしそうに叫んだ。
「ははは! 鈴村君はやっぱ面白いなぁ。……好きになって本当によかったかも」
「…………そうかよ」
綾瀬は微笑みながら鈴村に体を近づけた。
「……これからもよろしくね、鈴村君」
「……ああ」
そうして、二人は静かに唇を重ね、眠りに着いた。
その翌朝。
「…………うぅっ、さむっ」
鈴村は寒気がして目が覚めた。
「…………なんで俺、ベッドから落ちてんの?」
鈴村は気づくとベッドから落ちていた。
痛む背中を抑えながら立ち上がる鈴村は、ベッドで眠る綾瀬を見る。
「…………どんだけ安心しきってんだ、綾瀬」
綾瀬は、寝相が悪かった。
「……まだ食べるのいっぱいあるよ、鈴村君……」
そんな寝言を言いながら、綾瀬はむにゃむにゃと寝ていた。
「同棲すると素が出るとはまさにこのことだなぁ」
鈴村はこの瞬間、綾瀬との『同棲』のことを意識し始めた。
「ま、これくらい大丈夫か。綾瀬のことは良く知ってるし」
鈴村はそう呟いて、綾瀬に布団をかけなおした。
「でも、これからこういう『素』を知ることになるんだろうな。……どんな綾瀬でも、俺は受け入れるからな」
鈴村は誰に伝えているかわからない意気込みを口にしていた。
こうして、綾瀬の誕生日、及びクリスマスイブは幕を閉じ、十二月二十五日、クリスマスを迎えた。




