第二章 第四十一話 北から来た男
知らない道の先には、知らない世界があります。
そして時々、その“向こう側”から人がやって来ることもありました。
昼下がり。
蒼月亭は、珍しく少し落ち着いていた。
昼の客足が一段落し、食器を片付ける音だけが響いている。
「今のうちに休んどきな」
ミレーヌが言う。
「夕方からまた増えるよ」
「はい」
ルミアとカリナが頷く。
その時だった。
外から、妙な音が聞こえた。
――ギ、ギギ……
重い。
しかも不安定な車輪音。
リディアが最初に反応する。
「……止まって」
空気が少し変わる。
カイも外を見る。
正門側。
一台の荷車が、ゆっくり紅陽へ入ってきていた。
だが様子がおかしい。
車輪が片側だけ歪んでいる。
補強板も見たことがない形。
しかも。
「……寒冷地仕様?」
カイが小さく呟く。
荷車には厚い革布。
金具も特殊だった。
そして御者。
灰色の外套。
深く被ったフード。
普通の旅人に見える。
だが。
「魔族領の装備じゃないですね」
カリナが目を細める。
ダリウスもいつの間にか入口へ来ていた。
「軍式でもないな」
荷車は蒼月亭前で止まった。
御者の男が、ゆっくり顔を上げる。
若くはない。
だが妙に疲れていた。
「……宿、あるか」
低い声。
訛りが少し違う。
ルミアが眉をひそめた。
「その話し方……」
男は周囲を見た。
石畳。
蒼月亭。
広場。
そして少し驚いたような顔をする。
「ここ、紅陽か?」
「そうだよ」
ミレーヌが答える。
男は小さく息を吐いた。
「……本当にあったのか」
空気が静かになる。
リディアが聞く。
「どこから来た」
男は少し黙った。
それから。
「北だ」
短く答える。
ダリウスの目が細くなる。
「古道を使ったのか」
男がゆっくり視線を向ける。
「……知ってるのか?」
「存在だけはな」
男はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「南側じゃ、とっくに消えた道だと思われてる」
その言葉に、全員の空気が変わる。
“向こう側”から来た。
少なくとも、この男は本当に古道を越えている。
カイは静かに荷車へ近付いた。
壊れた車輪を見る。
「……見たことない作りです」
木材の組み方。
鉄板補強。
全部が違う。
しかも。
「軽い」
カイが少し驚く。
「この大きさで?」
男が初めて少し興味を示した。
「……わかるのか」
「修理屋なので」
カイは苦笑する。
男はしばらくカイを見ていた。
それから、ぽつりと呟く。
「南にも、まだ職人が残ってたか」
その言葉に、ロークが眉をひそめる。
「“まだ”ってなんだよ」
男はすぐには答えなかった。
代わりに、蒼月亭の中を見る。
温かい灯り。
料理の匂い。
笑い声。
そして人の気配。
まるで、久しぶりに安心したような顔をした。
「……悪い」
「まず飯をくれ」
ミレーヌが鼻で笑う。
「最初からそう言いな」
「ルナ、スープ!」
「はーいにゃ!」
空気が少しだけ緩む。
だが。
リディアだけは、静かに男を見ていた。
北西古道。
北方山脈。
そして、“向こう側”。
今まで噂だけだった流れが、初めて“人”として紅陽へ現れた。
今回は“北西古道を越えてきた人物”登場回でした。
まだ正体も目的も不明ですが、“向こう側”が本当に存在していることだけは確かになりました。




