第二章 第三十話 暖簾を預けて
ずっと隣に立ち続けることだけが、支えることではありません。
任せて離れることもまた、大事な役目でした。
川辺の村へ来てから、五日ほどが経っていた。
朝。
蒼月亭 川辺宿は、今日も忙しい。
「お待たせしました!」
リナが料理を運ぶ。
動きはまだ少しぎこちない。
だが初日とは違う。
客席を見て。
厨房を見て。
流れを見て動けるようになってきていた。
「水追加お願い!」
「はい!」
エマも自然に返す。
二人の呼吸も合い始めている。
厨房では、ミレーヌが腕を組みながらその様子を見ていた。
「……悪くないねぇ」
「かなり慣れましたね」
カイも頷く。
実際、店は回っていた。
荷運び達も、橋待ち商人達も、自然にこの宿へ入ってくる。
「いつもの煮込みあるか?」
なんて言葉まで出始めている。
完全に馴染み始めていた。
その時。
「リナ!」
客席から声。
「パン追加!」
「はい!」
即答。
しかも今度は間違えない。
エマも自然に皿を下げていく。
ミレーヌは小さく笑った。
「もう大丈夫だねぇ」
昼営業が終わった頃。
店内は少し落ち着いていた。
リナは机へ突っ伏している。
「疲れたぁ……」
「でも昨日より顔いいですよ」
カイが苦笑する。
「昨日は半分死んでましたし」
「否定できない……」
その時。
ミレーヌが静かに口を開いた。
「じゃ、そろそろ帰るかね」
空気が止まる。
「……え?」
リナが顔を上げた。
「え、帰るって」
「紅陽に」
ミレーヌは当然のように言う。
「こっちも店あるしねぇ」
リナの顔が一気に不安そうになる。
「で、でも……」
「なんとかなる」
即答だった。
「最初から完璧にやろうとしなくていい」
ミレーヌはゆっくり立ち上がる。
「困ったら聞きに来な」
「失敗したら直せばいい」
「宿なんて、その繰り返しだよ」
リナはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
その顔には、最初ほどの怯えはなかった。
不安はある。
でも、逃げたくはない。
そんな顔だった。
外では、カイが荷車を確認していた。
「帰りも問題なさそうですね」
「助かったよ」
御者が笑う。
その横で、リディアが静かに周囲を見ている。
数日の間に、川辺の村の空気も少し変わっていた。
橋を渡る人が増え。
宿へ入る灯りが増え。
夜でも少し、人の声がする。
小さい。
だが確実な変化だ。
その時。
「カイさん!」
リナが走ってきた。
「これ」
差し出されたのは、小さな包みだった。
「パン?」
「試しに作ってみたんです」
少し照れ臭そうに笑う。
「蒼月亭の煮込み、挟んであります」
カイは少し驚き、それから笑った。
「ありがとうございます」
「まだミレーヌさんほどじゃないですけど」
「でも、ちゃんと蒼月亭の味でした」
その言葉に、リナは少しだけ嬉しそうな顔をした。
出発前。
ミレーヌは入口の看板を見上げた。
――蒼月亭 川辺宿
まだ新しい木の匂いが残っている。
「……いい宿にしな」
静かな声だった。
リナは深く頭を下げる。
「はい!」
荷車が動き出す。
カイ。
ミレーヌ。
リディア。
三人はゆっくり紅陽への道を戻り始めた。
その後ろ。
川辺の小さな宿には、今日も灯りがともっている。
今度はもう、“借りた灯り”ではない。
リナ達自身の灯りだった。
今回は“暖簾を預ける回”でした。
蒼月亭の灯りが、少しずつ外へ広がり始めています。




