Ⅱ 厳冬
1260年、冬の入り口。
開平。
クビライは、夜の謁見の間に一人でいた。
将軍たちが去り、側近たちも下がった後、一人残った。
蝋燭の火が、大きな柱に影を作っていた。
クビライは地図を広げたまま、動かなかった。
チンギスが作り、オゴデイが広げ、モンケが固めた帝国。
それを、自分が受け継ぐことになった。
(だが、俺のやり方は違う)
チンギスは征服した。モンケも征服した。
だが、クビライには別の考えがあった。
(征服した土地を、きちんと治めたい)
(農民が耕し、商人が行き来し、学者が書物を残す帝国を)
それを「漢人化」と批判する者がいる。
アリクブケも、そう言った。草原の純粋さを失うな、と。
だが、草原だけでは、帝国は続かない。
農地が要る。都市が要る。文書と記録が要る。
遼海が言っていた言葉を、思い出した。
「記録が残れば、後世の人々がこの時代を知ることができます」
(そうだ。俺が作るのは、記録される帝国だ)
耶律鋳が、静かに入ってきた。
耶律楚材の子だった。
「まだ起きておられましたか」
「ああ」
「アリクブケが、動きました。全軍、南へ向かっています。数は三万ほどかと」
クビライは地図を見た。
「こちらは、十万を超える」
「はい」
「だが、野戦は侮れない」
クビライが続けた。
「草原での騎馬戦は、奴らが得意だ」
「補給が持ちません」
耶律鋳が言った。
「三万の軍を、草原で長期間は養えない」
「奴らも分かっているはずです」
「だから賭けに出た」
クビライが頷いた。
「焦らず、包囲する。時間は、こちらの味方だ。慌てる必要はない」
耶律鋳が下がった。
クビライは、窓の外を見た。
冬の夜空に、星が広がっていた。
チンギスも、オゴデイも、この星を見ていたのだろうと思った。
(まず、アリクブケを止める)
(それから、南宋だ)
(全てを、一つに収める)
火が、静かに揺れた。
カラコルム。
アリクブケが軍議を開いていた。
「食料の備蓄が、あと一ヶ月を切りました」
カラチャルが報告した。
「北の遊牧民からの供出も、これ以上は難しいと言っています」
「冬に入れば、さらに厳しくなります」
アリクブケは、静かに聞いていた。
「分かった」
アリクブケが、ゆっくりと立ち上がった。
「動く」
「しかし、クビライの兵力は十万です。我らは三万です」
カラチャルが言った。
「数は問題ではない」
アリクブケが答えた。
「チンギス様も、最初は少ない兵で戦った」
「野戦なら、草原での戦いなら、こちらに分がある」
「クビライは中原の戦い方に慣れすぎた」
「城に籠もり、文官に囲まれ、漢人の兵法を使う」
「冬が来れば、向こうも動きにくくなる。今のうちに打って出る」
将軍のトルゲが前に出た。
「殿下、補給はいかがしますか」
「戦って取る。クビライが俺たちの補給線を断ったように、俺たちも奴らの補給線を断つ」
将軍たちが、顔を上げた。
アリクブケの目に、迷いはなかった。
草原生まれの男が、草原で負けるわけにはいかない。それがアリクブケの矜持だった。
「はい!」
一斉に立ち上がった。
臨安。
南宋の宮廷に、情報が届いていた。
宰相の賈似道が、側近たちを集めた。
「モンゴルが、内輪もめを始めた」
賈似道が言った。
「クビライとアリクブケが、軍を動かしている」
「これは、千載一遇の好機ではないですか」
側近の陳宜中が前に出た。
「今こそ、失った土地を取り戻せます。軍を動かすべきです」
「軽率なことを言うな」
賈似道が首を振った。
「韓侂胄も、同じことを言った。好機だ、金が弱った、と。結果は大敗だ」
「モンゴルが弱ったように見えても、そうではない」
賈似道が続けた。
「クビライが勝てば、より強固な帝国ができる」
「アリクブケが勝てば、草原の武力が戻ってくる」
「どちらに転んでも、我らへの脅威は消えない」
「待つ。動かず、力を蓄え、機会を見定める。焦った方が、負ける」
陳宜中は、不満そうだったが、黙った。
南宋の宮廷は、モンゴルの内乱を、ただ見ていた。それが賈似道の選んだ道だった。
西方。
フレグが、クビライからの書状を読み終えた。
「アリクブケとの決戦が近い。支援を求める」
フレグはしばらく考えた後、書状を畳んだ。
「断る」
フレグが言った。
「クビライにも、アリクブケにも、つかない」
「決着がついた後は別だ。この地はこの地で守る」
遼西が天幕の外に出た。
西の夜空に、星が広がっていた。
(兄たちは、向かい合おうとしている)
(遼海兄さんは封鎖を主導し、遼高兄さんはアリクブケ軍に従い南下した)
(俺はここで、それを見ているだけだ)
(だが、これが俺の場所だ)
アリフが天幕から出てきた。
「遼西様、食事です」
「後で」
遼西が答えた。
(兄たちの分まで、俺は生きる)
星を、もう一度見た。
カラコルム近郊。
アリクブケ軍が、南へ向けて進んでいた。
遼高が、その列の中にいた。
馬上で、南の空を見ていた。
(遼海兄さんは、向こうにいる)
(俺たちは今、向かい合いに向かっている)
ボロンが隣に来た。
「遼高、覚悟はできているか」
「はい。覚悟は、しています」
「だが、引っかかっているな」
「はい」
遼高が正直に言った。
「兄と向かい合うことだけは、したくない」
「戦場とは、そういうものだ」
ボロンが言った。
「出会わないことを、祈れ」
「もし出会ってしまったら、どうすればいいですか」
遼高が聞いた。
ボロンは、すぐには答えなかった。
「その時は、お前が決めるしかない」
遼高は前を向いた。
草原の先に、クビライ軍の旗が見えた。まだ遠い。だが、確実に近づいていた。
冷たい風が、南から吹いてきた。
舜の家。
七星から報告が届いた。
「アリクブケ、出陣」
舜は筆を取った。
「1260年冬、アリクブケ、食料難に追い詰められ出陣を決定。決戦、近し」
「遼高、アリクブケ軍に従い南下。遼海、クビライ軍にて迎撃準備」
「遼希、カラコルムに残留。遼西、西方で中立を継続」
星歌が入ってきた。
「遼高が、動いたのね」
「そうだ」
「遼海と、ぶつかるかもしれない」
「かもしれない」
舜は筆を置かなかった。
「止められないの」
「止められない」
舜が静かに言った。
「だが、早く決着がつけば、子供たちは帰ってくる」
「そう信じて、書き続けるしかない」
「記録して、何になるの」
星歌が聞いた。
「後世に残る」
舜が答えた。
「百年後、二百年後の人間が、この時代を知ることができる」
「俺たちが見たことを、忘れずにいられる」
星歌は黙った。
しばらくして、頷いた。
「そうね」
筆が、止まらなかった。
記録することが、舜の戦だった。
冬の風が、窓を叩いた。
決戦が、近づいていた。




