Ⅵ 臨安
時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。
1276年、春。
臨安へ向かう道で、遼海は馬を止めた。
前方に、城市が見えた。
臨安だった。
西湖が、朝の光に輝いていた。
水面が、鏡のように静かだった。
「これが、臨安か」
遼高が、横で言った。
「父上が、美しい都だと言っていた」
「本当だな」
遼高が頷いた。
「本当に、美しい」
遼海は、記録帳を開いた。
「1276年春、臨安。西湖のほとりに広がる都。水路が張り巡らされ、楼閣が立ち並ぶ。南宋百五十年の都だ」
書き終えた。
(この城が、今日、開く)
臨安城内。
謝太后が、大殿にいた。
皇太后であり、幼帝の代わりに政を執ってきた女性だった。
年老いた顔に、疲れが滲んでいた。
「バヤン将軍に、使者を送れ」
「降伏の、意を伝えよ」
側近が、声を震わせた。
「太后様、まだ二王が南に」
「分かっている」
謝太后が言った。
「だが、臨安の民は、もう戦えない」
「食料が、尽きた」
「百万の民が、いる」
「その者たちを、守ることが俺の役目だ」
「...はい」
側近が、頭を下げた。
幼い恭帝が、隣に座っていた。
六歳だった。
「お祖母様、戦は終わるの」
「そうだ」
謝太后が、幼帝を見た。
「戦は、終わる」
「そうか」
幼帝が、頷いた。
何も分かっていないように見えた。
だが、目だけは、大人のように静かだった。
バヤンが、城外で待っていた。
使者が来た。
「謝太后より、降伏の意が伝えられました」
「そうか」
バヤンが、静かに言った。
「礼を以て、迎えろ」
「略奪は、禁ずる。民を、傷つけるな」
「この城は、百五十年続いた都だ。壊すものではない」
「はい!」
将軍たちが、頭を下げた。
城門が、開いた。
バヤンが、先頭で入った。
遼海と遼高が、後に続いた。
道の両側に、人々が立っていた。
誰も、声を出さなかった。
ただ、見ていた。
「見ている」
遼高が言った。
「怯えている者も、いる」
「当然だろう」
遼海が答えた。
「だが、逃げていない。この人たちは、ここで生きていく」
バヤンが、馬を止めた。
「遼海、この城を、見て回れ」
「全て、記録せよ」
「はい」
遼海は、臨安を歩いた。
市場があった。
店は、閉まっているものが多かった。
だが、いくつかは開いていた。
「何を売っているのか」
遼海が声をかけた。
「茶です」
老人が答えた。
「戦が終わったなら、茶くらい飲みたいと思いまして」
「一杯、いただけるか」
「はい」
老人が、茶を淹れた。
遼海は、その茶を飲んだ。
温かかった。
(百五十年続いた都の茶だ)
「美味いか」
遼高が聞いた。
「美味い」
二人は、市場の端で茶を飲んだ。
遼海は、記録帳に書いた。
「臨安の市場、一部開店。老人、占領軍に茶を売る。その顔に、敵意はなかった」
西湖のほとりに来た。
湖は、静かだった。
水鳥が、泳いでいた。
「父上が言っていた通りだ」
遼海が言った。
「美しい」
遼高が続けた。
「なぜ、負けたんだろう」
「賈似道がいたからだ」
遼海が答えた。
「いや、それだけではない。賈似道は、南宋が生み出した男だ」
「宮廷が腐れば、その宮廷が生む人間も腐る」
「南宋は、百五十年で腐りきった」
「それでも、城の中の民は」
「民は悪くない。俺たちは、民を守らなければならない」
二王の話を、遼海はバヤンから聞いた。
「益王と広王が、南へ逃れたそうです」
「追いますか」
「いずれ、追う」
バヤンが答えた。
「だが、今は臨安の統治を固めるのが先だ」
遼海は頷いた。
「最後の抵抗が、まだ残っているのですね」
「ああ。だが、もう大局は決まった」
「南宋という国は、今日、終わった」
「あとは、残り火を消すだけだ」
遼西が、臨安の技術者たちと話していた。
宮廷に仕えていた職人たちだった。
「お前たちは、何を作っていたのだ」
「陶磁器です」
一人が答えた。
「宮廷のものを、作っていました」
「続けられるか」
「はい。技術は、俺たちの中にあります」
遼西が頷いた。
「クビライ様は、作り続けることを望まれている」
「壊すだけでは、帝国は続かない」
「分かりました」
遼西は、技術者たちを見回した。
「俺は、西方の技術者だ。お前たちから、この土地の技術を学びたい」
「俺からも、伝えられることがある」
職人たちが、顔を見合わせた。
「是非、お願いします」
謝太后が、城を去る日。
遼海が、遠くから見ていた。
老いた女性が、輿に乗っていた。
顔は、静かだった。
「太后様」
側近が泣いていた。
謝太后は、振り返らなかった。
「泣くな」
謝太后が言った。
「俺は、民を守った」
「それだけで、十分だ」
遼海は、記録帳に書いた。
「謝太后の言。俺は民を守った。それで十分だ」
「この言葉を、後世に残す」
城の一角に、孤児院があった。
七星の者が、管道昇を連れてきていた。
十歳になった少女が、遼海の前に立った。
「こんにちは」
管道昇が言った。
落ち着いた目だった。
(牛富が守った子だ)
「絵を描くと聞いた」
遼海が言った。
「はい」
管道昇が、懐から紙を取り出した。
竹の絵だった。
細い線で、丁寧に描かれていた。
「上手いな」
「字も、書くか」
「はい。詩が好きです」
「蘇東坡の詩が好きです」
「それは、なかなかだ」
管道昇は、少し笑った。
「この子は、臨安に置いていいですか」
七星の者が聞いた。
「ここで、生きていけるか」
「大丈夫です」
管道昇が答えた。
「私には、絵と字があります。それがあれば、生きていけます」
遼海は、記録帳に書いた。
「管道昇、臨安にて暮らすことを望む。絵と字で、生きていくと言った」
「蘇東坡の詩を好む。牛富の遺言通り、強く生きている」
幼帝が、城を出た。
北へ、連れて行かれた。
遼高は、その行列を見ていた。
六歳の帝が、馬車に乗っていた。
小さな顔が、車窓から見えた。
(帝も、ただの子供だ)
遼高は、記録帳に書いた。
「恭帝、北へ。臨安、百五十年の都として閉じる」
「一つの時代が、終わった」
舜の家。
報告が届いた。
「臨安、開城。恭帝、大都へ。バヤン、無血入城」
舜は、記録を書いた。
「1276年春、臨安開城。南宋の都、百五十年の歴史を閉じる」
「恭帝、北へ連れて行かれる。謝太后、降伏を受け入れ、民を守る」
「管道昇、臨安に留まる」
書き終えた。
遼希が、隣にいた。
「父上、南宋は終わりましたか」
「まだだ」
舜が答えた。
「二王が、南で抵抗を続けている。最後の戦が、ある」
「崖山か」
「そうだ」
「子供たちは」
「まだ、向こうにいる。だが、もうすぐ帰ってくる」
星歌が、窓の外を見た。
「長かったわね」
「チンギス様が作った帝国が、南宋を飲み込もうとしている」
「それを、俺たちは記録してきた」
「もう少しだけ、続ける」
草原の風が、南から吹いてきた。
レビュー、評価、感想をしてくだされば嬉しいです!!!!!




