第二章 第二十四話 小さな暖簾分け
大きな店は、最初から大きかったわけではありません。
誰かが一歩踏み出したところから、少しずつ始まっていくのでした。
出発の日。
朝の紅陽は、いつも通り忙しかった。
荷車の音。
鍛冶場の金属音。
石畳を行き交う人々。
その中央通りを、小さな荷車がゆっくり進んでいる。
「緊張してるにゃ?」
ルナが荷車の横を歩きながら聞く。
「……してます」
リナは素直に頷いた。
荷車には最低限の荷物だけ。
鍋。
食器。
布。
簡易看板。
そして、ミレーヌ直伝の調味料。
「最初から全部揃えなくていいんだよ」
ミレーヌは気楽そうに言う。
「まずは回すこと」
「はい」
「部屋も最初は少なくていい」
「無理して広げると潰れるからねぇ」
完全に女将の顔だった。
その横では、カイが荷車の車輪を確認している。
「揺れ大丈夫そうですね」
「石畳できてからかなり楽だよ」
御者が笑った。
以前なら、この程度の荷物でも泥にはまっていた。
今は違う。
荷車は安定して進む。
その後ろ。
リディアが静かに周囲を見ていた。
完全に護衛の立ち位置である。
「リディアさん、そんな警戒しなくても……」
リナが少し苦笑する。
「カイがいる」
即答だった。
理由が一切ぶれない。
ルナが吹き出した。
「ほんと一貫してるにゃ」
その時。
フィオが蒼月亭の入口から顔を出した。
「なぁ、そっち行っちゃって大丈夫なの?」
「こっちの蒼月亭」
ミレーヌは振り返りもせず答える。
「昔従業員だった子達が回すんだよ」
「子達?」
「ルミアとカリナ」
フィオが一瞬止まった。
「いやその二人、今もう完全に偉い側だろ」
「元は皿洗い」
ミレーヌは平然としていた。
「……想像できねぇ」
その頃。
蒼月亭の中では。
「注文整理終わりました」
カリナが帳簿を閉じる。
「西側席、あと二組入れます」
「今日は荷運び多いわね」
ルミアは料理を運びながら言った。
完全に慣れている。
昔、本当に回していたのだ。
「……なんで王女が普通に給仕できるんだろうな」
レオンが呟く。
「適応力にゃ」
ルナが即答した。
「あとカリナが強い」
「否定しません」
店内から即座に返ってきた。
笑いが起きる。
そんな空気の中。
荷車はゆっくり西門を抜けていく。
紅陽の外。
街道。
完成した石畳は、門の外まで少しだけ伸びていた。
「ほんと便利になりましたね」
リナがぽつりと言う。
「便利になると、人は動く」
ミレーヌは前を見たまま言った。
「人が動けば、休む場所もいる」
「だから宿を作る」
シンプルな理屈だった。
だが、それが街を広げていく。
しばらく進む。
森へ続く分岐が見えてきた時だった。
リディアがふと足を止めた。
「……どうした?」
カイが聞く。
リディアは地面を見ていた。
街道脇。
雨上がりで少し柔らかくなった土。
そこに、深い轍跡が残っている。
しかも複数。
「重い荷車」
カイもすぐ気付いた。
「かなり重量ありますね」
リディアはしゃがみ込み、跡を指でなぞる。
「最近のもの」
「商隊じゃないの?」
リナが聞く。
だがリディアは首を横に振った。
「街道を外れてる」
轍は、途中から森側へ逸れていた。
しかも隠すように。
空気が少し静かになる。
ミレーヌも視線を向けた。
「……嫌な感じだねぇ」
だが。
リディアは立ち上がった。
「今は追わない」
「宿が先」
カイも頷く。
「ですね」
あくまで今回の目的は、川辺の村。
“人が安心して休める場所”を作ること。
その裏側にある不穏は、まだ霧の中だった。
荷車は再び動き出す。
紅陽から伸びた流れは、少しずつ外の世界へ広がり始めていた。
今回は“蒼月亭暖簾分けの始まり”回でした。




