第二章 第四十五話 出発前の静けさ
人は、長く留まる場所ではありません。
けれど、帰れる場所があるだけで、旅は少しだけ楽になるのでした。
翌朝。
蒼月亭の裏庭では、北から来た男が荷車を確認していた。
修理された車輪は滑らかに回る。
補強板も綺麗に締め直されていた。
「……直ってるな」
男が静かに言う。
カイは少し笑った。
「片側の軸が歪んでました」
「このままだと山道で折れてたと思います」
男は車輪を軽く叩く。
「南の修理屋も侮れんな」
「ありがとうございます」
カイは照れくさそうに頭を掻いた。
その横で、リディアが荷台を見ている。
昨日の刻印。
今朝見ると、やはりただの古い傷にも見えた。
「……」
確信が持てない。
だから何も言わない。
その時だった。
「もう出るのかい?」
ミレーヌが裏口から顔を出した。
男は頷く。
「長居すると面倒になる」
「追われてるの?」
ルナが率直に聞く。
男は少しだけ笑った。
「さてな」
否定はしない。
その空気を見て、ダリウスが口を開く。
「北へ戻るのか」
「ああ」
「また古道を使う?」
男は荷車へ視線を向けた。
「他に早い道がない」
ロークが鼻を鳴らす。
「好き好んで通る道じゃねぇな」
「同感だ」
男も即答した。
その時。
リディアが静かに聞く。
「……向こう側は、今どうなってる」
男は少し黙った。
風が吹く。
石畳の上を、朝の荷車が通っていく音。
やがて男は低く言った。
「落ち着いてはいない」
短い答え。
だが、それだけで十分だった。
ルミアが目を細める。
「争いですか?」
「場所による」
男はそれ以上語らない。
けれど、その沈黙自体が答えだった。
平和ではない。
少なくとも、“何か”が動いている。
その時。
カイが荷車の固定具を締め直しながら言う。
「これならしばらく大丈夫です」
男が視線を向ける。
「……お前、本当に変な修理屋だな」
「よく言われます」
カイは苦笑した。
男はしばらくカイを見ていた。
それから腰袋を探り、小さな金具を取り出す。
黒銀色。
見慣れない金属だった。
「礼だ」
カイが目を瞬かせる。
「いいんですか?」
「車輪一本分にもならん」
男は淡々と言う。
カイは金具を受け取った。
軽い。
だが妙に硬い。
「これ……」
「北側の合金だ」
男が言う。
「加工は難しい」
カイの目が少しだけ変わる。
職人の目だった。
その様子を見て、男は初めて少し笑った。
「気に入ったか」
「はい」
即答だった。
ロークが呆れたように言う。
「鍛治師ってのは皆そういう顔するな」
「珍しい素材なので」
カイは真剣だった。
その空気に、少しだけ笑いが起きる。
そして。
出発の時間が来た。
男は荷車へ乗る。
「世話になった」
ミレーヌが片手を上げた。
「次来る時は金取るよ」
「当然だ」
男は短く返す。
リディアは最後まで男を見ていた。
だが結局、刻印のことは聞かなかった。
まだ繋がっていない。
いや。
繋げたくないのかもしれなかった。
荷車がゆっくり動き出す。
石畳を越え。
正門を抜け。
そしてまた、北側へ向かっていく。
その背中を見送りながら、ダリウスが低く呟いた。
「……また来るな、あいつ」
リディアも静かに頷く。
そんな気がした。
北西古道。
北方山脈。
その向こう側。
紅陽は少しずつ、“知らない世界”と繋がり始めていた。
今回は“北から来た男”の一旦の退場回でした。
多くは語られませんでしたが、“向こう側”が確かに存在していることだけは、全員の中へ残りました。




