Ⅳ アブルカ
時代考証などはすべて集英社「アジア人物史 第5巻 モンゴル帝国のユーラシア統一」に拠ります。
1261年、春。
草原に、雪解けが来た。
アリクブケは、冬の間に態勢を整えていた。
北の遊牧民から馬を集め、補給路を新たに切り開いた。
兵も三万から二万七千に減ったが、精鋭だけを残した。
「春になれば、また動ける」
カラチャルが言った。
「今度は、違う手を使う」
アリクブケが頷いた。
昔木土の敗北を、冬の間中考えていた。
正面だけでは、数の差は埋められない。
アブルカ。
昔木土から北へ、三日の行程だった。
アリクブケが選んだ新たな戦場だった。
「ここは、地形が違う」
アリクブケが地図を示した。
「西に丘がある。そこに精鋭騎馬を隠す」
「クビライ軍が来たら、正面で引き付けておく」
「その間に、丘の騎馬が側面を突く」
カラチャルが言った。
「昔木土では、俺たちは正面だけで戦いました」
「それが敗因だった。今度は奇襲を使う」
遼高は、その軍議を記録していた。
「1261年春、アリクブケ、アブルカに布陣。伏兵戦術を採用」
書き終えて、ボロンに聞いた。
「この策は、うまくいきますか」
「分からん」
ボロンが答えた。
「だが、昔木土と同じことをやっても勝てないのは確かだ」
「今日も後方で記録を取れ。前に出るな。絶対に」
ボロンが、珍しく強い口調で言った。
遼高は、静かに頷いた。
戦場を見渡した。
朝の空気が、冷たく澄んでいた。
兵たちの息が、白く立ち上っていた。
西の丘は、何もないように見えた。
だが、あの中に騎馬が潜んでいる。
(うまくいくか)
(うまくいってほしい。だが、向こうには遼海兄さんがいる)
クビライの陣。
「アリクブケが、アブルカに集結しています」
斥候が報告した。
「数は二万七千ほど。前回より少ないが、精鋭だけ残したようです」
バヤンが地図を見た。
「西に丘がある。あそこが気になる」
遼海が言った。
「俺も、同じことを思っています」
「伏兵かもしれません。前回は正面突撃だけでした。今度は変えてくるはずです」
「両翼に斥候を増やす。丘の動きを常に把握しろ」
「承知しました」
バヤンが兵たちを見回した。
「今日は慎重に行く。前回の轍を踏むな」
「はい!」
遼海は記録に書いた。
「クビライ軍、アブルカへ進軍。アリクブケの伏兵警戒」
記録しながら、思った。
(遼高が、あの中のどこかにいる)
(俺が今書いている情報が、遼高がいる軍を追い詰めるために使われる)
(それでも、書かなければならない)
戦いが始まった。
クビライ軍の前軍が、アリクブケ軍と正面でぶつかった。
激しい戦いが続く中、クビライ軍の前軍がじりじりと後退していった。
(おかしい)
遼海が感じた。
(バヤン将軍は、後退を命じていない)
(では、何が起きている)
その時、西の丘が動いた。
「伏兵だ!」
クビライ軍の右翼が叫んだ。
アリクブケの騎馬が、丘から一気に駆け下りてきた。
「挟まれる!」
クビライ軍の右翼が乱れた。
遼高は、後方からその光景を見ていた。
(うまくいっている)
(アリクブケ様の策が、当たった)
「アリクブケ軍の伏兵、クビライ軍右翼を突く。クビライ軍、右翼に混乱発生」
記録しながら、遼高は複雑な気持ちだった。
(遼海兄さんが、あの混乱の中にいる)
(無事でいてくれ)
バヤンが、すぐに動いた。
「左翼を右へ回せ!右翼を支えろ!」
クビライ軍の左翼が右翼を補うために動いた。
だが、その分、左側が薄くなった。
アリクブケがそれを見逃さなかった。
「左だ!左を突け!」
正面のアリクブケ軍が、左側へ展開した。
クビライ軍が揺れた。
「バヤン将軍!このままでは包囲されます!」
遼海が叫んだ。
「分かっている」
バヤンが決断した。
「全軍、後退。陣を立て直す」
クビライ軍が、引き始めた。
「逃げるな!追え!」
草原に、アリクブケ軍の喊声が響いた。
クビライの天幕。
夜。
「損害は」
「二千です。アリクブケ側は八百ほど」
バヤンが俯いた。
「申し訳ありません」
クビライが言った。
「お前のせいではない。奴らが変えてきた」
「次は、対応策を作れ」
「はい」
クビライが続けた。
「だが、補給の封鎖は続けろ」
「奴らは勝ったが、食料は増えていない」
「時間は、まだこちらの味方だ」
「はい」
遼海は記録を取った。
「アブルカの戦い、アリクブケ軍、伏兵戦術によりクビライ軍を破る。クビライ軍の損害二千」
書き終えた。
(アリクブケが、勝った)
(遼高が、勝った側にいる)
(俺は、負けた側にいる)
複雑だった。
だが、筆を置かなかった。
記録することが、俺の仕事だ。
アリクブケの天幕。
「よくやった」
アリクブケが将軍たちを見回した。
「今日は、俺たちの勝ちだ」
「おおっ!」
将軍たちが喜んだ。
遼高も、その中にいた。
だが、喜べなかった。
(遼海兄さんは、無事か)
ボロンが隣に来た。
「遼高、浮かない顔だな」
「...はい」
遼高が正直に言った。
「兄が、向こうにいます」
「そうか」
ボロンが黙った。
「勝ったが、嬉しくない、か」
「はい」
「俺も、同じ気持ちだ」
ボロンが空を見た。
「だが、これが戦だ。感情では、動けない」
遼高は頷いた。
記録帳を開いた。
「1261年春、アブルカの戦い、アリクブケの勝利」
「しかし、補給問題は解決していない。この戦は、まだ続く」
書き終えた。
ボロンが静かに言った。
「お前の記録が、いつか誰かの役に立つ」
「はい」
「そう信じて、書き続けろ」
遼高は、記録帳を胸に抱いた。
遼高は、ボロンを見た。
不器用でも、この男は信頼できる。
そう思った。
カラコルム。
遼希が、城内を見回った。
市場は、また品物が少なくなっていた。
冬の間に届いた北の遊牧民からの供出も、春になって止まっていた。
遊牧民たちも、限界に近かった。
「遼希様」
カラチャルからの使者が来た。
「アブルカで、勝ちました」
「そうか」
遼希が答えた。
「遼高は」
「無事です」
「よかった」
だが、遼希は笑えなかった。
(勝っても、食料は増えない)
(カラコルムの人々は、まだ苦しんでいる)
遼希は記録帳を開いた。
「1261年春、アブルカの戦い、アリクブケの勝利。しかし、城内の食料事情は改善せず」
書き終えた。
(父上が記録したことを、俺も記録している)
(この記録が、いつか誰かの役に立つことを願う)
西方。
遼西が知らせを受けた。
「アブルカ、アリクブケの勝利。クビライ、損害二千。遼高と遼海、いずれも無事」
「よかった」
遼西は息を吐いた。
「アリクブケが勝ちましたが、フレグ様はいかがお考えですか」
アリフが聞いた。
「変わらない」
遼西が答えた。
「一度勝っても、補給が続かなければ、最後は負ける」
「クビライの封鎖は、まだ続いている」
「時間は、クビライの味方だ」
遼西は、報告書を閉じた。
窓の外を見た。
東の空が、遠かった。
兄たちのいる場所が、遠かった。
舜の家。
報告が届いた。
「アブルカの戦い、アリクブケ軍の勝利。クビライ軍、損害二千。遼高・遼海、いずれも無事」
星歌が声を上げた。
「二人とも、無事だって」
「そうだ」
舜が答えた。
「よかった」
星歌が座り込んだ。
安堵で、足に力が入らなかった。
「今度は、アリクブケが勝ったのね」
「そうだ」
「どちらが、最終的に勝つの」
「分からない」
舜が正直に言った。
「だが、決着はいつか必ずつく」
「その日まで、子供たちが生きていてくれれば、それでいい」
星歌が頷いた。
舜は記録を書いた。
「1261年春、アブルカの戦い。アリクブケ、伏兵戦術でクビライ軍を破る。遼高・遼海、いずれも無事。カラコルムの食料事情は、依然として厳しい」
筆を置いた。
草原の春は、美しかった。
雪解けの水が、大地を潤していた。
だが、戦は続いていた。
二人の息子たちが向かい合い、草原の記録を積み重ねていった。
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