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覇狼、地を貫く  作者: 神箭花飛麟
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Ⅶ 崖山

時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。

1279年、春。

崖山。

南シナ海に面した、切り立った岬だった。

遼海は、その海を見ていた。

波が、岩を打っていた。

南宋最後の艦隊が、湾の中に集結していた。

千隻以上の船。

その中に、幼帝・帝昺を乗せた御座船もあった。

わずか七歳の皇帝。

南宋最後の皇帝だった。

「ここまで、来たか」

遼海が呟いた。

1204年、舜がこの世界に来てから、七十五年。

四つの国の興亡を見てきた。

西夏が滅び、金が滅び、西遼が崩れ、そして今、南宋が終わろうとしていた。

(父上が、この世界に来た頃には、五つの国があった)

(今、最後の一つが、ここで終わる)


張弘範の陣営。

モンゴル軍の指揮官だった。

バヤンは北で、別の反乱の鎮圧に向かっていた。

この最終決戦の指揮は、張弘範に託されていた。

「降伏を勧告するか」

副将が聞いた。

「無駄だろう」

張弘範が答えた。

「張世傑という男は、最後まで戦う」

「囲め。逃げ場をなくせ」

「はい」

遼海は、記録帳を開いた。

「1279年春、崖山。南宋最後の艦隊、千隻以上が集結。元軍、包囲を開始」


南宋の旗艦。

張世傑が、海を見ていた。

最後の将軍だった。

襄陽の陥落から、ずっと戦い続けてきた。

「将軍」

陸秀夫が、横に来た。

丞相だった。

「船を、鎖でつなぐべきか」

陸秀夫が聞いた。

「つなげ」

張世傑が答えた。

「一つになれば、誰も逃げられない」

「それでいいのか」

「もう、逃げる場所はない」

張世傑が、静かに言った。

「ここで、決める」

千隻の船が、鎖でつながれた。

動けない、巨大な要塞となった。


戦いは、数日続いた。

元軍の船が、火矢を放った。

南宋の船が、燃えた。

だが、鎖でつながれているため、燃え広がった。

逃げることも、できなかった。

遼海は、その光景を記録していた。

「火矢、南宋艦隊を焼く。鎖でつながれた船、互いに延焼。脱出不可能」

手が、震えた。

(これは、戦というより)

(処刑に近い)

遼高が、隣で記録していた。

「兄さん、これは」

「ああ」

「見るに堪えない」

「だが、見届けなければならない」

遼海が答えた。

「俺たちは、記録者だ」


最後の日。

御座船に、水が入り始めた。

陸秀夫が、幼帝の前に膝をついた。

「陛下」

七歳の帝昺が、陸秀夫を見た。

「これより、海に入ります」

「捕らえられれば、辱めを受けます」

「それより、ここで終わる方が、よろしいかと」

帝昺は、何も言わなかった。

ただ、頷いた。

陸秀夫は、帝を背負った。

玉璽を、帝の体に結びつけた。

「陛下」

陸秀夫が言った。

「徳祐帝は、すでに辱めを受けられました」

「陛下は、そうあってはなりません」

帝昺は、また頷いた。

陸秀夫は、海を見た。

(これが、南宋最後の臣としての務めだ)

「行きます」

陸秀夫が、海に飛び込んだ。

波が、二人を飲み込んだ。


その光景を、遠くから張世傑が見ていた。

「丞相」

声にならない声で、呟いた。

艦隊は、もう崩壊していた。

燃える船。

沈む船。

海に飛び込む人々。

官吏も、その家族も、次々と海に身を投げた。

誰も、捕らえられることを選ばなかった。

張世傑は、残った数隻の船で、脱出を試みた。

だが、暴風雨に遭い、海に沈んだ。

南宋という国が、この日、完全に消えた。


遼海は、海岸に立っていた。

海面に、何かが浮いていた。

数えきれないほどの、人の姿だった。

官吏の衣服。

女性の髪飾り。

子供の靴。

全てが、波間に漂っていた。

遼高が、横に来た。

「これが、最後か」

「ああ」

遼海は、答えられなかった。

記録帳を開いた。

手が、動かなかった。

しばらくして、書き始めた。

「1279年春、崖山にて南宋滅亡。陸秀夫、幼帝を背負い入水。張世傑、暴風雨にて遭難」

「数万の官民、入水して殉ず。南宋、百五十年の歴史、ここに完全に終わる」

書き終えた。

(百五十年)

(多くの人々が、最後まで戦った)

(その全てを、俺は見た)

(記録しなければならない)


遼西が、海を見ていた。

「俺の作った回回砲は、ここでは使われなかった」

遼西が言った。

「使う必要が、なかった」

「そうだな」

遼海が答えた。

「もう、戦う相手がいなかった」

「これで、終わりだ」

遼西が、静かに言った。

「南宋という国が、消えた」

「俺たちの仕事も、ここで一区切りだ」

波の音だけが、聞こえていた。

三兄弟は、しばらく、何も言わずに海を見ていた。


その夜、遼海は一人、海岸に座っていた。

波が、静かに寄せていた。

(陸秀夫という男は、最後まで帝を守った)

(張世傑も、最後まで戦った)

(彼らは、何を見ていたのだろう)

記録帳を開き、もう一度書いた。

「南宋の最後の臣たちへ。お前たちの忠義を、俺は見届けた」

「敗者であっても、その生き様は、歴史に刻まれる」

(これが、俺にできる、せめてものことだ)


数日後、生き残った南宋の文官たちが、元軍に保護された。

その中に、若い書記官がいた。

「お前は、何をしていた」

遼海が聞いた。

「記録を、書いていました」

書記官が答えた。

「最後まで、何が起きたかを」

「お前も、記録者か」

「はい」

遼海は、その男の顔を見た。

「お前の記録を、見せてくれ」

書記官が、ぼろぼろになった帳面を渡した。

遼海は、それを読んだ。

南宋側から見た、崖山の記録だった。

「これは、貴重なものだ」

遼海が言った。

「俺の記録と、合わせよう」

「両方の視点があってこそ、本当の歴史になる」

書記官の目に、涙が浮かんだ。

「ありがとうございます」


舜の家。

七星から最後の報告が届いた。

「崖山にて南宋滅亡。陸秀夫、幼帝と共に入水。張世傑、遭難。遼海・遼西・遼高、いずれも無事」

舜は、その文を読んだ。

長い間、何も言わなかった。

やがて、筆を取った。

「1279年春、崖山の戦い。南宋、完全に滅亡」

「数万の官民、殉死。陸秀夫、幼帝・帝昺と共に入水」

書きながら、舜の手が震えた。

星歌が、隣に来た。

「終わったのね」

「終わった」

「南宋が」

「ああ」

舜が言った。

「俺がこの世界に来た時、すでにあった国だ」

「それが、今、消えた」

「悲しい?」

星歌が聞いた。

「悲しい」

舜が答えた。

「だが、これも歴史だ」

「俺たちは、記録する」

「子供たちは、帰ってくるのね」

「帰ってくる」

舜が頷いた。

「全員、無事に」

遼希が、隣にいた。

「父上、これで、南宋の記録は終わりですか」

「終わりだ」

「だが」

舜が続けた。

「管道昇という子の記録は、まだ続く」

「あの子は、生きている」

「そうですね」

遼希が頷いた。

「いつか、また何かを記録する日が、来るかもしれません」

舜は、その夜、長い間眠れなかった。

南宋という、自分がこの世界に来た時からあった国が、消えた。

七十五年という歳月の重みを、改めて感じていた。

草原の夜が、広がっていた。

南の海で、一つの時代が終わった。

そして、新しい時代が、すでに始まっていた。

レビュー、評価、感想をしてくだされば嬉しいです!!!!!

この作品を並行して描いた「遊牧史Ⅲ 南宋陥落す」も読んでいただければ嬉しいです。

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