Ⅴ 丁家洲
時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。
1275年、春。
長江。
バヤンが、岸から川を見渡していた。
対岸まで、一里以上あった。
川の向こうに、南宋の船が見えた。
その数、二千五百隻。
帆が、空を埋めていた。
「多いな」
バヤンが言った。
「はい」
遼海が答えた。
「南宋が、最後に出せる全兵力です」
「指揮官は」
「賈似道です。宰相が、自ら出てきました」
バヤンが眉をひそめた。
「宰相が、軍を指揮するのか」
「はい。南宋の末期的な状況です」
「軍人が、いなくなったということか」
「そうかもしれません」
「なるほど」
バヤンが川を見た。
「では、軍人の俺が相手をしよう」
遼海は、バヤンの陣から川を記録していた。
「1275年春、丁家洲。南宋軍、二千五百隻、十三万の大軍を整える」
「宰相・賈似道、自ら出陣。南宋の命運、この一戦にかかる」
書き終えた。
(二千五百隻か)
(これだけの船が、長江を埋めている)
(南宋は、まだ戦えると思っている)
遼高が横に来た。
「兄さん、あの船の数を見てください」
「ああ。壮観だな」
「圧倒されそうです」
「だが、数が多ければ、戦に勝てるわけではない」
「アジュ様が、そう言っていたな」
「そうだ」
南宋の船団。
旗艦の上。
賈似道が、長江を見渡していた。
六十代の男だった。
かつては、宮廷を牛耳っていた男だった。
だが、今は違った。
臨安は、恐怖に怯えていた。
皇帝は幼く、判断ができなかった。
誰かが、出なければならなかった。
「丞相、我らが出ることが、本当によかったのか」
副将の孫虎臣が言った。
「他に、誰がいるのだ」
賈似道が答えた。
「武将は、皆、城に籠っている」
「臨安が落ちれば、全ては終わりだ」
「ここで止めなければならない」
「だが、我らには水軍の経験が」
「やるしかない」
賈似道が遮った。
「やるしかないのだ」
孫虎臣は、黙った。
(この男は、自分でも分かっている)
(無謀だと)
(それでも、他に選択肢がない)
賈似道が船首に立った。
長江の風が、顔に当たった。
(俺の人生は、策謀と宮廷で終わるはずだった)
(なぜ、こんなところで軍を率いている)
「前へ、進め」
賈似道が命じた。
モンゴルの陣地。
「動き始めました」
斥候が報告した。
「南宋の船団、一斉に動いています」
バヤンが頷いた。
「遼西」
「はい」
「水上の回回砲を、用意しろ」
「準備できています」
遼西が答えた。
「台座の改良が、うまくいきました。船の揺れに対応できます」
「よし。先頭の大型船を狙え」
「はい」
遼西が、水上の砲台に向かった。
アリフが付いてきた。
「遼西様、いよいよですね」
「ああ」
遼西が台座を確認した。
「イスマーイールは」
「準備完了しています」
「では、始めろ」
長江の上。
モンゴルの船団が、前に出た。
南宋の船団と、距離が縮まった。
「放て!」
遼西が命じた。
回回砲の石が、空を飛んだ。
南宋の先頭の大型船に、直撃した。
轟音が、川に響いた。
船の帆桁が、折れた。
「また、放て!」
二発、三発。
南宋の先頭船が、傾き始めた。
「敵の旗艦が!」
南宋の兵が叫んだ。
その声が、船団全体に伝わった。
「退け!退け!」
誰が言ったか、分からなかった。
だが、声は広がった。
一隻が、向きを変えた。
それを見て、また別の一隻が向きを変えた。
二隻が、五隻になった。
五隻が、五十隻になった。
「退くな!」
賈似道が叫んだ。
「戦え!」
だが、声は届かなかった。
二千五百隻の船団が、ばらばらになり始めた。
互いにぶつかり合う船があった。
沈む船があった。
走って逃げる兵があった。
長江の水面が、混乱に覆われた。
遼高は、その光景を見ていた。
信じられなかった。
「始まって、どのくらいだ」
「一時間も、経っていません」
アリフが答えた。
「一時間で、二千五百隻が」
「崩れた、な」
遼海が言った。
「六年かかった襄陽とは、違う」
「城があれば、兵は守れる」
「だが、川の上には、守る場所がない」
「逃げ場がなければ、崩れるのが早い」
遼高が記録帳を開いた。
「1275年春、丁家洲の戦い。南宋軍、開戦早々に崩壊。賈似道、退却」
「六年の攻囲戦と、一時間の決戦の差は何か」
「城があるかないか。それだけだったのかもしれない」
書き終えた。
バヤンが、遼高を呼んだ。
「お前は、この戦いをどう記録するつもりだ」
「事実のまま、書きます」
「二千五百隻が、一時間で崩れた、とか」
「はい」
バヤンが少し笑った。
「それが、正しい記録だ」
「南宋の将兵も、弱かったわけではない」
「賈似道という男が、場違いだっただけだ」
「軍の指揮は、武将がするべきものだ」
遼高は、頷いた。
「その言葉も、記録しますか」
「好きにしろ」
バヤンが言った。
「お前の判断に任せる」
遼高は、記録帳に書いた。
「バヤン将軍の言。南宋の兵は弱くなかった。場違いな指揮官が、彼らを台無しにした」
賈似道の船が、南へ向かった。
川面に、南宋の旗が流れていた。
(終わった)
(俺の全てが、今日、終わった)
(臨安は、もう守れない)
賈似道は、川を見ていた。
何も、言えなかった。
川辺。
遼西が、一人で川を見ていた。
長江は、やはり大きかった。
(これを渡ったのか)
(父上は、何と思うだろう)
「遼西様」
アリフが来た。
「管道昇という子について、また報告が来ています」
「どうした」
「絵だけでなく、字も書き始めたそうです。もう七歳ですが、覚えるのが早いと」
遼西が頷いた。
「記録しておいてくれ」
「あの子は、生き延びる」
「そう、思っています」
バヤンが、次の命令を出した。
「このまま、臨安へ進む」
「時間をかけても、意味はない」
「南宋に、もう守る力はない」
「はい」
遼海が、頷いた。
舜の家。
夜、報告が届いた。
「丁家洲の戦い、南宋軍、崩壊。長江、突破」
舜は、記録を書いた。
「1275年春、丁家洲の戦い。バヤン、南宋の水軍を打ち破る」
「賈似道、敗走。臨安への道、開ける」
書き終えた。
遼希が、隣にいた。
「父上、南宋は終わりですか」
「ほぼ、そうだ」
舜が答えた。
「臨安が開けば、終わりだ」
「子供たちは」
「もうすぐ、帰ってくる」
「それだけは、確かだ」
星歌が、茶を持ってきた。
「よかったわね」
「そうだな」
「もうすぐ、全員が揃う」
草原の夜風が、静かに吹いていた。
南の空に、月が出ていた。
長江を渡った月が、今、草原を照らしていた。
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