㉕ 黒い暗殺者 1
逃げていった二人を追おうとする男の前に、シキは立ち塞がった。左手に特能、右手に剣を構えると、男はじっとシキを見下ろした。
「俺がお前を殺さないと、思っているのか」
初めて発せられたその声は、感情の抜け落ちたような歪な低さとともに重苦しくシキの頭上にのしかかってきた。
「お前はジェージニアント家に雇われた暗殺者だ。俺を殺せはしないだろ? フレミア」
地位の差を明示するかのようにシキはその名を呼んだ。ジェージニアント侯爵家を密かに調べているうちに見つけた情報の一つである。
名を呼ばれても男__フレミアは特に動揺の影を見せず、淡々と剣を構えた。シキが氷を放つとともに剣で斬り込む。交差した剣が甲高い音を立てた。
「っ、なぜ来たフレミア! ヤクは俺が殺す、お前の出る幕はない!」
「侯爵はそうは考えなかったようだな。俺も同じだ」
フレミアは相変わらず落ち着いた剣捌きでシキの攻撃をいなした。シキがはっとして息を呑む。
「お前、まさか……お前が俺の監視人か!」
「そうだ。ジェイストにやられるような者などただの飾りにすぎん」
容赦なく斬り込まれた剣を、シキは必死で短剣と特能とでガードした。
「お前が標的を始末するか、見ていた。しかしお前には殺意がない。それどころが標的を守ろうとすらしている。ゆえにお前には標的暗殺の意志がないものと判断した」
「……しかしだからと言って、俺を襲うのは……」
「俺が受けた依頼はユリヤクス・アトレウス・メジアストの抹殺だ。そこにお前の保護は含まれていない」
「屁理屈を……! 俺を殺せば報酬はない。それどころが侯爵はお前を殺すか、よくても解雇するかだ!」
「侯爵に俺は殺せない。そして俺は報酬にも解雇にも興味はない」
「何?」
思わぬ言葉にシキはつい聞き返した。
「それならお前は何故、あいつを殺そうとしてるんだ?」
しかしフレミアはそれには答えず、さらに攻撃を激しく重ねてきた。
「邪魔するのならばお前を殺す。それだけだ」
「つっ」
受け流しきれなくなった剣がとうとう右腕を切り裂いた。上着だけでなくインナーまでばさりと切れて布が捲れる。フレミアが微かに目を見開いた。
「……逆らえば命がないのはお前の方じゃないか。そうまでしてあの王子を守りたいのか?」
「……」
「理解できん」
そう呟くと、無駄話はここまでといった様子でフレミアは大きく剣を振りかぶった。
「____!」
なんとか避けたものの、バランスが崩れ次の攻撃への対処が間に合わない。
(くそっ)
しかし、恐れた追撃はいつまでも放たれなかった。顔を上げて様子を窺うと、フレミアは僅かに眉間に皺を寄せてシキの後ろを睨んでいた。
「……アルトニヤ」
「え?」
ぼそりと漏れた名につられて振り向いたシキが再び目線を戻した時には、もうフレミアはいなくなっていた。
「ちっ逃げやがったな」
「……アルテーズ公」
剣を構え戸口の方から走ってきたキーラを見てシキが呟くと、キーラはシキに目をやって口元を緩めた。
「おう、なんとか持ち堪えたみてぇだな。よくやった」
後から入ってきた騎士の一人がシキのそばに駆け寄ってきた。
「ジェージニアント侯爵のご子息、シキ様ですね? お怪我は……」
「大したことはありません。それより、他の奴らは……ヤクとハツは?」
「お二人には道中でお会いいたしました。そこであなたがここにいることを教えていただいたのです」
「そうですか……」
シキが右腕を押さえたままにしているのに気が付いて、騎士は手を伸ばした。
「傷の具合は」
「触るな!」
シキは右腕を抱えるようにして後ずさった。思いがけない反応に騎士は面食らったらしい。そばにいたもう一人の騎士が、今はそっとしておけというようなことを囁いたのが聞こえた。慌てて平静を取り繕う。
「すみません、ちょっと緊張が抜けなくて……怪我の方は本当に大したことはないので、少し一人にしてもらえますか」
「ええ……なにかお困りのことがありましたら教えてください」
騎士は礼儀正しく一礼して離れていった。シキは右腕を奥側へやってハンカチを取り出すと、それを包帯のようにしてぐるぐると巻いた。
(……とりあえずはこれでいいか)
「シキくんっ!」
戸口から名を叫ばれてシキは顔を上げた。
「……ヤク」
「よかった……よかった、よかったぁ!」
涙目で駆け寄ってくるヤクに苦笑しながら、シキは左手を上げてみせた。




