Ⅱ 勇士
時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。
1271年、秋。
包囲から、四年が経っていた。
漢水は、相変わらず静かだった。
モンゴルの水軍が、上流と下流を押さえていた。
補給船は一隻も通れなかった。
城内の食料が、少しずつ減っていた。
遼高は、陣地から川を見ていた。
「四年か」
遼高が呟いた。
四年前、この川に来た時、城はまだ力があった。
今も、落ちていない。
呂文煥は、本当に粘り強い男だった。
「だが、限界は近い」
遼高が記録帳に書いた。
「1271年秋、包囲四年目。城内の補給は断絶が続く。士気はまだある」
漢水の南。
夜。
松明が、川面に揺れていた。
南宋の将軍・張貴が、百隻の船を前にして立っていた。
三千の兵が、そこにいた。
「諸君」
張貴が言った。
「今夜、我らは漢水を遡る」
誰も、口を開かなかった。
「モンゴルの包囲を突破する」
「襄陽に、物資を届ける」
「行けば、帰れないかもしれない」
張貴が兵たちを見回した。
「それでも、行く者は来い」
誰も、動かなかった。
一瞬だった。
次の瞬間、全員が前に出た。
「俺が、行く」
「俺も」
「俺も行く」
声が重なった。
張貴が、目を細めた。
(こいつらは、本当に南宋の兵だ)
隣に、弟の張順が立っていた。
「兄上、行きましょう」
「ああ。行くぞ」
策はこうだった。
最初はモンゴルの旗を掲げる。
兵士も、モンゴルの鎧を着る。
夜の川を、北へ遡る。
堂々と振る舞えば、最も気づかれない。
古来からの教えだった。
船が、漢水に出た。
百隻。
月明かりがなかった。
「静かに漕げ」
張貴が命じた。
船が、静かに川を進んだ。
モンゴルの旗が、夜風に揺れた。
封鎖線に、近づいた。
川に、鉄鎖が張られていた。
杭が、川底から打ち込まれていた。
見張りの火が、前方に見えた。
「あの船を調べろ!」
モンゴルの見張りが叫んだ。
(露見した)
「偽装を解け!武器を出せ!」
張貴が命じた。
「行くぞ!」
南宋の旗が、夜空に上がった。
「南宋だ!」
「侵入者だ!」
モンゴルの陣営が、騒ぎ始めた。
火矢が、空を飛んだ。
一本、二本、十本。
船の帆に、火が燃え移った。
「怯むな!進め!」
「鎖を斧で切れ!」
張順が命じた。
兵士たちが、川に飛び込んだ。
斧で、鎖を叩いた。
鎖が、火花を散らして切れた。
「突破できる!」
「進め!」
百隻の船が、封鎖線を押した。
矢が雨のように降り注いだ。
兵士が倒れた。
船が燃えた。
それでも、船は進み続けた。
城門が、見えてきた。
「もうすぐだ!」
張貴が叫んだ。
その時、張順が別の船に飛び移った。
「兄上!」
「少し落ち着け!体力の使いすぎだ!」
「大丈夫だ、兄上。俺が敵を引きつける」
「待て!」
張順は、聞かなかった。
船から、川の真ん中へ飛び出した。
「我が名は張順!南宋の義士なり!」
声が、川に響いた。
モンゴルの矢が、張順に集中した。
一本、二本、五本、十本。
それでも、張順は立っていた。
「進め!退くな!」
二十本、三十本。
張順の体が、矢で埋まった。
それでも、倒れなかった。
川の真ん中に立って、叫んでいた。
「南宋を、守れ!」
やがて、張順は川に落ちた。
夜の川が、静かに吸い込んだ。
波紋が、広がって、消えた。
「張順!」
張貴が叫んだ。
声は届かなかった。
「進め!張順の死を、無駄にするな!」
船が、城門に向かった。
モンゴルの陣地。
「南宋もやるなぁ」
アジュが言った。
笑っていたが、その目は真剣だった。
「意外とやりますね」
アリハヤが横にいた。
「あの将軍、名前は何だ」
「張順、と叫んでいました」
「川に落ちました。死んだと思います」
「百の矢を受けても、立っていた」
アジュが静かに言った。
「見事だった」
「敵ながら、あっぱれです」
「そうだな」
「だが、城内に入ったところで、どうにもならない」
「補給が届いても、包囲は続く。いずれ、落ちる」
アリハヤが頷いた。
遼高は、その場で全てを記録していた。
「1271年秋、南宋の張貴・張順、百隻の船で漢水を突破」
「張順、敵の矢を一身に受け、川に落ちて死す」
「張貴、辛くも城内に入り、物資を届ける」
書き終えた。
(張順)
(あの男は、本物だった)
(百の矢を受けても、倒れなかった)
(俺には、ああは戦えない)
(だが、記録することはできる)
(この記録が、あの男の代わりに残る)
遼西が、遼高の記録を読んだ。
「張順か」
「はい」
「百の矢を受けても、倒れなかったのか」
「そうです。川の真ん中で、最後まで叫んでいました」
遼西は、しばらく黙った。
「南宋には、そういう男がいるんだな」
「はい」
「俺たちが攻めている城の中に、そういう人たちがいる」
遼西が窓の外を見た。
「俺の回回砲が、その城を崩す」
「複雑ですか」
「複雑だ」
遼西が答えた。
「でも、記録してくれ。張順のことを」
「きちんと書いておいてくれ」
「はい。もう書きました」
遼西が頷いた。
「それでいい」
遼海が、遼高の記録を受け取った。
「よく書けている」
遼海が言った。
「勝った側だけでなく、負けた側も書いている」
「父上が言っていたことを、実践しています」
「そうだな。これが、本当の記録だ」
遼海は、自分の記録帳を開いた。
「南宋の義士、張順。百の矢を受けても退かず。その名を、後世に残す」
書き終えた。
舜の家。
報告が届いた。
「張貴・張順、漢水突破。張順、戦死。張貴、城内に入る」
舜は、記録を書いた。
「1271年秋、南宋の張貴・張順、漢水包囲を突破。張順、戦死。勇名を残す」
書き終えた。
遼希が聞いた。
「父上、張順という人は」
「見事な男だ」
「敵でも、記録するんですね」
「敵であっても、見事な者は記録する」
舜が答えた。
「それが、俺たちの仕事だ」
「勝った側だけが正しいわけではない」
「負けた側にも、正しさがある」
「それを、後世に伝える」
「それが、記録者の役目だ」
遼希は、頷いた。
記録帳を開いた。
「張順。南宋の義士。漢水に散る」
書いた。
草原の風が、吹いていた。
遠い漢水の戦いが、記録に刻まれていた。
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