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第二章 第四十三話 古い刻印

記憶というものは、不思議なものです。

忘れたと思っていても、ふとした瞬間に、形だけが残っていることがありました。

翌朝。


蒼月亭の裏庭。


カイは北から来た男の荷車を修理していた。


歪んだ車輪を外し、補強板を確認する。


「この鉄、変わってますね」


「北側じゃ普通だ」


男が短く答える。


「寒さで割れにくいよう調整してる」


カイは少し感心したように頷く。


「なるほど……」


「だから薄いのに強いんですね」


そのやり取りを、少し離れた場所からリディアが見ていた。


視線は、荷車後部。


昨日見つけた小さな刻印へ向いている。


削れかけた印。


ほとんど読めない。


だが。


「……」


胸の奥が、わずかに引っかかる。


見たことがある。


そんな気がする。


だが思い出せない。


その時。


「どうしたにゃ?」


ルナが隣へ来た。


「いや……」


リディアは小さく首を振る。


「少し、気になっただけ」


ルナは荷車を見る。


「変な荷車にゃ」


「うん」


リディアも頷く。


普通の街道用ではない。


雪。


岩場。


悪路。


そういう場所を走るための構造。


その時だった。


カイが車輪裏を見て、少し眉をひそめた。


「……これ」


男が視線を向ける。


「どうした」


「補強位置、左右逆です」


静かな空気。


男は数秒黙った。


それから、小さく笑う。


「本当にわかるのか」


「え?」


「普通は気付かん」


男は荷車へ手を置いた。


「元々は、右側通行用だ」


ロークが眉を上げる。


「右?」


「この辺は左寄せだぞ」


「北側は逆なんだよ」


静かになる。


それだけで、“向こう側”の実感が出る。


別の土地。


別の文化。


別の流れ。


リディアはその言葉を聞きながら、また刻印を見る。


そしてふと、昔の景色が脳裏を掠めた。


雪。


石造りの廊下。


王女の護衛列。


運び込まれる木箱。


その箱の端に――


「……あ」


ほんの小さな声。


だが誰も聞かなかった。


記憶はそこで途切れる。


確信にはならない。


ただ、“どこかで見た”。


それだけだった。


その時、ミレーヌが裏口を開ける。


「カイー!」


「昼の仕込み手伝っとくれ!」


「はーい!」


カイは慌てて立ち上がった。


男が少し呆れた顔をする。


「お前、鍛治師じゃないのか」


「修理屋です」


カイは笑った。


「あと雑用係です」


ロークが吹き出す。


「間違ってないな」


そのままカイは蒼月亭へ戻っていく。


男は、その背中を静かに見ていた。


「……妙だな」


小さく呟く。


「何が?」


ダリウスが聞く。


男は少し考え、それから首を振った。


「いや」


「こんな場所が、まだ残ってたんだなと思ってな」


風が吹く。


石畳の向こうでは、今日も荷車が行き交っていた。


紅陽は、少しずつ世界と繋がり始めている。


だがその世界は、まだ誰にも全貌を見せてはいなかった。

今回は“古い刻印”と“北側文化”が少しだけ見える回でした。

まだ断片的ですが、リディアの記憶とも少しずつ繋がり始めています。

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