⑰紫と碧の夜
「へ?」
セナがぽかんとする。が、シキは説明は終わりと言った様子で瞬きを一つした。木々の合間から雲一つない青空がちらちらと覗く。セナが不安げに見守る中、シキは唐突に立ち上がると左手を突き上げた。そのまま手首を捻るようにしてゆっくりと回転していく。それに呼応するかのように生ぬるい風がふわりと吹いてセナの頬を撫でた。もう一回。またもう一回。そうしているうちに風は微かに、けれど絶え間なく吹き続け、湿り気を帯び始めた。
(なんだか、雨が降る前みたい……?)
セナが漠然とそんなことを考えている間にも湿った風は上空へと上がっていった。心なしか肌寒くなってきた気がして、セナはヤクの首元にまだ温かい自分の手を当ててやった。そうしてふと顔を上げれば、辺りは薄っすらとした暗闇に覆われていた。あれほど眩しかった木漏れ日も今はどこにあったのかすらわからない。空を見上げると、太陽は分厚い雲で覆われていた。
「え……あの雲、まさかシキ君が……?」
「……当たり前、だろ。俺以外に、誰が、できるってんだよ」
流石に疲弊した様子ではあったが、シキは冷静に続けた。
「これでしばらくの間、この森は雲の下に置かれるはずだ。気温も下げてやったし、この暗さなら夜と誤認したキサラソウが咲き始めてもおかしくない」
「な、なるほど……」
セナは目を見張ってあたりを見回した。
(この森全体をこの暗さにできる分厚い雲を、この短時間で作ったの……?)
「シキ君の特能って、一体……」
セナの視線に込められた疑念を見てとって、シキは気まずそうに目を逸らした。
「……そんなことは今、どうでもいいだろ」
シキの特能はセナが以前指摘したような水を操作するものではなかった。正確にはそれは彼の特能に付随する作用の一つに過ぎなかったのだが、シキとしてはそう思われている方が好都合だった。
(何にしても厄介なんだ。『同じ』ってのは)
「ねぇ見て! あそこ光ってる!」
不意にセナがはしゃぎ声を上げた。その指差す方に目を向ければ、碧色の光がぼんやりと浮かび上がっていた。
「あれが……キサラソウ! すごい、ヤコちゃんの言っていた通りだ!」
「ああ。早速かき集めるぞ」
シキとセナは大急ぎで碧く光る花を詰んでいった。幸いにも付近を歩き回っただけで小脇に抱えるくらいの量が集まり、二人はヤクのところへ引き返すと石でキサラソウをすり潰した。
「内的な病に効くものなら、おそらく粉末状にして口から飲ませれば良いのだろうが……これで煎じてだったら笑えないな」
「今はもうこれでいくしかないよ。ヤク君、飲み込めそう?」
「わからん。とりあえず傷口にもかけといてやれ」
シキは自身の特能で発生させた水にすり潰したキサラソウを溶かすと、ヤクの口に流し込んだ。しかしけほけほと弱々しく咳きこむばかりで、なかなか体内に入っていかない。
「ちっ下手にやると窒息しかねないな。セナ、残りのやつは全部傷口に塗ってくれ」
「わかった!」
額の汗を拭いながら、セナは丁寧に、しかし急いで傷口に粉末を塗りつけた。と、ごくん、とヤクの喉が動く。
「よし、こっちも少しは飲み込んだみたいだな」
集めてきた分のキサラソウがなくなって一段落すると、シキとセナは祈るような面持ちでヤクの顔を覗き込んだ。
「呼吸が……はっきりとしてきたような」
「表情も少し和らいでるよ、それに、出血も止まってる!」
微弱ではあるが気のせいというには無理のありそうな変化に二人はほっと胸を撫で下ろした。
「よし、あとは王宮へ運ぶだけだ」
「うん!」
セナが元気よく頷く。しかしシキはヤクを抱きかかえると、一人ですたすたと歩き出して肩越しに振り返った。
「セナ、お前はヤコたちのところへ行ってやれ。あいつらが向かっているのは森の奥側で、ジェイストもそっちに戦力を集中させているはず……。森の入り口方面には大したやつはいないだろうから、こっちは心配無用だ」
「……わかった。気をつけて、ヤク君をよろしくね」
「ああ、任せろ」
太陽を覆う雲が少しずつ切れ始め、ところどころから日が差し込んでくる。木漏れ日が導くそれぞれの道を、二人は全速力で駆けていった。




