第二章 第二十八話 初日の灯り
どんな宿でも、最初の一日は特別です。
うまくいくことも、失敗することも、全部まとめて“始まり”なのでした。
「開けるよ!」
朝。
リナの声が、少しだけ裏返った。
「落ち着きなって」
ミレーヌが苦笑する。
「最初から完璧な宿なんてないよ」
「で、でも……!」
緊張している。
顔を見れば丸わかりだった。
入口には、新しい看板。
――蒼月亭 川辺宿
まだ木の匂いが残っている。
厨房では、カイが最後の確認をしていた。
「釜、大丈夫です」
「水回りも問題なし」
「扉も閉まります」
「閉まらなかったら困るにゃ」
リディアの横でルナが言いそうな空気だったが、今回はいない。
代わりにリディアが静かに頷いていた。
「問題ない」
護衛視点での安全確認である。
ミレーヌは鍋を覗く。
「煮込みよし」
「パンよし」
「……まぁ、なんとかなるだろ」
その瞬間。
ガラッ。
入口が開いた。
「おっ、本当に蒼月亭だ!」
荷運びの男達だった。
橋仕事帰りらしい。
「昨日匂いしてたとこだろ?」
「飯あるか!?」
リナが一瞬固まる。
「え、あ、はい!」
「四名!」
「はいぃっ!」
完全にテンパっていた。
エマが慌てて水を持っていく。
ミレーヌはその様子を見ながら笑っている。
「始まったねぇ」
だが。
それで終わらなかった。
昼前には、さらに客が増える。
商人。
旅人。
護衛冒険者。
橋待ちの荷運び。
「すみません二名!」
「パン追加!」
「水切れそうです!」
「鍋見て!」
完全に戦場だった。
「落ち着いて動く!」
ミレーヌの声が飛ぶ。
「走るとぶつかる!」
「はい!」
リナとエマは必死だった。
だが不思議と、店は回っている。
多少遅い。
多少慌てる。
それでも客は文句を言わない。
むしろ。
「うまっ」
煮込みを食べた商人が目を丸くする。
「蒼月亭の味だ」
「本当に来たんだな」
噂が繋がっていく。
その横で。
カイは壊れた椅子を直していた。
「もう壊れた!?」
「荷運び連中が座り方雑なんですよ」
エマが半泣きで言う。
「大丈夫です」
カイは苦笑する。
「直せますから」
リディアは入口近くで静かに周囲を見ていた。
完全に用心棒みたいになっている。
そのせいか、店内は妙に平和だった。
「なんか怖くて揉める気しねぇ……」
護衛の男が小声で呟く。
夕方。
鍋が空になった。
パンも残り二つ。
「……終わった」
リナが呆然と呟く。
エマは椅子へ崩れ落ちた。
「足……痛い……」
ミレーヌが鍋の底を見る。
「食材、全部売れたねぇ」
「営業終了ですか?」
カイが聞く。
「終了」
ミレーヌは即答した。
「初日で無理しても潰れるだけだ」
入口へ向かう。
そして看板を裏返した。
――本日終了
その瞬間。
外にいた荷運び達が声を上げる。
「もう終わりか!?」
「早ぇ!」
「また明日来い!」
ミレーヌが笑いながら返す。
「仕込みが追いつかないんだよ!」
店内では、リナがまだ呆然としていた。
「……終わった」
「始まったんだよ」
ミレーヌが静かに言う。
「ここからが、本番」
リナはゆっくり店内を見る。
空になった皿。
使い切った鍋。
笑って帰った客達。
そして入口の看板。
――蒼月亭 川辺宿
小さな宿だ。
まだ始まったばかり。
それでも確かに、“誰かが帰ってくる場所”になり始めていた。
今回は“蒼月亭 川辺宿 開業初日”回でした。
小さな宿ですが、ここから少しずつ「紅陽の外の蒼月亭」が育っていきます。




