第二章 第二十九話 女将の背中
新しい場所を始める時、一人で全部できる人はいません。
だからこそ、“背中を見せる人”が必要なのでした。
「……筋肉痛にゃ」
翌朝。
そんな声が聞こえてきそうなくらい、リナとエマは疲れ切っていた。
実際にはルナはいない。
だが、それくらい酷い顔をしていた。
「立てる?」
ミレーヌが笑いながら聞く。
「……なんとか」
リナが机に突っ伏したまま答える。
エマはすでに魂が抜けかけていた。
「昨日、何人来たんですか……」
「数えてないねぇ」
ミレーヌは平然としている。
「数える暇なかったし」
厨房では、カイが朝から仕込みを手伝っていた。
「鍋こっち置きますね」
「ありがとう」
「あと椅子、一脚補強しておきました」
「もう!?」
リナが顔を上げる。
「昨日ぐらついてたので」
カイは苦笑する。
完全に裏方の救世主である。
しかも今回は、宿そのものの構造も把握している。
どこが壊れやすいか。
どこへ負荷が集中するか。
全部見えていた。
「……カイさんいなかったら初日で終わってました」
エマが真顔で言った。
「そんなことないですよ」
「あります!」
即答だった。
その時。
ミレーヌが鍋を混ぜながら口を開く。
「昨日の反省やるよ」
空気が少し変わる。
リナとエマが姿勢を正した。
「まず、水」
「はい!」
「切らしかけた」
「はい……」
「宿屋は料理より先に水止めるな」
真面目な声だった。
「次、動線」
「ぶつかってました……」
エマが小さくなる。
「慌てると余計遅くなる」
「はい」
「あと注文」
ミレーヌはニヤッと笑った。
「リナ、三回間違えた」
「うっ……」
「でも二回はエマも悪い」
「えぇっ!?」
「厨房前で止まるからだよ」
「す、すみません!」
怒鳴らない。
だが全部見ている。
これがミレーヌのやり方だった。
カイは少し離れた場所で、それを静かに聞いていた。
「……やっぱりすごいですね」
ぽつりと呟く。
「何が?」
リディアが聞く。
「ミレーヌさん」
カイは少し笑った。
「ちゃんと回るように教えてる」
その言葉通りだった。
単に助けるだけではない。
“続けられる形”を作っている。
その頃。
店の外では、すでに客が待ち始めていた。
「もう開くか?」
「昨日の煮込み残ってねぇかな」
完全に固定客が付き始めている。
エマが窓から見て青ざめた。
「も、もう来てます!」
「そりゃ来るよ」
ミレーヌは当然のように言う。
「橋待ち連中は、休める場所探してるんだから」
そして立ち上がる。
「よし」
その顔は、完全に女将だった。
「今日は私も表出る」
「えっ」
リナが驚く。
「昨日は様子見だったけどねぇ」
ミレーヌは腕まくりした。
「今日は“蒼月亭”を教えるよ」
その瞬間。
空気が変わった。
店が締まる感じ。
軸が通る感じ。
長年、蒼月亭を回してきた女将の空気だった。
開店。
同時に客が流れ込む。
「四名!」
「二階一部屋!」
「煮込み二つ追加!」
だが昨日と違う。
ミレーヌが中央に立つだけで、流れが整理される。
「エマ、水先!」
「はい!」
「リナ、注文復唱!」
「はい!」
「カイ、パンお願い!」
「わかりました!」
全員が自然に動き始める。
その様子を見ながら、リディアは静かに外を見ていた。
川辺の村。
行き交う荷車。
橋を渡る人々。
そして、この小さな宿。
守るものが、また増えている。
その実感が、少しずつ形になり始めていた。
今回は“ミレーヌ女将回”でした。
蒼月亭の強さは、料理だけではなく、「回し方」にもあるのかもしれません。




